石井数正の出奔
「何かの間違いではないか」
その一報を聞いたとき、殿は狐に化かされたような顔をした。
しかし次々と来る酒井忠次や岡崎周辺に領地を持つ家臣たちからの使者のもたらした情報によって事実であると知ると、右の親指の爪を噛み、不機嫌になった。
岡崎城代で重臣の石井数正が家族とごく身近な家臣のみを連れて逐電したのは、十一月十二日の夜のことである。
異変を察した数正の与騎の杉浦藤次郎という者が、夜中にもかかわらず登城し、自ら城内の半鐘櫓へのぼって鐘を乱打した。
早鐘は陣触れの合図になっていた。近隣の領主はこれを聞いて甲冑を着込み、家臣を伴って岡崎城へ集まって来る。それより遠くは、同時に上げられた狼煙を見てやってくる。このときは夜でもあったので、松明が道にそって動いていたのを遠くからでも見ることができた。夜が明ける頃には吉田城(豊橋市)から筆頭家老の酒井忠次が手勢を率いてやってき、石井数正の出奔を知った。
殿が岡崎に行ったのは報を聞いた翌日のことである。身支度を手伝った須和は、浜松城に残された。
(石川さまは、ここまで思いつめるほど孤独であったのか)
と、この騒ぎの中、須和は気の毒に思った。
石川宗家の家成さまがおいでだったら、ここまでことがこじれなかったかもじれない、とも考えた。「家康無二の忠臣」と言われた家成は五年前の天正八年(一五八〇)に嫡男・康通に家督を譲って隠居していた。そのため、庇う者もいなかった。
(詮無いこと)
殿が長年の忠臣を失ったことを須和は悲しくも残念に思った。
石井数正の祖父は、竹千代(家康)誕生時、蟇目役を務めた松平家重臣の石川清兼である。清兼には男子が三人あり、康正、一政、家成といった。長男・次男は側室腹で、三男の家成は母が家康の生母・お大の方の姉であったことから正嫡とされた。
数正は康正の嫡男で、家康より九歳年上、叔父の家成より一歳年上になる。
竹千代が今川義元の人質になっていた頃から近侍し、桶狭間の戦ののち、松平元康(家康)が独立するときには今川氏真と交渉して妻子を取り戻している。三河一向一揆では一向宗だった石川家は本願寺側についたが、数正は浄土宗に改宗して家康側として戦った。石川宗家は家康の従弟の家成が継いだが、幼い頃から苦楽を共にしてきた数正を家康は重用し、嫡男の松平信康が元服すると後見人とした。西三河の旗頭であった家成が遠江の要である掛川城の城主となると、代わって西三河の旗頭となった。合戦では武功を挙げ、天正七年(一五八二)に信康が切腹すると岡崎城代となった。
それまでの信頼と功績によって、家康は「康」の字を与えたので数正は「康照」と改名した。
西の旗頭兼取次として、数正は織田信長次いで羽柴秀吉を担当し、西の情勢をよく知るため、小牧・長久手の戦以降、秀吉との融和を主張し続けてきたが、家中ではよく思われず、従属時から後見してきた小笠原貞慶が離反したため、その責任を問われ、秀吉との抗戦を決めた徳川家で、数正(康照)は立場を失ったのだった。
「取次をしていた相手と戦うことになると、その担当していた者はみじめなものです。お竹の方さまの父君もそうでした。市河さまは織田との取次をしていましたが、織田の娘を勝頼公の正室に迎えたまでは良かったのですけれど、ご正室が産褥で亡くなり、織田と手切れとなるともう隅に追いやられ、失意のうちに亡くなりました。寄る辺のないお竹の方さまは穴山さまによって側女として差し出されたのです」
須和の側らに侍していたお仙が、ぽつりと言った。甲府に殿が出陣した際、召し上げられたお仙は郷士の娘で殿とのあいだに子はできなかったが、須和より旧武田家臣について知っていることが多い。
「……そうだったのですか」
