小牧・長久手の戦 3
四月八日、主力軍が抜けた小牧山城には徳川兵五千余り、織田信雄の軍勢千五百が加わり、計七千余りが残り、数万の羽柴軍と対峙していた。
この間、羽柴方に気づかれないよう別働隊追尾のため、家康は一万四千弱の兵を率いて、夜半に小牧山南方にある小幡城に入った。大将の大須賀・榊原、武田の赤ぞろえの兵を付けられた井伊直政、本多康重、丹羽氏次、岡部長盛などに加え、甲斐の穴山衆も従っている。
平山城の小幡城[名古屋市守山区]は、家康の祖父・清康が尾張侵攻を行ったとき、獲った城だが、清康が家臣に殺された『森山崩れ』で織田方の城となり、一時廃城となっていたものを、このたびの戦がこの地域で行われると予想した家康が近江路から尾張にかけてあらかじめ諜者を放つと同時に修復し、本多康重の父・広孝を大将として置いていた。
先に入城していた水野忠重がすでに偵察を行っており、家康は別働体の位置を正確に掴んでいた。
岡崎に向かっていた羽柴の別動隊は、最初、徳川方の岩崎城という小さな平山城を無視するつもりだったが、岩崎城の兵が討ちかけてきたため、戦闘となり、城代の丹羽氏重は城兵三百と共に討ち死にした。
岩崎城[日進市]は尾張・三河を往来する街道の重要な地で、かつて織田信長の父・信秀の支城だった。しかし家康の祖父・清康の尾張侵攻で松平家(徳川家)のものとなったのだが、『森山崩れ』で失った。以後、所属が不明となって廃城となっていたところ、地元の豪族・丹羽氏が修復して四代にわたって所有し、その丹羽家当主・氏次は徳川に属しており、自らは参陣して、弟の氏重が城代となっていたのだった。
この岩崎城における丹羽氏重の奮戦で池田隊は足止めされ、このことは徳川軍に有利に働くことになる。
四月九日払暁、先鋒の榊原・大須賀隊が白山林という雑木林で休息していた秀次隊に襲い掛かり、秀次隊が壊走する。勢いに乗った榊原隊は堀隊に次の目標を定める。
後方の銃声で徳川軍の奇襲を知った堀秀政は、秀次隊の敗残兵を収容しながら反転し、榊原隊を鉄砲の一斉射撃で撃退。追撃に移るが、目前に家康本隊が到着しているのを見て、池田恒興の援軍要請には応えず、そのまま退却してしまう。
池田隊と森隊は家康本隊と戦うが、兵力互角のため、一進一退を繰り返す。だが、正午頃、徳川方の勝利が濃厚となり、池田恒興・森長可が戦死、羽柴軍は死者二千五百という惨敗を喫し、徳川方は完勝したものの、五百の死者を出した。[長久手の役]
須和は知らなかったが、成瀬正一の嫡子で十七歳の小吉正成が参陣しており、弟の久左衛門がその配下として一朗太と共に戦場にいたのだった。小吉正成はこの戦で敵の首級二つを獲り、家康から褒められて後日、根来の鉄砲隊五十人を付けられた。
この戦場で旧知の酒井忠利も戦功を挙げた。
四月九日正午過ぎに別動隊の敗北を知った楽田の羽柴秀吉はすぐさま二万の軍勢を率いて出陣した。
大地が動き出したかのような人馬の多さは、小牧山からも良く見えた。
「殿の救援に行く」
本多平八郎は陣屋で酒井忠次と石川数正に告げた。羽柴本隊の軍勢が動いたということは、家康をこの大軍勢が殺しに行くのだと分かる。
「殿の御軍勢が建て直さないうちに京勢の新たな軍によって攻められれば大変なことになる」
「わかっておる。しかし平八郎、どこにそんな兵力があるのか」
「殿が戻って来たとき、陣地がなければ、どう戦うのか。殿は我らを信頼して留守をまかされたのだぞ」
酒井忠次と石井数正が口々に諫めた。この平野の中で、小牧山城が一番安全な場所だった。
「殿が討たれて、陣地もあるか。わし一人でも長久手にはせ参じて討ち死にしよう」
平八郎が叫ぶ。
今、彼らの主君がいる土地は安祥松平家(徳川家)とその家臣にとって因縁のあり過ぎる場所だった。不吉。その上、あの大軍勢。
「ならば、わしは自分の手勢だけを率いてゆく」
聞き入れられないのなら、五百人ほどの自分の部下だけを連れて行くという平八郎に、二人の家老は折れた。石井数正は次男・康勝と百人ほどの家臣をつけようと申し出た。
小牧山を出た平八郎は徒士である足軽までを馬に乗せ、「大物見」という探索隊の形をとった。
