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小牧・長久手の戦 2

 織田・徳川軍と羽柴軍が睨みあうだけで日を送っている間、羽柴軍の側に商人たちが集まって来て仮のいちが立った。御陣女郎のいる店もある。

(そろそろ田おこしの時期なのに、これほどの大軍が留まっていては地元の者たちも迷惑じゃろうなあ)

 徳川家に奉公している須和は、もちろん殿に勝ってほしいが、甲府の本家で馬の世話や野良仕事をして暮らしていたときを思い出し、ついそう思ってしまった。

 月が替わって四月となり、三月の末からもう十日も睨みあっているだけだ。

 殿は家臣たちに相撲をとらせ、気を散じさせていた。一方の羽柴秀吉は殿を怒らせ、小牧山から出て来させようと、使いをやって徳川軍近くの小塚に挑発のふみを竹の先につけ、それを突き立てた。

 ふみを持って来させた殿は、一読すると放り出し、家臣の渡辺半蔵の名で、榊原康政に書かせた弾劾文を羽柴軍へ送った。

 文体は漢文である。

「そもそも羽柴秀吉なる者は、野人の子である。草萊そうらいより出でて、わずかに信長公の走卒になった。その後、信長公の寵遇ちょうぐうを受け、挙げられて将帥しょうすいを拝し、大国を領する身になった。その恩は天よりも高く、海よりも深く、そのことは世を挙げて知るところである。しかるに信長公死に給うや、秀吉はにわかに主御を忘れ――」

 と激烈にその非を鳴らした。

 これを陣中にいる僧侶に読ませた秀吉は激怒し、単騎本陣から走り出て小塚へ駆け上り、馬から飛び降りるなり、陣羽織の裾をめくった。

「この尻くらえ!」

 と、大声でわめいた。

 徳川方では、

「あの唐冠の兜を被り、孔雀の尾の陣羽織を着たのは秀吉であるぞ。撃ちとれ!」

 と鉄砲を撃ちかけたが、秀吉は悪態をつき、馬に乗って大声で笑いながら去って行った。

(こんな行儀の悪い大将が、おるか?)

 須和は呆れた。殿の様子を見れば、同様の感想を持ったようだ。

 この後、四月六日の夜半に羽柴軍に動きがあった。池田・森隊が小牧山を迂回し、東に向かったのだ。



 秀吉着陣前に羽黒で戦闘し、負けた池田恒興と森長可は挽回しようと徳川の本拠地・三河を襲うことを秀吉に申し出、許可されたのだった。兵二万の内訳は、

 三好秀次、八千。

 池田恒興、六千。

 森長可、三千。

 堀秀政、三千。

 総大将は秀吉の甥の三好秀次だが、実質上の指揮官は池田恒興である。

 小牧山を迂回して南下し、途中、庄内川流域の篠木、柏井の郷で休息した。それが四月七日のことである。

 この奇襲のための行軍は速く隠密でなければならなかったにも関わらず、彼らの行動は遅く、無頓着であった。七日の夕刻に、彼らが宿営した篠木の地元民が二人、小牧山に急を報せた。

 初め家康は、これを信じなかった。織田家の将として面識があるのみだった羽柴秀吉だが、その戦術能力の高さを家康は知っており、このような粗漏な作戦を考えるとは思わなかったからだ。

