駿河での暮らし
かつて御裏様の屋敷で須和に様々なことを教えてくれた淡路局はこう言った。
『そなたは聡い。〝一を聞いて十を知る〟とは、そなたのような者であろう。女の身で仮名も真名も読み書きができ、和歌・琴・武芸もひと通りできる。大名の妻なれば、それも良かろうが、そなたは地下の者じゃ。男からも女からも、その才を疎まれようぞ。されば、爪を隠して生きよ。どれほどつらかろうが、阿呆になれ』
まこと、お言葉が身に染みております。
須和は心の中で、淡路局に答えた。
甲府にはひと月ほどいて、その間に孫左衛門は下女のマツを売り、須和が持ってきた米を売って、それを元に若く元気な馬を買った。
「わしもいずれは馬乗り身分になるからの」
と、上機嫌な夫は、馬に妻の須和を乗せて自分はそれを曳き、徒歩で一条様の行列に従っている。
(この馬は若すぎて、まだ調教が必要みたい。戦場では、少し年とって落ち着いた馬が良いというのに、そんなことも知らんのかしら)
甲斐では信玄公の意向でどの家でも馬を飼っていたため、須和も馬の世話をし、詳しい。少しばかり目利きでもある。
夫の孫左衛門は、従順にしておれば、特になんということもなかった。その夫を須和が観察するに、文字は自分の名前を書ける程度。読むのはたどたどしく、自慢の槍というのも、修練の様子を見る限り、須和より腕が何段か落ちる。
それに夫は須和のことを不美人と決めつけたが、これまで周囲からそんなことを言われたことのない須和には納得できない。公家の御裏様の屋敷で教育された須和は、京女の化粧の仕方も習った。京では確かに夫が言うように、ふっくらとした色白美人がもてはやされる。しかし、東国では少し違う。細面で柳腰の者も美しいとされた。宮中では何人もの男と関係を持つ女房(侍女)も許容されるが、吾妻では一人の男を一途に想い続けるのが貞淑とされ、東と西では倫理観も違う。
武芸をたしなむ須和は、すらりとした柳腰だった。細面で切れ長の目をしているが、今は野良仕事で日に焼け、化粧もしていない。だがもともとは色白で、艶やかな黒髪をしていた。少なくとも夫が言うようなブサイクではない。しかし夫を一途に慕う妻には、なれそうもなかった。知れば知るほど嫌悪感が湧く。
(でも、何も言うまい)
くわばら、くわばら。『矜持を傷つけられた孫左衛門は狂乱する』と、マツが言っていたから。
売られていく前に、マツは須和のところへ挨拶にかこつけてやってき、教えてくれた。
『オカタさま、気ィつけなされ。あるじは仲間内で喧嘩などがあると仲裁に回り、仏のようなお人との評判でありまするが、外での不満を家で吐きだして、うらなどは何度殴られたかしれまッせん。源三郎さと与一さも同様でございマス。おまけにうらは、ずっと閨の相手をさせられておりマした。子ができても、水子にさせられ、ときに源三郎さの相手もさせられマした。あるじはオカタさまを娶られマしたが、妻ひとりで満足する御方ではありまッせん』
と、マツは相模訛りで語った。どうやら北条氏との国境の村にいた者のようだが、戦のとき、武田の雑兵に囚われて売られてきたのだった。
夫はマツを人買いに売った。行き先はわからない。
『体をいとうてね』
別れのとき、須和はそれしか言えなかった。今の自分は神尾孫左衛門の妻となっているが、状況が変われば、容易にマツと同じ立場になるのだ。
甲府を出て御坂峠を越えるとき、そこから富士が美しく見えると聞いていたので須和は期待していた。秋の頃で周囲は紅葉して華やかだったが、富士の御山は雲に隠れて、それはかなわなかった。
峠を越えて富士のすそ野をぐるりとゆけば、駿河国である。
夫の仕える一条信龍が城代を務める田中城は、武田氏の駿河侵攻によって占拠した今川氏の徳一色城を田中城と改称し、短期間で大改修をしたものだった。城地を拡大し、同心円状に曲輪を配置、馬出曲輪が幾つも作られている。武田氏が駿河経由で東へ向かう際の重要拠点であり、近くの清水之津(江尻の近辺)には今川氏攻略で得た海賊衆(水軍)の陣もあった。
この城の詳しい話を聞いたのは、夫の朋輩の妻たちの噂話からだった。
だからここは、とても安全なんだよ、と。
田中城内にある徒士組のお長屋は、甲府のと違って広かった。甲府では一条様の館の敷地内ということで棟続きの建物だったが、ここでは狭いながらも区画が仕切られ、厩と庭もあり、庭で畑仕事ができそうだった。生垣の向こうに見える隣家では葱や菜っ葉などが作られていた。ただ、井戸は共同だった。