「小勢の殿は討ち死にと決まった。見苦しからざるよう我らが出かける」
と、平八郎は出発のとき語った。
この隊を秀吉の大軍に摺りかかり、よって南下を少しでも食い止め、家康に時間的な余裕を与えて陣容をたてさせ、最期を飾らせるという目標を配下の者たちに徹底させた。
平八郎は「死」を覚悟し、また部下たちに死兵となることを覚悟させた。誰がみてもこのときはそうだったであろう。けれども家康本人は、決して負けるつもりも死ぬつもりもなかった。いつもどおり、それを誰にも語ることはなかったが。
本多平八郎は鹿の大角の兜を被り、側に徒歩の槍持ちを駆けさせている。槍は「蜻蛉切」という銘で、知らぬ者はなかった。
やがて平八郎の隊は秀吉の大軍に追いついた。庄内川の支流の東岸を秀吉の軍は南下していた。
その西岸を平八郎の隊は並走し、ときに馬から降りて鉄砲を撃ち、また騎乗して駆ける。
秀吉は無視した。五百ばかりの敵など相手をするまでもない。しかし、ただの物見ではない、と思った。
「名を調べよ」
と、告げれば、「あの装束は、本多平八郎に候」と答えが返ってきた。
このとき秀吉の軍は後続が追い付き、四万近くになっていた。それに対し、平八郎らは六百の兵で摺りかかろうとしている。
「見たことがあるか」
感動した秀吉は自らに言って聞かせた。これほどの光景を。
やがて龍泉寺という小山の近くに至り、対岸の騎馬隊にも疲れが見えて来た。馬に水をやる必要があった。
そのとき一騎、土手を駆け下りた者がいる。羽柴側から数発、銃弾が放たれたが当たることはなかった。
黒い鎧のその男は、ゆうゆうと馬に水を飲ませた。本多平八郎だった。
「撃ち落としましょう」
側近が勧めたが、秀吉は制止した。
「見るだけでよい」
かつて、亡き主君・織田信長は「徳川殿は人持ち」と言った。
秀吉は、
「この秀吉の利運強くば、いずれはあの平八郎ほどの者、たとえ五十人、百人居ろうとも、ついには我が身の内の者に参じ来るであろう」
と言った。
人たらし、と呼ばれた秀吉でも、三河者を理解していなかった。数年後、成瀬小吉正成を秀吉は臣下に所望するが、「腹を切る」とまで言われて断念している。
このとき馬に水を与えてその場から姿を消した本多平八郎は、配下の物見からの報告で家康が戦の後の首実検を終わり、小幡城へ入っていることを知った。
平八郎は羽柴軍の動静を使番によって報告しながら小幡城へ赴いた。
一方、羽柴軍は小幡城に近い龍泉寺に陣をとった。ここは平安朝の延暦年間に建立された寺があり、平野の中の小山という重要な場所のため、城が気づかれて龍泉寺城とも呼ばれていた。陣を敷いたとき夕刻で、夜に城攻めをすると不測の事態が起きることから、早暁の攻撃を予定していた。
ところが一晩のうちに徳川軍は小幡城から消え失せ、無人となっていた。
羽柴軍はうっ憤を晴らすように、城を焼いた。すでにそのころ家康は、小牧山に戻っていたのだった。
再び、両軍は濃尾平野で対峙することになる。しかし、小競り合いはあったものの、勝負はつかなかった。
この小牧・長久手で戦が行われているとき、四月九日に秀吉の弟の羽柴秀長が織田信雄の領地・北伊勢の松ヶ島城を襲って開城させ、城主の滝川雄利は浜田城(四日市市)に移って籠城戦をしていた。また、森長可の死で揺らいでいたその領地の東美濃では、三河から徳川勢が侵攻し、四月十七日に徳川方の遠山利景が旧領の明知城を奪還した。
五月に入り、羽柴秀吉が楽田の陣を離れた。四日に秀吉は、美濃の加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城を次々と大軍で囲み、水攻めなどで攻略する。このときの支援要請に家康と信雄は応えることができず、開城するよう勧告したため、六月十日に諸城は降伏して開城した。そして六月十三日に秀吉は岐阜城に立ち寄り、二十八日に大阪城へ戻った。
これによって、家康は小牧山城を酒井忠次にまかせ、自らは清州城へ移った。信雄も領国の桑名城へ戻った。
六月十六日、熱田・津島と並ぶ尾張の港・蟹江にある織田方の城へ、九鬼水軍と滝川一益の兵三千が押し寄せた。
