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神川合戦

 須和は殿に連れられて三年ぶりに甲府へ戻って来た。馬の背に揺られてみる故郷の風景は思い出の中のものと変わりなかったが、三年前とずいぶん違ってしまった自分に驚かざるをえない。宿舎とした寺から気軽に外出できないので、甲斐の国奉行を勤める成瀬さまのお屋敷に人をやって弟の久左衛門と会う約束を取り付け、日時を決めた。そして今、側らに牧尾を控えさせ、上座に坐った須和は、やってきた弟と対面していた。

「変わりはありませんか」

「ありました」

 にこっ、とした弟が答える。

「一朗太に息子が生まれました」

「まあ。めでたい。おめでとう、一朗太」

 須和は縁側に控える一朗太へ声をかけた。

「ありがたきお言葉」

 と、一朗太が頭を下げる。もう昔のように親しく言葉を交わすこともできなくなった。寂しいと思う。でも、あとで産着用の布を贈ろう、と須和は決めた。

「本家のおじさまの所へは挨拶に行きましたか?」

「はい。みな変わりなく、というか、清左衛門どのにも男子が生まれ、大きくなっておりました。おじさまはじきに隠居したいと言っておられましたよ」

「そうですか」

 居候として本家で暮らしていたのは、たった三年前のことだったのに、もうはるか昔のことのように思える。

「私もおじさまに消息(手紙)など送らねばなりませんね」

 便りをしたのは浜松に着いたときだけだった。あとは忙しくて、それどころではなかった。

 そのあと弟とは互いの近況を語り合い、別れた。

 須和は本家のおじに無沙汰をしていた謝罪のふみを書き、絹織物と共に使者へ持たせて遣った。

 義弟の松木五兵衛忠成も舅の松木五郎右衛門と妻のおけいを連れて挨拶にやってきた。須和は二人に挨拶をし、伊助を譲ってくれ、萩野と娶わせることを許可してくれたことに改めて礼を言った。

 須和にとって甲府へ来たのは里帰りのようなものだったが、殿の供なので仕事が優先だ。殿はここでも甲斐にいる家臣や新しく従属した国衆たちと会い、さまざまな話をしている。ことに信濃衆の真田家とは領地について問題を抱えていた。



 家康は北条氏と同盟するにあたって境界を決める国分くにわけをしたのだが、北条氏領と定めた上野国沼田領は信濃国衆・真田昌幸の管轄で、昌幸は北条に渡すのを拒んでいたのだった。



「信濃の真田家とは、どういう家なのですか? 当主の昌幸さまは、信玄さまと勝頼さま武田家二代に仕えたことは知っていますが」

 須和は、甲斐国出身で松木家の縁者である側仕えの牧尾に訊いた。かつて、お裏様の屋敷に奉公していても、家臣の名くらいしか分からない。ましてや、あとから武田家に従属した信濃衆については詳しくない。

「はい。今のご領主、真田昌幸さまは三男で、信玄公の母君の支族の武藤氏に養子に出されていたようでございます」

 牧尾は須和より詳しく知っていた。



 真田昌幸は家康より五歳ほど年下で、真田家の三男に生まれ、七歳で当時、晴信と名乗っていた武田信玄の奥近習となった。初陣した十五歳前後の頃、武田氏の親族衆・武藤氏の養子となり、武藤喜兵衛と名乗って足軽大将に任じられた。信玄は昌幸の才を見抜いており、武将としてまた奉行人として重用した。元亀四年(一五七三)四月、信玄が死去すると後継の武田勝頼に仕えた。天正二年(一五七四)に父が亡くなり、翌年五月の長篠の戦で二人の兄が戦死すると、真田家の家督を継いだ。天正十年(一五八二)四月、織田信長から旧領安堵され、滝川一益の与力となり、次男の信繁(幸村)を人質として差し出した。その三か月後、織田信長が本能寺の変で横死し、甲斐・信濃が騒然となる中、昌幸も旧武田家臣の取り込みを行い、信濃の小県郡や佐久郡の地侍の家臣化を推し進めた。