お竹の方さまは城に来てからも物静かで、年下のお都摩さまこと下山の方さまに庇われて、ひっそりと暮らしている。殿との間に振姫さまをもうけられても、それは変わらなかった。娘に甘い殿が振姫さまを見に部屋を訪れても、会話が続くことはないようだ。
「お竹の方さまには、ご不自由はありませんか? お仙さまも気を付けて様子を見ていてくださいね。ご自分からはお話にならない御方のようだから」
「かしこまりました」
お仙は頭を下げた。
岡崎に着いた家康は家臣たちに動揺しないよう語り、石井数正に付けていた与騎八十騎は内藤家長の許に転属させた。
「さて、この城を誰に守らせよう」
と、家康が重臣たちに諮ると、本多正信が答えた。
「自分の妻子を殺してでも、この城と生死を共にしようとする者がふさわしいでしょう」
「ならば、本多作左衛門重次以上の者はおるまい」
と、家康が言い、すぐに召し出した。
家康は作左衛門を前にして告げる。
「岡崎は上方から攻め寄せるときの最初の城であるから、もし秀吉が攻め寄せてきた際には、まずここで防戦せよ」
作左衛門重次が畏まって答える。
「徳川家代々の御居城であるのに、多くの者の中から重次にお預けくださるとは、私の身にとって、これ以上の名誉はござりません。しからば、身命を投げ打って何としてでもこの城を固くお守り申し上げます」
力強い言葉に家康はうなずき、「作左衛門は老年であり、もし防戦になれば万に一つも生き延びることはないだろう」と思ったので、大坂にいる一子の仙千代を呼び戻すように言った。
本多作左衛門重次は「母親が病にて」と嘘の理由で仙千代を呼び戻し、代わりに兄の子で甥の源四郎を交代させた。
作左衛門の兄の重富は家康の嫡男・信康に付けられた家臣であったが、信康自刃ののちは隠棲していた。その子の源四郎(富正)は次男の秀康に付けられ、以後、越前松平家四代に仕えることとなる。
呼び戻された作左衛門の子・仙千代は、主君・家康の御前で元服し、成重と名乗った。これによって、本多作左衛門はますます固く覚悟を決めた。
また家康は家老だった石川数正の出奔で、それまでの軍政を変えざるをえなくなった。武田式軍法に変える際には、かつて武田家に仕え、今は武田旧臣の武川衆を配下に持つ成瀬正一に命じて改変を行った。
天正十三年(一五八五)十一月二十八日。徳川家中の動揺がまだ収まらないうちに、織田信雄の叔父の織田長益(有楽)、家老の土方雄久と滝川雄利が上洛を勧めるためにやってきたが、徳川方はその申し出に応じなかった。
同じ日、北条氏重臣二十人の誓紙が届けられた。
羽柴と徳川・北条の対決は避けられない状況にあった。
(西の方から、軍勢が湧くようにやってくるのだろうな)
須和の脳裏には、小牧の役で見た黒々とした大軍が蘇った。今度はそれ以上のものがやってくるという。
「石井さまも、このような風景を思い描かれたのか」
であれば、恐怖しかない。
須和はその幻影を頭から振り払い、日々の為すべきことに専念した。
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秀吉に帰順した石井数正は、河内国内に八万石を与えられ、通称を出雲守、諱を秀吉から賜って「吉輝」とした。天正十八年(一五九〇)には秀吉から信濃国松本十万石に加増されて移封。松本城の築城と城下町の建設に尽力し、出奔から七年後の文禄元年(一五九二)、六十歳で死去したという。
家督は長男の康長が継ぎ、遺領十万石のうち、康長は八万石、次男の康勝は一万五千石、三男の康次は五千石を分割して相続した。のちの関ケ原の戦では東軍に属したので領地は安堵されたが、大久保長安事件に関わり、改易となって、長男の康長は蟄居、次男の康勝は手勢をまとめて大阪の陣に豊臣方として戦って散り、三男の康次の行方は分からない。