城主・佐久間信栄の留守を預かる前田長定は、調略によって羽柴軍を受け入れた。
蟹江城は信雄の主城・伊勢長島城に近く、大野城・下市場城・前田城の三つの城と連携していた。前田長定の親族が守る下市場城と前田城は羽柴方となったが、大野城を守る山口重政は彼らと同調しなかったため、十六日の夕に、滝川・九鬼・前田の軍勢は城攻めを行った。大野城が落ち、支城を失った蟹江城も羽柴方のものになった。
蟹江城が落城したとの報せを聞いた織田信雄は二千の兵を率いて十六日夜に、家康も配下を率いて十七日の早朝に清州から駆けつけた。
家康の動きは迅速で、徳川勢は河口を柵で封じ、船の出入りや兵士の上陸を阻止したため、滝川一益は蟹江城に籠らざるをえなかった。水軍の九鬼嘉隆は陸に近づけず、船上から銃撃して城方を援護するが、徳川方の小浜景隆らの攻撃を受けて、やむなく志摩に逃れた。九鬼嘉隆と小浜景隆は仇敵同士だった。
六月二十二日、織田・徳川方の総攻撃があり、翌日には前田城が開城し、二十九日には和平交渉が開始される。
七月三日に蟹江城が織田・徳川方に引き渡され、伊勢にいた羽柴秀吉は六万二千の兵を集めて七月十五日に尾張の西側から総攻撃を計画していたが、断念し、二十九日に大垣城を経由して大阪城へ帰還した。
それより前の七月十三日に家康は清州城に戻っている。
関東では五月初めから八月にかけて、北条軍と佐竹義重、宇都宮国綱、佐野宗綱、由良国繁、長尾顕長たちの間で戦いが起こった。佐竹たちは秀吉と連絡を取り、上杉景勝は秀吉の命令で信濃出兵をして北条軍を牽制し、小牧・長久手の戦に参陣できないよう邪魔をした。
四国では六月十一日に長宗我部元親が十河存保の十河城を落として讃岐を平定。
六月七月の蟹江城合戦のあと、八月に大阪から尾張の楽田に舞い戻った秀吉が岩倉城に入った家康と対陣するが小競り合いに終わる。このあと、秀吉は大阪に戻り、和泉での根来・雑賀衆との攻防をし、岸和田での合戦によって、六月、七月、八月、十月と秀吉は尾張の戦場を離れざるをえなかった。
九月に、美濃で徳川方の菅沼定利、保科正直、諏訪頼忠が木曽谷の妻籠城を攻めたが、木曽義昌の重臣・山村良勝に撃退されている。
九月九日、能登国で家康に応じた佐々成政が末森城を一万の兵で攻撃するが、前田利家の反撃によって退却。
九月十五日、北伊勢の戸木城に籠っていた織田軍の木造具政たちが羽柴方の蒲生氏郷たちと合戦し、織田軍が敗北する。
天正十二年九月に一度、講和の話が持ち上がるが、それも消え、十一月十二日に秀吉は、伊賀と伊勢半国の羽柴側への割譲を条件に織田信雄に講和を申し入れ、経済的に疲弊していた信雄はこれを受けた。織田信雄を助けるという大義名分を失った家康は、十一月十七日に三河へ帰国した。
秀吉は織田の家臣・滝川雄利を使者として浜松城へ送り、講和を取りつけようとした。家康はこれに対して、次男の於義丸を養子として大阪へ送った。秀吉としては人質のつもりであった。
九か月にわたる戦がこのような経過をたどっていた間、七月には当初の予定通り多劫姫が信濃・高遠城の保坂正直のもとへ輿入れし、八月に須和は流産した。妊婦に従軍は厳しかったようだ。
家康の命で一か月、須和は清州城下の松木家の宿で静養した。萩野がつきそってくれ、須和が不在の間、おふうが侍女たちをまとめてくれた。
体調が戻り、清州城の殿の許へ再び上がったのは秋も深まった頃だった。
「阿茶、もう良いか」
「はい。お勤めをまっとうできず、申し訳ありませんでした」
子を成すという側室の役目を果たせなかった。
「いや、良い。これも前世からの定めだったのかもしれぬ。子は姫……わしは、そんな気がする。生まれておれば、そなたのような美しく賢い娘になったであろうな」
そう言われ、想いがあふれてきて須和は泣き伏した。
(この方との御子……欲しかった……)
悲しみと後悔で身も世もなく泣いたが、殿は咎めなかった。
その後、須和は何とか気持ちを立て直し、普段通りの侍女の仕事に戻った。そして徳川軍が三河へ帰るとき、殿に従い戻って行ったのだった。