「お隣には何様がお住まいですの。ご挨拶に行かねば」
「そんなもんは、せんでいい」
夫は突っぱねたが、須和は入り豆を小綺麗な布に包んで手土産とし、小夜を連れて両隣へ挨拶に行った。帰ってきたら、平手で殴られたが。
(女同士の繋がりがどれほど大事か、この人は分かっとらん)
御裏様の屋敷で須和は淡路局から、『武家であろうと公家であろうと、夫と妻はそれぞれの伝手で知った情報をすり合わせ、家の方針を決めるのだ』と習った。たとえ安く買った妻だろうが、出世を願うなら、妻たちの情報網を軽んじてはいけない。井戸端のたわいないおしゃべりから、重要なことが分かる場合もあるのだ。
女社会の機微を、御裏様の屋敷で須和は十分すぎるほど学んだ。夫のためでなく、自分のためにも情報がいるのだ。殴られようと、これは必要なことだった。しかし抗弁することなく、須和は黙って殴られた。
後日、井戸端で会った隣家の妻女をはじめとする女衆に、赤く腫れた頬について尋ねられたが、はぐらかしたものの、孫左衛門の評判が一気に下がったのは、須和の予想外の出来事だった。
須和が長屋に着いた翌日に、当主・信玄公の本隊がやってきて城で休息し、西へ向かった。
「禁裏様にお呼ばれなさったということだよ」
「将軍様の御用でないかい」
井戸端では女衆が噂し合ったが、みな本当のところは知らなかった。けれども主人の一条様は留守居なので動かず、亭主たちも戦に出て行くことはないと分かっていた。戦での稼ぎがないことは、いいのか悪いのか。痛しかゆしだったが。
そんなとき、孫左衛門の親たちが従者と共にやってきた。こちらに着いたと夫が報せたらしい。
「須和と申します」
一行を招き入れ、オモテと呼ばれる客間の上座に舅と姑に座ってもらい、孫左衛門の左斜め後ろに端座した須和が頭を下げた。
孫左衛門は、何も言わない。
「おおう。これは佳きおなごじゃ」
舅が相好を崩した。六十過ぎに見え、痩せて背が曲がり、頭を剃って法体となっていた。長五郎久吉、法名は相玄と自ら名乗った。
隣に座っている福々しい四十代ほどのひとは静と言った。五兵衛と加代の母であった。
「面倒をみてやるって言うから、来てやったぞ」
がはは、と笑う舅に、夫は無愛想に答えた。
「妻も迎え、嫡男の務めでありますから」
そんな甲斐性はないと思う。と須和は心の中で抗議した。このひと月のやりくりで実感したのだが、下級武士の俸禄では食べていくのがぎりぎりの生活だった。ここに舅・姑が加わったら、まさに赤貧。これなら嫁に来ず、本家の居候をしていた方がましだった。
それでも何とかせねばなるまい。
決意して、自分の分の雑炊は三食から二食に減らし、鍋の雑炊も野菜と水を多く米を少なくした。
この三日後、夫と舅は大喧嘩した。
食事の粗末さのことだろか、とはらはらしていた須和に、静が眉を下げて言う。
「二人は昔から仲が悪うてねえ。うらが五兵衛を産んでから、田んぼを取られるって、あの子を嫌い抜くんで。松木五郎右衛門さまが近くの市に来たとき、たまたま五兵衛が、釣銭が間違っているのを注意したのを見ていて、気に入ってくださってね。それならって、養子に出したのさあ。五郎右衛門さまの娘御と娶わせて、今は幸せにやっているようだけど。以来、二人会えば、喧嘩さあ。一緒に住もうって言ってくれたのは、嬉しかったみたいだけどねえ。あわんもんは、しょうがない」
結局、その日のうちに舅と姑は従者を連れて、在所へ帰っていった。
「たまには顔を見にくるよお」
と、言い残して。
数日後に、後詰のため一条信龍が出陣し、夫もそれに従って源三郎を連れ、西へと出立した。
「お頭様ンとこに妹が出戻っとるとよ」
「楢崎様ンとこの妹さは、たいそう器量よしで、通う男が引きもきらんと」
きゃはは、と笑いながら、夫の留守中、女たちの井戸端でのおしゃべりが続く。
そのお人かなあ。と須和は思った。夫には、通う女がいるようだ。
一条信龍は派手好きで知られ、家臣もそれに倣う。婚礼の祝いに、上方の異母妹から贈られた絹の反物のうち、華やかな薄緋色の物は孫左衛門の命令で鎧の下に着る戦袍として仕立て、夫は今それを着て出陣している。
次に派手な紅梅色の反物は、いつの間にか消えていた。おそらく女に贈ったのだろうと、須和は考えている。
全部、孫左衛門に使われるのは癪なので、須和は夫が留守の隙に萌黄色の反物を自分用の着物に仕立てて、隠しておくことにした。