 六月、上野国に北条氏直が侵攻し、滝川一益を破り、一益が撤退すると、昌幸は沼田城を奪い、嫡男の信幸を岩櫃城に送って、上野国での守備をさせた。北信濃に進軍してきた上杉景勝に臣従したが、七月には北条氏直に降伏。しかし九月になると、春日城主・依田信蕃を介して徳川方となり、北条を裏切る。

 北条と徳川が和睦する際、家康は上野国の沼田を割譲するという条件を出した。けれども自力で得た沼田を割譲ということに不満があり、代替地も不明だった。そのため、天正十二年(一五八四)三月に尾張で羽柴秀吉との戦が始まると、真田昌幸は越後の上杉を牽制するために信濃に残留したのだが、沼田城周辺で北条勢と小競り合いを繰り返し、沼田・吾妻・小県を真田領としてしまった。



(そして今、殿は北条さまから和睦の条件の履行を求められ、真田昌幸さまと話し合っておられるのか)

 何度も裏切りを重ねる真田は三河の家臣たちと違って、殿に忠義もなく、利を求めるだけなので、難しいところだな、と須和は思った。

「そうそう。真田さまは信玄さまの近習をしておられたせいか、たいそう信玄公を尊敬しておられるそうです」

「そこは殿と同じですね」

 牧尾の言葉に、須和は微笑んだ。

(でも、殿は人を裏切りはしない。北条を頼り、その後、離れて流浪していた今川氏真さまを拾い、保護して今では和解しておられる)

 小豪族が成り上がるにはそれ相応のことを為さねばならないが、真田のやり方を殿は嫌いだろうな、と須和は思った。



 結論が出ないまま月が替わり、五月となって須和は浜松から御方おかたさまのふみを受け取った。持ってきた御方おかたさま付きの侍女は、

「こちらは、直接、殿にお渡しください、とのことです。そして、これは笹尾局さまからのものでございます。詳細が書いてあります」

 と、二通のふみを差し出した。

 それを膝行して受け取った側仕えの早霧が、須和の許へ運び、前へ置く。

 須和は笹尾局からのふみを広げて読んだ。そこには、「羽柴さまに会うため、殿が一向に上洛されないので、於義丸君さまが殺害されるという噂を小督局さまがお聞きになって、大坂へ出奔されようとなさり、御方おかたさまが御止めしたのですが、ずっと泣かれるので、実家の氷見の当主と相談し、『見舞い』と称して御方おかたさまの一存で許可されました。殿のお沙汰を待っておいでです。どうか、阿茶局さまには、殿への取りなしをお願いいたします」と、あった。

「なんということ……」

 我が子を心配する親心は分からないではないが、側室は男児を産んでも奉公人に過ぎない。主の許可なく城を出られないのだ。

 須和は東雲に殿に会ってもらえるよう、側近へ使いとして遣った。

 その日の夕刻に、殿の御前に召され、須和は御方おかたさまから託されたふみを殿に見せた。

 一読した殿は、

「小督のことは、好きにさせよ。お愛を咎めることはない」

 そう言って、ぽいとふみを投げ捨て、部屋を出て行った。

(ひねくれ者……)

 奥向きの監督責任がある御方おかたさまが咎められなかったことに、ほっとした須和だが、一方でどこかこじれている殿とお万の方さまの関係に溜め息をついた。

 実家の名を局名とせず、『小督局こごうのつぼね』としたのは殿だ。『小督こごう』というのは、中臈や小上臈によくつけられる女房名で、側室の扱いを受けていなかったと取る者もいるだろうが、琵琶法師が語る『平家物語』や猿楽(能)の演目をしっている者ならば、『小督こごう』は平清盛によって引き裂かれた高倉天皇の寵姫のことだと察するだろう。高倉天皇を自分、平清盛を亡き正室さまに見立てたのだ。

