家康の病
浜松城の奥向きでは、西郡の方さまの許に遠江出身や旧今川家臣の家出身の侍女が集まり、お愛の方さまの許には三河出身と養家の服部家の関係で伊賀者がいる。下山殿とお竹の方の許には養家の穴山家の者たち、そして須和の許には仲の良いお仙の方を始めとして旧武田家臣所縁の者たちが自然と集まるようになった。
他の人たちには、西郡の方さまには於茶阿局、お愛の方さまには阿茶局こと須和が肩入れしているように見えるようだ。とはいえ、侍女同士でいがみ合っているわけではない。集団として、そのように分かれているだけだ。徳川家の奥では殿の寵を競うようなことはしなかった。そんなことが殿に知れたら、その女はすぐに側から外されるだろう。殿は女への情愛で物事を左右される方ではなかった。むしろ、美しいだけで無能な女は好きではないようだった。
小牧と長久手の戦が終わると、頼る者がなく寡婦となった女たちを城の奥向きに迎え入れた。生まれや教養によって、下働きか侍女どちらかに振り分けられ、その後の働き次第では中臈、上臈への道もあるし、ことによれば再婚の道もある。
(私も今年で三十となる。このまま子が出来ないのなら、御褥すべりとなるだろう。殿がご正室をお迎えにならず、人質や召し上げの女がいないならば、侍女の中から閨の相手を選ばねばなるまい)
須和は、側室としての自分の勤めが終わる時期が近いことを覚っていた。殿の閨の相手を決めるのは世継ぎの生母で、実質の正室・お愛の方さまだが、候補を選ぶのは殿の好みと侍女たちのことをよく知っている須和の役目だった。
戦が終わってから、他にも須和の周囲にも変化があった。
側仕えの萩野と小夜を息子の五兵衛が元服後、そちらへ仕えるよう決めたので、三島局に相談したところ、伊賀越えのときに協力した伊賀と甲賀の物頭の一族の女を推薦され――おそらく、殿の意向を反映したのだろうが――須和の希望も入れて寡婦が二人付けられた。伊賀からは、おふうの縁者で東雲、甲賀からは百地家の一族の早霧という三十路の女だった。二人とも読み書きが出来、織田との戦で夫を亡くしており、子はない。また、萩野は松木家との伝手として、縁者の牧尾という二十代の女を推薦し、三人を須和の側仕えとすべく教育してから去って行った。
おふうはお愛の方さま付きの老女・倉見局の補助として部屋を賜り、笹尾局と呼ばれるようになった。しかし武芸の修練は続けており、侍女だけでなく家臣の娘で行儀見習いのため奥へ来ている娘にも教えている。その中で、本多平八郎の長女・稲という娘が才色兼備で出来がよいと報せてきた。
(本多さまは鬼瓦のような容貌をしておられたな。妻女に似たのであろう)
戦では最強の将が娘を溺愛しているとおふうから聞いて、須和はほほえましかった。
このように須和の許には家臣の妻や娘の情報、そして側仕えによって西郡の方さま、お愛の方さまの許に集まる女同士のやり取りの情報が集まってくるようになった。
(殿がそのように仕向けておられるのだろうな)
なんとなく須和はそう察した。女たちの動向を掴んでいる須和を側に侍らせておけば、いつでも聞けるという合理的な殿の思考が透けて見えた。
浜松を出て岡崎城に着くと、城代の石井数正さまの出迎えを受けた。
(何やら覇気のない……)
理由は須和にも分かっていた。西方の織田や羽柴の取次を担当していた石井さまは織田信雄さま、そして初音の茶器を持って羽柴秀吉と面会したことで京や大坂の情勢に明るく、徳川家の危機的状況をよく理解していた。於義丸君を人質として出したからには、「殿が上洛なさるべき」と主張して他の徳川家臣たちから羽柴に取り込まれたのではないかと噂されていた。
(羽柴さまは、織田中将さまの家老たちを取り込んだように、目的とする家の家臣を自らの方へ引き寄せ、家中を分裂させるのが常套手段だと、本多正信どのが殿に申し上げていたしな)
殿の閨の相手はまだ須和がしていた。殿とは香や書籍の話などをして楽しい時間を過ごしていたが、正信どのを呼ぶときもあり、そのとき須和は部屋を追い出され、二人は密談するのだった。
すでに前年の天正十二年夏頃、小牧で戦が停滞していたとき、秀吉は他の大名たちを屈服させるための策を転換し、朝廷工作を始めていたようだ。正親町天皇が望む譲位と誠仁親王の即位を執り行うことを申し出て、銭一万貫を寄進し、仙洞御所の造営を始めた。その結果、織田信雄中将との講和を成立させた直後の十一月二十二日に従三位権大納言、公卿に秀吉は昇進した。加えて、殿の次男の於義丸君を養子に迎え、同じ十二月の末には、毛利輝元の娘を自分の養子の秀勝に娶わせ、これによって東西の大大名と縁戚関係を結び、挙兵の名分を奪った。
(公卿となった方に戦をしかけるは、朝廷を敵にすると同義であるからな。よく考えたものじゃ)
須和は敵ながら見事、と感心した。
