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小牧・長久手の戦 1

 織田信長には息子十二人、娘十人、合わせて二十二人の実子がいた。正室の斎藤氏・鷺山殿(濃姫)には子がなく、生母はすべて側室であった。その中で特に寵愛されたのは、生駒雲球の妹の吉乃きつので、男子二人と女子一人を産んだ。嫡子の信忠と次男の信雄、そして、のちに信長の同盟者・松平元康(徳川家康)の嫡男・信康の妻となる徳姫である。

 信雄が次男となっているが、実は三男の信孝は二十日ほど早く生まれている。けれども生母が坂氏だったため、正室同然だった吉乃が産んだ信雄が次男とされた。

 明智光秀によって、信長と後継の信忠が討たれたのち、織田家の家督を継ぐのは次男の信雄か三男の信孝になると誰もが考えた。四男の秀勝は羽柴秀吉の養子となっており、一時武田家の人質となっていて武田勝頼に送り返された五男の勝長は兄・信忠と共に二条御所で討ち死にしていた。六男の信秀以下の息子は元服前の年少者でまた生母の地位も低かったから、候補にもならなかった。

 信孝を支持する者は、羽柴秀吉と共に山崎合戦を戦ったことを鑑みた。一方、信雄は父と兄の仇を討たなかったとはいえ、次男ということで支持を得ていた。けれども、「中国大返し」という奇跡的な行軍をやってのけ、主君・織田信長の仇を売った羽柴秀吉が信長の嫡孫で三歳の三法師を後継に推したことで、両者の思惑は外れる。清州城に集まった織田遺臣たちの協議(清須会議)の結果、織田家の家督は信忠の子・三法師が継ぎ、信雄と信孝はその後見をすることになった。

 遺領分配では、信雄が清州城を中心に尾張・伊賀・伊勢の五郡のおよそ百万石を領し、信孝は美濃、重臣の柴田勝家は越前八郡の旧領と北近江三郡を得たに過ぎなかった。遺領分配の不満、主家を凌ぐ力を持ってきた秀吉への疑念で、信孝と柴田勝家は協力して秀吉を除こうとした。

 しかし勝家は天正十一年四月に賤ケ岳の戦で敗れ、自刃。勝家に呼応して兵を挙げた信孝も秀吉と通じていた信雄に居城の岐阜城を囲まれ、脱出したものの尾張の野間大御堂で自害した。

 これによって信雄は織田の嫡宗になれると考えたが、秀吉が本願寺のあった大阪で築城工事を始め、完成した大阪城を六月に居城とすると、自分を主人とする気はないと覚り、秀吉の東国侵攻を感じ取っていた徳川家康と手を結んで、これを除こうとした。

 その結果、至ったのは、羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康の戦である。



 昨年の天正十一年(一五八三)は、八月に督姫さまの婚儀という慶事があったけれど、五月から七月にかけて大雨が相次いで、「五十年来の大水」と言われるほどの災害が領国を襲った。温暖で物成りの良い駿河国には特産の木綿、蜜柑の他に富士金山、阿部金山などがあり、旧武田領国には黒川金山、湯之奥金山などがあって、すぐに軍資金が尽きることはないけれど、やはり米が不作なのと水害があったのは痛手だった。

 それでも徳川の衆は意気軒昂いきけんこうじゃな、と殿の側らに控えた須和は思う。



 天正十一年十月、勝手に位階を進めた秀吉は礼状を送ってきたきりで御礼のために京へ上ってこない家康にじれたのか、それから四か月も経たないうちに、従三位参議じゅさんみさんぎに叙した。従四位下参議じゅしいのげさんぎの秀吉より位が上である。

 位階や官職は朝廷内では大きな意味があるものの、武家には「飾り」にすぎない。信長のように「天下布武」の意識を持つのならともかく、家康は三河と新しく領した地域にしか興味がなく、このときも礼状を送っただけだった。だが、秀吉の行動の意味することは正しく理解していた。

 このような神経戦をしている時期に、須和は家康の側に召されたのだった。



 やがて、天正十二年(一五八四)。三月の空に陣触れの狼煙が次々と上がり、城下に住む者から早々に軍装を調え、城へ集まってくる。足軽たちは大手門の外で待ち、武士たちは供回りを連れて城内へ入り、着到ちゃくとうの挨拶を行う。

 着到ちゃくとうとは、武将が氏名と到着時刻、引き連れて来た兵や装備などを報告し、これを軍政にあたる奉行や右筆が「着到目録」に記載して管理する。このとき、武将には目録に記入されたことを証明する「着到状」が渡される。これは合戦後の論功行賞の時も提出し、恩賞や加俸を査定する参考にもされた。