 家康は伊賀者の服部平六という諜者を放った。戻ってきた平六は先の百姓たちと同じことを報告した。加えて友軍の織田信雄からも同様な通報があった。

 さらに詳しく知るため、家康は伊賀・甲賀の物頭を斥候に放った。

 陽が落ちた頃、先発隊として母方の叔父で猛将の水野忠重の隊が出発し、半刻はんとき後、家康自らが出陣する。

 小牧山城の留守を任されたのは、酒井左衛門尉忠次、石井伯耆守数正、本多平八郎忠勝である。須和たち侍女も残された。



 殿が出陣したあと、酒井忠次さまの家臣がやってきて、「側仕えの女たちは普段通りおすごしあれ」と伝言した。

「殿のお世話以外では、何をすればいい? 台所仕事? 繕い物? 鎧の修理? 首級の化粧?」

「伊賀にいるときの戦で、かあさまやねえさまたちがやってたねえ」

「徳川さまの奥勤めをするようになってからは、さすがにそれはしてないわ」

 侍女たちがおしゃべりしている。殿のために戦場にやってきた自分たちだ。その仕える主がいないのなら、何をしたらいいのだろう。

「おふう。酒井さまにお会いしたいと取り次いでください」

 須和は、おふうに頼んだ。

 すぐに返事が来、酒井忠次さまが会ってくれると言うので、須和はおふうだけを連れて、陣屋へ向かった。

「阿茶局どの、何用か」

 夜半のことで、明かりが灯されている

 陣羽織を着た戦装束の酒井忠次さまが、中央にいた。

 その左隣には、同じく陣羽織姿の石井数正さま。このとき酒井さまと同い年の五十七歳で、色白、くっきりとした目鼻立ちをしているお方だった。殿と一緒に今川家での人質生活も経験して信頼が厚い。

 二人は徳川家の代表的な重臣で、酒井さまが徳川家の東の旗頭を勤め、石井さまが西の旗頭を勤めていた。西の旗頭は三河を統一した当初、年下の叔父の石井家成さまだったが、殿が遠江を取ったあと、交通の要所の掛川の城主に家成さまを置いたので、西の旗頭に甥の数正さまがなった。徳川家では旗頭は取次とりつぎ[外交窓口]もしたので、東の武田と北条などは酒井さまが、西の織田と羽柴については石井さまが担当していた。

 そして酒井さまの右隣には、鬼瓦のような顔をした本多さまがいる。

 生まれた翌年に実父が戦死し、叔父によって育てられた。その叔父も三方ヶ原の戦で戦死している。十三歳で元服し、同時に大高城兵糧入れが初陣となる。以後はあらゆる戦に参陣し、三河一向一揆では一向宗から浄土宗に改宗して殿に味方した。十九歳にして旗本先手役に抜擢され、与力五十四騎を付属される。この若さで、異例のことである。

 本多さまについては、須和も知っていることがあった。

『家康に過ぎたるものが二つあり

 からかしらに本多平八』

 三方ヶ原の戦のとき、武田信玄の近習・杉右近助が詠んだ歌だ。「唐の頭」とは、本多平八郎が兜に付けている舶来物の旄牛ぼうぎゅう[ヤク]の白いしっぽのことである。

 軽い鎧を着ながら、一度も戦で傷を負ったことがない。他家にまで知られた天才的な合戦師だった。

 その本多さまは、三十六歳。陰に潜むように座っている。

 徳川家を支える二人の家老と高名な将を前にして、須和は居住まいをただした。やや緊張したが、畏れはない。

「『普段通り』とのお言葉をいただきましたが、わたくしたちは殿あっての者どもでございます。お世話する方がおられない間、せめて城の台所仕事なり、させてもらえませんか」

「殊勝なことであるな」

「お城の兵もすくのうなりましたので、いささかの頭数に加えていただくのも良いかと」

 言ったとたんに、「はっはっはっ」と酒井さまが爆笑した。

「女武者の手を借りるほど、徳川の侍は困っておらぬ。弱腰の京勢など、城の者たちで蹴散らしてくれるわ!」

 尾張兵三人に三河兵一人。と、かつて言われた。織田信長が安土や京に拠点を移してからは、尾張の弱兵のことを上方勢、京勢と呼んでいる。実際、功名や手柄目的の将兵たちは形勢が不利だとすぐに逃げてしまう。だが、徳川の兵は主君のために死ねる。残った妻子を殿が面倒を見てくれるのを分かっているからだ。

 言質を取った須和は、翌朝から侍女たち皆で男装し、台所で飯炊きに従事した。

 ところが飯の炊ける匂いで、須和は吐き気がした。

「うっ」

 と、袂で口を押えてしゃがみ込んだら、寄って来た萩野がささやく。

「もしや、懐妊されたのでは?」

 そうなの? 

 須和は、ぼうっとしてしまった。思い返せば、月のものがない。

「めでたいこと。つわりには、おこげがいいそうですよ」

 おふうも近寄って来た。

「まだ誰にも言わないで。特に殿には知られないように。こんなときですからね」

 須和は侍女たちに口止めした。でも、嬉しい。男の子でも女の子でも、どちらでも良かった。殿はいずれ他の女と閨を共にするようになるだろう。けれども、子がいれば寂しくない。









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