(殿は、『小督こごう』と名づけることで情があることを示したつもりなのだろうけど、全然伝わっていません。だいたい、ずっと遠ざけておいて、『平家物語』になぞらえたって、分かるわけないでしょう)

 浜松城にいたお万の方さまは殿に対して、礼は逸しないながら、ずっと素っ気ない態度だった。

「わかりにくいんだから――」

『ハキと申されぬ』殿は、家臣たちが主人の意図を考えて動いて良い結果となることが多いけれど、女心をつかむには、まるでなっていない、と須和は思った。

 しかしとりあえず、須和は殿の沙汰を消息(手紙)にしたため、浜松へ送った。



 徳川家康は真田昌幸に、上野国沼田領の北条への引き渡しと信濃国伊那郡中の替地を提示したが、真田側は徳川から与えられた土地ではなく、自力で得たものだと主張。真田との話し合いは物別れとなり、家康は六月七日に一度浜松へ戻った。

 ところが真田昌幸は、徳川との従属関係を解消し、越後の上杉景勝に保護を求めた。これに怒った家康は、甲斐・信濃の領国支配を任せていた重臣の鳥居元忠・平岩親吉・大久保忠世たちを真田氏の本拠地・上田城へ派遣した。

 徳川方は井伊直政の隊の一部を含み、総勢七千八百余人。

 真田方は上杉軍五千、真田軍二千。将は真田昌幸、長男の信幸、昌幸の従兄弟の矢沢頼康、上杉からは須田満親。

 真田方は上田城に昌幸、支城の戸石城に信幸、また支城の矢沢城に矢沢頼康が上杉の援軍と共に籠城した。

 天正十三年閏八月二日、徳川方は上田城に攻め寄せ、二の丸まで進むがそこで反撃を受けて撤退する。昌幸の伏兵たちが城下に火を放ち、前後から鉄砲を撃ちかけたのだ。神川の畔まで撤退し、体勢を整えようとした際、追撃を受け、戸石城の信幸が横合いから攻めた。これによって徳川勢は壊走し、追撃戦には矢沢勢も加わり、神川で多くの将兵が溺死した。このとき、徳川方の死者は千三百人、一方で真田方の死者は四十人ほどだった。[神川合戦、もしくは第一次上田合戦]

 翌日、徳川方は真田氏に味方した地元の豪族・丸子氏がこもる丸子城を攻めるが、天然の要害を利用した城と頑強な抵抗にあって攻略できず、二十日間対陣し続け、その間にも上杉勢との小競り合いや上杉軍増援の報によって、家康は援軍として大須賀康高・松平康重・井伊直政らに五千の兵をつけて出す。

徳川方はなおも上田城攻略をあきらめず、佐久・諏訪で好機をうかがっていた。

 家康が真田と戦っている時期、六月に四国の長宗我部元親を服属させた羽柴秀吉は、七月に前関白の近衛前久の猶子となり、関白に任じられた。そして八月には越中に出陣し、佐々成政と成政と結んでいた飛騨国司の姉小路自綱あねこうじよりつなを服属させた。[富山の役]

 これによって秀吉の勢力圏は越後の上杉から西は中国・四国地方にまで及んだ。

 真田昌幸は上杉景勝を介し秀吉に保護を求めて従属し、信濃国衆の小笠原貞慶も徳川から離反して秀吉に従う。

 羽柴(藤原)秀吉は家康に対し、秀康(於義丸)は人質でないとして宿老を人質として差し出すよう要求したが、家康は拒否した。

 これを口実に、秀吉はなかなか臣下の礼をとらない家康征伐に乗り出す。

 一方、家康は十月、秀吉の要求を拒否するにあたって家臣たちを浜松城に集めて協議し、北条氏との同盟のもとで抗戦も辞さないと決めた。

 しかしここで、誰もが思いもよらなかったことが起きる。

 十一月十三日、家康の股肱之臣であった石井数正が秀吉の許へ出奔したのだ。









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