遠くに住む者までが参陣すると、出陣の儀式が行われた。

将たちが鎧装束を着込み、兜だけを脱いだ姿で床几しょうぎに腰かけ、打ちあわび、勝ち栗、昆布を食べ、三献さんこんの儀で酒を三杯飲み干し、ときの声を挙げてから、出陣した。



 信雄と家康は天正十一年から根回しをし、秀吉嫌いの越中の佐々成政、紀州の雑賀宗・根来衆、四国の長宗我部元親、そして同盟者の北条氏政と連絡を取り合い、各地でそれぞれ秀吉軍と戦うことになる。

 天正十二年(一五八四)三月六日、織田信雄は徳川家康と相談の上、秀吉に通じていた三人の家老を居城の伊勢長島城に呼び出して切腹させ、秀吉との断交を世間に示した。

 家康は三千の兵を率い、三月十三日、清州城で織田信雄と会見した。

その同じ日、織田信長の乳兄弟で織田家譜代の池田恒興(勝入斎)が織田軍に与すると見られていたのに突然、美濃の大垣城を出て尾張の犬山城を占拠した。

 味方すると思っていた大垣城の池田恒興と美濃・金山城の森武蔵守長可が織田家を裏切って秀吉についたのだった。金山城主の森長可は、池田恒興の女婿、本能寺で主君・信長と共に死んだ森蘭丸の兄、〝鬼武蔵〟と異名のある織田家と縁の深い武将である。

 家康は十五日に清州の北東にある小牧山城に向かった。小牧山は伊勢との連絡の便が良く、三河・遠江へ退却する際にも便利な場所だった。

 秀吉不在の中、池田恒興と協同するため、森長可は金山城を出て、十六日に犬山城南東の羽黒に着陣した。それはすぐに徳川方に知られ、酒井忠次、榊原康政、松平家忠ら五千人の兵が密かに移動し、三月十七日早朝に奇襲をかけ、結果、森長可の隊は死者三百人余りを出して犬山城へ敗走した。このとき敵を崩すきっかけを作ったのは、酒井隊の奥平信昌で、信昌の正室は家康の長女・亀姫である。

 家康は三月十八日に小牧山城を占拠し、榊原康政に砦や土塁を築かせて羽柴軍の攻撃に備えた。

 最初、家康が小牧山に陣を敷いたとき、秀吉も尾張を目指そうとしたが、紀州の一揆勢が三万という大軍で和泉岸和田城を攻め、その一部が大阪城に迫ったために動けないでいた。中村一氏、黒田長政たちが一揆勢を撃退することによって、ようやく三万の兵を率いて大阪城を出発し、三月二十七日に犬山城へ入り、その後、小牧山の北西、楽田らくでんに本陣を置く。秀吉が到着する間に両軍が砦や土塁を築いていたので、双方手が出せなくなり、戦況は膠着した。[小牧の役]



 出陣する前に、従軍する須和を始めとする侍女団へ酒井忠利どのが告げた。

「ともかく自分の身は自分で守れ。殿の足手まといにはなるな。乱戦ともなれば、そなたらをわしらが守ることはできぬゆえ」

「覚悟の上でございます」

 代表して答えた須和の言葉に、おふうを筆頭とする女たちがうなずく。

「女武者に討ち取られるのを男どもは恥とするから、近寄っては来るまいが、何があってもおかしくはないからな。初陣というのは、男でも緊張する。身動きが出来なくなったら、物陰にでも潜んでおれ」

 須和たちはその忠告を謹んで拝聴した。

 一団が浜松を発った翌日、岡崎城に着いた。ここで着到ちゃくとうする武将たちを待っている間、須和たち侍女は大方殿とも呼ばれている生母のお大の方さまに拝謁した。

 須和たちは、生母さまの住む二の丸で「息子を頼みます」とのお言葉をいただく。

 初めて会ったお大の方さまは、六十近くだろうか。優しそうな方で面差しが殿に似ていた。

 殿を懐妊する前、男児誕生を願って毘沙門天に祈りを捧げ、離縁された際には、水野氏の居城・刈谷城へ送り届ける三河兵たちへ、『我が兄・下野守しもつけのかみ[水野信元]は短気勇猛なお人です。岡崎の士が来たと知れば、兵を出して攻めかかり、そなたたちを討ち取るでしょう。さすれば、永く恨みが残ります。伯父・甥の間であれば、竹千代成人のあかつきには和睦の話が起こるやもしれませぬ。そのとき遺恨あらば、和睦の妨げになります。この道理をわきまえ、早々に岡崎へ引き返してたもれ』と説得して帰したそのあと、言葉通りに数十騎の水野の兵がやってきた。岡崎の兵を殺すためだった。しかし誰も輿の周りにいない。水野の兵は仕方なく輿を守って帰城した。

