鬼作左の諫言
本多作左衛門は不自由な片足を引きずりながら臥せっている殿の御前にやってきて坐った。
「それがしが前にこの腫物で悩んだとき、糟屋政則入道長閑という者の治療によって快方に向かったので、長閑にお診せになられれば良いと思います」
「いや、その必要はない」
せっかくの忠言にも、医者を信用していない殿はにべもない。
これほどの重体になっても聞き入れない殿に、作左どのは激怒した。
「殿には、いかにも無駄な治療をなされて、犬死なされませ。自然とそうなるものだとは申しながら、惜しいお命ではないのですか。『十のうち九つは御体は良くならないでしょう』と医者どもも申していますので、今は何も申し上げるに及びません。この作左衛門が御先に腹を切り申し上げます。年老いても、殿のおあとのお供はいたしません。そういうことですので、今生の御いとまごいをいたします」
と、涙を流し、御前を立った。
「待て、作左。その方ら、あれをとめよ」
殿もその言動の烈しさに驚き、小姓たちに命じたので、周囲の者がわらわらと本多作左衛門どのを押しとどめ、再び御前に坐らせた。
「阿茶」
と、殿が振り返ったので、側らにいた須和は手を差し伸べ、殿が半身を起こすのを手伝った。
「お前は気でも狂ったのか。わしは病が重いといっても、いまだ死んでいない。たとえわしが死んだとしても、後々のことこそが大事なのだ。お前のような古老の者たちが生き永らえてこそ、子孫らを輔導し、家や国のことも沙汰できるのだ。わしより先に腹を切って、何の利益があろうか。必ず思いとどまるように」
向き直った殿が諭すのに対して、作左衛門どのは泣きながら怒る。
「いや、それも人にもよることでございます。私もまだ二十も三十も年が若ければ、殿のように分別のない御方のお供をするのは無益でしょうが、もはや六十近く、若きときよりたびたび戦場に御供し、片目は切り潰され、手の指も切りもがれ、足も不自由となったので、世の人が身体不自由という事柄は、みな私の身一つに取り集められた体をしております。ところが殿のお情けによって、内外の者たちも私を一人前の人のように扱うのです」
そこで作左衛門どのは、ふうと息をついた。
「ただいまにも殿がご他界遊ばされれば、他人は言うまでもなく、御縁戚の北条殿をはじめ、御国を狙う者はたくさんありましょう。年も盛りの殿に先立たれ、力の落ちたところへ強敵を引き受けて、何かはかばかしいことがありましょうや。そうであれば、御家の滅亡は眼前でございます。重次の何の変哲もない命を長らえて、『あれこそは、徳川の古老と呼ばれた本多作左衛門よ。何の生きる頼りがあって、路頭で物乞いをしてさまよっているのか』と、後ろ指を指されては、生きている甲斐もありません。近頃でも、武田の家にて諸人に尊敬されていた浅利という男も、主に先立たれ当家に参りました。しかし本多平八の組下となり、匂坂党などより遥かに末座にあって媚びる体となっており、大変哀れに、見るに忍びなく見えます。これも他人のこととは思えず、すでに我が身に迫っているものでございます」
と、涙を流して諫める。
しばらくの沈黙のあと、殿は
「お前の言うことはいかにも道理である。わしの腫物はお前に任せる」
と答えたので、作左衛門どのは大変喜んだ。そして退出するとすぐに長閑どのを連れて参上した。
長閑どのは殿に薬をつけた上で、
「双六の筒のような大きさの灸を、おすえになるのがよいでしょう」
と申し上げたので、作左衛門どの自ら灸を持ち出して殿の背にすえ、飲み薬も進上した。
灸を終えてしばらくするとその効果が現れ、夜中には膿や血が大量に流れ出て、殿の具合も良くなったように見受けられた。
ずっとお側についていた作左衛門どのは平癒してゆく様子を見て男泣きをし、見舞いに訪れたお大の方さまも嬉し涙を流された。
須和はさっそく浜松に殿の病気平癒を報せ、笹尾局からは「御方さまも塩断ちを止められ、神仏にお礼を申し上げておられます」との返事を受け取った。
(徳川の御家にとって、まさに家臣が宝じゃな)
須和は殿と作左衛門どののやり取りを見て心からそう思った。
しかし家康が腫物に苦しんでいた天正十三年三月、十日に正二位内大臣となった羽柴秀吉は紀州攻めのため数万の軍を動かし、根来衆の基点である根来寺とその子院、城を次々と焼き払い、雑賀の一揆衆を攻め、高野山の僧兵を交渉で武装解除し、和泉・紀伊の国衆らを服従させ、そこを弟の秀長に与えて和歌山に城を築かせた。羽柴秀吉による天下統一が着々と進んでいたのだった。
一方、家康は身体が良くなると四月に甲斐国へ赴いたのだが、そこでまた重大事に向き合うこととなる。




