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朝日姫の輿入れ 1

 家康とその家臣たちが上洛を拒み続けたのは、災害と戦で疲弊した領国の建て直しが急務であったことに加え、小牧・長久手の役で池田恒興父子と森長可を殺した報復で殺されるのを恐れていたからだ。しかし十一月の地震のあと、徳川方が京・大坂の様子を探ると、秀吉が軍を動かすのは今のところないようだった。

 年が明けて天正十四年(一五八六)正月、秀吉の意向を受けた織田信雄は岡崎城で家康と対面し、秀吉との和睦を促した。これに家康は応じ、秀吉に臣従することになった。

 二月、家康の返答を受けた関白秀吉は、家康を赦し、「家康成敗」を中止すると臣下に告げた。

 三月に家康は北条の前当主だった氏政と伊豆国三島、駿河国沼津で二度会見をし、この間の事情を説明した上で同盟関係の継続を確認した。



 須和が殿から正室を迎えることを直接聞いたのは、二月の終わりのことである。

「羽柴の妹を正室に迎えることになった。阿茶、そなたを側に置くことがかなわなくなった」

 はあ、と殿が息を吐いた。

「そなたとの子が欲しかったが、仕方がない。上臈としての勤めに戻ってくれ。しばらくお愛の許へ行くといい」

「……かしこまりました」

 須和は一礼して御前を下がった。

(はきと申されぬ殿は、本当に言葉足らずなんだから)

 徳川家の存続のため、羽柴の妹と政略結婚するのは理解できた。側室としての勤めがやがて終わるだろうと覚悟もしていたので、感情の方も荒立てず、抑えることができた。でも、詳細が分からない。

 須和は三島局に、殿からお愛の方さまの許へ戻るよう指示されたことを伝えた。

「そうなのです。和睦のために殿は羽柴の妹と結婚するのですって。今は関白殿下の妹となっていますが、元は農家の娘ですよ。武家の正室の役割を分かっているのでしょうかねえ」

 三島局は大いに不満のようで、ぶつぶつ言っている。



 太閤・秀吉には、姉と弟と妹がいた。

 姉は秀吉と父母が同じでともといい、海東郡乙之村の住人・弥助(のちに三好吉房)の妻となって三人の男子、秀次・小吉秀勝・秀保を産んだ。異父弟の小一郎秀長は兄に従って軍事・内政に功があり、異父妹がこのたび家康の正室となる朝日(旭)である。

 朝日は初め農家の嫁になった。ところが兄が出世し、そのため朝日の夫も木下姓を名乗れと言われ、さらに佐治日向守と名を与えられたが、環境の激変に心身がついていかなかったのか、すぐに亡くなってしまった。次に兄が婿として連れて来たのは織田家中の副田甚兵衛吉成という真面目な男だった。農家の娘だった朝日を理解してくれ、そこで朝日は穏やかに暮らしていた。

 だが、兄はそのささやかな幸せを許してくれなかった。母に会わせると言って大坂城に呼び寄せ、甚兵衛との離縁と徳川家康との再婚を朝日に言い渡した。

 夫の副田甚兵衛には五百石を捨扶持として与えたが、甚兵衛は激怒し、出家してしまった。

 秀吉は妹の朝日を強制的に離縁させる一方で、二月二十二日に織田信雄の家臣・滝川雄利と土方雄久を徳川の宿老・酒井忠次にいる吉田(豊橋市)に派遣して縁組を持ち掛け、忠次から聞いてこれを了承した家康は榊原康政を代理として上洛させ、結納を取り交わした。



 奥向きに殿がやってきて御方おかたさまたちや上臈女房(上級侍女)を集めてことの次第を説明したのは、榊原さまが西へ旅立ったあとのことである。

「このたび、わしは正室を迎えることになった。羽柴との和睦のためだ。世継ぎはたとえ羽柴の妹に子ができても長丸であることは向こうにも了解を取ってある。そして内々にだが、正室を置くことで女たちの地位を定めると言ってきおった。幼い子のいるお都摩とお竹は側女そばめとし、閨をいとました者で子のいる者は上臈、今まで上臈としていた者は中臈とする、と」