 聡明さと胆力。このような逸話が語られる女性だった。しかし老いた今は、子や孫、そして縁ある女たちを慈しむ婦人に見えた。

 その後、徳川軍は岡崎城を発ち、矢作川を越えた。山の中の甲府と海と山の間にある駿河・遠江しか知らない須和にとっては、初めて見る風景ばかりだった。伊賀出身の女たちはそうでもないようで、さかんに思い出話をしていた。

 殿の指示で須和たち侍女はまだ戦装束はせず、小袖に手甲・脚絆、笠に面布といった鷹狩に同行するときのような旅装束をして馬に乗っている。須和の馬の口取りは加兵衛がし、荷物は伊助と与一が担いでいる。

 男たちは山道を整然と行軍していた。徳川家康の大馬印、金の開扇が陽の光が当たって輝いている。

「徳川さまは軍律に厳しいとうかがっております」

 萩野が馬を寄せて、須和に告げた。

「武田も厳しかったとのこと」

 亡き夫は、戦のときこのような様子であったか、と須和はふと思った。敵の首一つ、挙げられなかったが。

 街道を進み、鳴海をすぎたころ眼前が開けた。尾張に入ったのだった。

 山並みが遠くに見える。桑畑、まだ耕されていない田んぼ、穂が実る前の麦畑、点在する藪や林、野原に咲く黄や白の花々、幾筋も流れる川、そして幾つかの城。その城も、浜松城や岡崎城のような土塁に囲まれ、茅葺きや板葺きの館がある物ではない。

「織田右府さまが石垣と天守のある安土城を築かれてから、尾張の城も同様なものが建てられるようになったとか」

 萩野も彼方の城を見て言う。

「いろいろと変わっていくのですね」

 つくづく自分は田舎者だと思った。でも、それを恥とは思わない。知らないことは、これから学んでいけばいいのだ。

 やがて徳川軍は織田中将(信雄)のいる清州城に入った。

 その直前、伊賀と大和の郷士二百人ほどがやってきて、参陣を乞うた。本能寺の変のあと、伊賀越えをした際に助力してくれた者たちだった。

「我らの郷里の者たちがお味方いたします。きっと勝ちますよ」

 それを聞いてきたおふうが言い、他の伊賀出身の侍女たちも喜んでいる。

 徳川軍は清州城に立ち寄ったあと、小牧山城に入った。ここは以前、織田信長が城を築いたものの、すぐに岐阜へ移り、城番が置かれていただけの場所だった。ただ、平野の中の丘の上に建っているので、頂上からは清州城、大垣城、犬山城がよく見えた。

 兵たちは城を調え、土塁を築いた。この戦支度をした四日後、酒井忠次隊が出てゆき、勝利する。

 この間、小牧山城で須和たちは浜松城にいたときのように、殿の身の回りのことをし、戦場いくさばに来たとはとても思えないような日々を送っている。殿も軍議があるとき以外は持ってきた『吾妻鑑』を読んでいた。戦場だと分かるのは、酒井忠次隊が戦った日の鉄砲の音だけだった。

 この羽黒での戦で勝利した酒井忠次隊を、殿はひとり一人の名を呼び、上機嫌で出迎えた。

 それから徳川軍は小牧山城と犬山城の間に砦と土塁を築き、馬防柵を植え並べるだけで、再び須和たちは戦場にいるとは思えない日を送った。

 この日常が激変するのは、十日ほどして犬山城の方から雲霞うんかのごとく人が湧いて出て来たことからだ。

 地鳴りがするほどの人馬のざわめき、鐘の音。そして小牧山城から目と鼻の先の楽田がくでんに羽柴秀吉の馬印・千生り瓢箪が掲げられた。

 殿の側に侍り、城からその様子を眺めた須和の身体が震える。ぞくぞくっ、としびれるようだ。

(これが武者震いというものか)

「これほどの大戦おおいくさは、わしも初めてだな」

 つぶやいた殿は、この大軍勢を前にしても、少しも怯んではいなかった。

 


 織田・徳川軍。本隊は酒井忠次、榊原康次、石井数正、本多忠勝、井伊直次、水野忠重、本多正信、大須賀康高。

 計・一万六千。

 羽柴秀吉軍。本隊は、羽柴秀長、丹羽長秀、稲葉一鉄、筒井順慶、蒲生氏郷、蜂屋頼隆、金森長近、細川忠興、滝川一益。

 別働隊二万は、三好秀次、池田恒興、堀秀政、森長可。

 総計・六万。(十二万とも)



 織田・徳川軍は、数の上では圧倒的に不利な状況にあった。

けれども家康は二十年以上という長い戦歴の中で、兵力の多少にこだわったことがない。今回も羽柴軍は烏合の衆で、秀吉は織田信長のような絶対的な命令者ではないことを知っていた。一方で、かつて最強と言われた武田遺臣と次に強い、そして現在、最強と評されつつある徳川の将兵を持つ自分は、たとえ兵力が劣ろうとも、やり方によっては勝機があると考えていた。









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