ともあれ、漏れ聞いたことは口にしなければいいだけだ。しかし、徳川の危機はそれほど深刻で、また郷党意識の強い三河人の中で羽柴に好意的な石井さまは孤立しているのを話のはしばしや雰囲気から須和は覚っていた。
(針の筵に坐るような気分じゃろうなあ)
古くからの忠臣を気の毒に思ったが、結束の強い徳川家臣団、ことに三河者の良くない面が今出ていた。
顔色の悪い城代の案内で、殿は生母さまが住んでいる二の丸に向かった。そこには西郡城に隠棲した久松俊勝さまが体を壊したことを聞き、お大の方さまの願いで呼び寄せて病の身を養っていたのだった。
二の丸に行くと、久松さまは臥せってはおられず、正装をして殿を迎えた。
「お加減はいかがかな」
殿の問いに、久松さまが答える。
「幸いなことに、近頃はようなってきたように思われます。殿、本願寺と和解され、寺の復興をお許しくだされたこと、厚く御礼申し上げます。私も寺院の再建に力添えしたことで善行を積むことができたように感じます」
義兄にあたる水野信元さまを謀殺することに、知らずとはいえ加担した行為を怒り悲しんでいた久松さまは、何かが吹っ切れたような晴れ晴れとした顔をしていた。
殿はうなずき、身体をいとうよう告げて会見を終えた。
この二年後の天正十五年(一五八七)三月、久松佐渡守俊勝は岡崎城において六十一歳で没し、継室のお大の方は落飾して伝通院と号した。
岡崎城に滞在中、殿は三河に領地を持つ家臣たちの意見を聞き、蔵を開いて米を放出し、各地を見回って災害と戦のあとの復興に心を砕いた。
そんな日々を送っているうち、須和は殿の身支度を手伝っている際、背中に銭くらいの大きさの腫物を見つけた。
「痛みはありませんか? 医師を呼んでお薬をつけてはいかがでしょう」
と、進言したが、
「なに、それくらい。自然に治るであろう」
と殿は歯牙にもかけない。
三河の次には甲斐を回ろうと準備をしているうちに背中の腫物はますます大きくなり、「これは、癰ではないか」と小姓たちが騒ぎ始めた。
そこで殿も小姓たちに命じて蛤の貝で癰を挟んで膿血を絞らせたが、さらに腫れて熱まで出て来た。食欲もしだいになくなり、睡眠もろくに取れなくなった。
「殿、お心を強く持って、しっかりなされませ」
須和も小姓たちと共に励まし、少しでも飲食を摂らせようとするのだが、殿は衰弱していくばかりだ。
母君のお大の方さまが医師を伴って見舞いにやってきたが、連れて来た医師も癰があまりにも大きいので治療の術がないと言う。
「わしもこれまでか」
と、殿は酒井さま、石井さまを始めとする老臣たちを枕元に呼び、自分が死んだ後のことを内々に相談し始めた。
それが近隣の国に伝わり、「徳川殿は病が重いようだ」と噂された。上杉景勝の家臣などは、「今の世において、謙信・信玄が亡き後、天下を獲るにふさわしい器量を持った方は徳川殿だけである。しかし今、徳川殿が亡くなられたならば、天下の武芸の道は長く絶えてしまう」と嘆いた。
(羽柴に味方しながら、我が殿を惜しんでくださるのは良いが、もう先が長くないようなことは言わないでほしい)
と、須和は内心、腹が立った。殿の世話をしながら、持仏に向かって念仏を唱え、ひたすら病気平癒を願う。
浜松にも殿が病と伝えられ、動きがあった。おふうこと笹尾局の便りによると、
「西郡の方さまは連日、病気平癒のために祈願され、懇意にしている法華の僧に祈祷をお願いされました。お愛の方さまは祈願されることに加え、塩断ちを始められました。周囲がお止めしたのですが、聞き入れてくださいませんでした」
「なんということ。塩は生きていくに必要なもの。それを断つなど、お身体に触るではありませんか」
須和は急いで、やめてくださるよう御方さまに手紙を書いた。けれども、返って来た文には「心配しないように。殿のことをよろしく」という内容が書かれてあった。
(私が最初にあの腫物を見つけたとき、もっと強く殿に治療を進めていれば、こんなことにはならなかった)
後悔したが、今更遅いと自分でも分かる。今はやれることを、と須和は看病に専念した。
このようなとき、本多作左衛門重次が殿の御前に参上した。
本多重次は家康より十三歳年上で、剛邁で怒りっぽいことから「鬼作左」と呼ばれた典型的な三河武士である。三河三奉行の一人に選ばれると、非道はせず、依怙贔屓もせず、明白に沙汰を下した。天正十年からは駿河の国奉行となり、於義丸君を身ごもったお万の方(小督局)を匿って、於義丸君の傅役を務めた。前年、大坂へ於義丸君が行く際には、息子の仙千代を小姓として付けている。
後世に「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」と伝わる重次の一文は、天正三年(一五七五)の長篠の戦の際、妻にあてて書かれ、正確には、「一筆申す 火の用心 お仙痩せさすな 馬肥やせ かしく」で、妻子を気づかう優しさが見える。妻は重臣の鳥居忠吉の娘で、お仙は五人の子のうち一人だけ男子の仙千代(成重)のことである。