 側仕えの侍女たちの間から怒りの声が上がったが、三島局が「御前であるますぞ」と一喝すると静まった。

「委細承けたまりました」

 お愛の方さまが頭を下げる。

「殿の仰せに従いまする」

 西郡の方さまも続いて頭を下げた。

 後に控える侍女たちが一斉に平伏すると、殿は座を立って去って行った。

「みな、殿のお言葉に従い、ご正室さまを快くお迎えするのですよ」

 すっくと立って振り返ったお愛の方さまが告げる。

 一同が再び平伏し、その前をふたりの御方おかたさまとお都摩さま、お竹さまが続いて廊下に出たところで、須和は侍女たちを見回し、声をかけた。

「三島局さま、倉見局さま、上臈の皆さま方は今しばらくここにお待ちいただくわけにはいかないでしょうか。ご相談したいことがございます」

 と、言ったのが聞こえたのか、側仕えを従えて去ったはずのお愛の方さまが戻って来た。

「あら、須和。わたくしに聞かせたくない話かしら?」

「ま、それは知りたいこと。内緒話は大好きですの」

 西郡の方さまも悪戯っぽく笑っている。

「えーその。ご不快になるかと。それにご無礼なことを申し上げてしまうかもしれませんし」

「かまいませんよ」

「そうですとも」

 お愛の方さまと西郡の方さまはすでに上座へ坐ってしまった。お都摩さまとお竹さまも脇に控えた。

「わたくしたちを気にせず。さ、どうぞ」

 ふんわり温かな雰囲気のお愛の方さまだが、こうなると梃子でも動かぬことを須和は知っていたので、小さく溜め息をついて上臈をはじめとする侍女たちに向き直った。

「まずは、わたくしたちの会話をお聞きください」

 と、須和は廊下に控えていた早霧に目をやり、側近くに呼んだ。

「わたくしの側仕えの早霧は甲賀の出で、普段は東国の言葉で話していますが近江の言葉も使います。……早霧、地の言葉で話してみて」

 須和は命じると、早霧は近江言葉で何かを話した。

 甲賀に近い伊賀出身者以外は、けげんな顔をしている。

「では、今からわたくしが娘時分に習い覚えた公家言葉で話します」

 須和の言葉に、今度はその場の全員が理解できない、といった顔をした。

「ね、お分かりにならないでしょう? 殿は『正室を迎えるから、良きようにせよ』と簡単におっしゃいますが、朝日姫さまは尾張の出身なので三河の言葉でも通じるでしょうが、お付きの女房たちはおそらく近江の武家か京の公家出身だと思われます。東国を出たことのない私たちとは、おそらく話が通じないのですよ」

 はあーっ、と須和はわざとらしく溜め息をついた。

 わっと侍女たちが騒ぎ出す。

「お静かに!」

 そのとき、於茶阿局が叫んだ。

 すぐに、しんとなる。

「阿茶局さま、もったいぶらないでくださる? そういう澄ましたところが嫌なのよ。はっきりおっしゃい」

 と、睨んだ。

「ふふ。於茶阿局さまはさすが、察しがよいこと」

「嫌味かしら」

「あら、褒めたのですよ」

「須和、仲良くおしゃべりしていないで、話を進めてちょうだい」

 お愛の方さまに先を促され、須和が続ける。「仲がいい?」ぐぬぬ、とつぶやいた於茶阿局は横に置いておいた。

「北条との同盟と違って、羽柴からやってくる正室とそのお付きはすべて間諜と思って良いでしょう。つい先日まで、羽柴は徳川を攻め滅ぼすと声高に言っていました。その羽柴は何を考えているか。間諜というだけでなく、殿や若君、姫さまたちのお命を狙う者を婚儀によって引き入れることになるとしたら?」

 須和が言うと、一同が真っ青になった。

「これは可能性の話です。お命を狙うことなく、徳川と仲良うしてくださるやもしれませぬ」

「いえいえ。阿茶局どの、ありうる仮定の話ではなく、確実にそうでありましょう。かつて、まだ武田勝頼公がご存命の頃、殿へ暗殺者が放たれました。それは見目麗しい若者で、小姓としてお仕えしておりましたが、殿がいつものようにご就寝されようとした際、その日たまたま持仏に念仏を奉じていないことに思い至り、床を離れたとき、その小姓、殿が寝ておられると思って布団を刀を刺したところ、無人であって事なきを得たということがありました。慈悲深い殿は、その小姓を生きて解き放ちましたが、一度あったことは、何度でもありましょう。油断はなりません」

 三島局が険しい顔で言った。

 小さな悲鳴が侍女たちの間から上がり、四人の御方おかたさまの顔色が悪い。

「ではみなさま、警戒はいたしましょう。甲賀と伊賀の武芸に長じた女を侍女として要所に配置し、毒見は念入りに、羽柴方の者たちは端女はしために至るまで監視し、向こうから話しかけられても言葉が分からないふりをし、すぐに上役に内容を報告。本当に分からなかったら、その事実だけでもよいので報せてください。ただ、あまり気を張り過ぎると、若君と姫さまたちが怯えてしまうので、普段通りに動いてくださいませね」

 須和がにこりとすると、張っていた雰囲気が少し和らいだ。

 詳しいことは後日、ということで、その場は解散した。

 上臈女房だけが残り、婚儀のこと含めてこれから何度も打ち合わせることを決めた。

 あらかた奥での迎え方が決まったところで、三島局が殿へ報告し、須和が長丸君の守り役の内藤どのへ奥向きの方針を伝えた。

 内藤さまの部屋を辞して牧尾を従え、戻ろうとした須和に、旧知の酒井忠利どのが声をかけてきた。今は長丸君についているため、しばらく殿の側にいた須和とは数年ぶりの邂逅だ。

「阿茶局どの、久しぶりにお見掛けするが、息災のご様子で何より」

「忠利さまも、蟹江城でのお手柄、聞き及んでおります。おめでたきことでございます」

 振り返った須和は一礼した。奥での身分だと、まだ上臈の須和の方が忠利より上かもしれない。

「若君付きの溜りまで聞こえておるぞ。何やら画策しておるようじゃの」

 忠利どのが、にやりとした。

「はて。何をお聞き及びか存じませぬが」

 と、須和はあでやかに笑った。

「我らは、女のいくさをいたすまで」

 そう答えて裾を払い、須和は去って行った。









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