神尾孫左衛門忠重という男
『おまんを嫁にしたのんは、安かったからじゃ』
これは、初めて臥所を共にしたあとに夫が告げた言葉だ。
須和が生まれた飯田氏は、もとは信濃国伊奈郡飯田郷(現在の長野県飯田市)に住んでいた一族で、清和源氏の末裔を称し、鎌倉期に甲斐国の守護となった武田氏に古くから仕えていた。
一方、縁談のあった神尾孫左衛門忠重の先祖は藤原氏を称し、元は加納と名乗っていた。加茂神社の神職であったが、宮中に娘が勤めていた際、勅勘を蒙り、その連座によって駿河国に流されたという。のちに第六代足利将軍義教が富士山遊覧のおりにまみえることを得て神職に復し、そのとき神尾と名を改めた。
孫左衛門の祖父・元重、父の久吉は共に駿河の守護大名・今川氏輝に仕えたが、氏輝が二十四歳という若さで病死したのち、神尾の一族は侍奉公を辞め、郷士となった。けれども氏輝の弟で家督を継いだ義元が桶狭間で織田信長に討たれて領国の駿河・遠江が混乱した際、それに乗じて武田氏が駿河を支配したときに、孫左衛門は駿河統治のためやってきた武田氏の一門・一条信龍の家臣となった。
「孫左衛門どのは三十七歳で、須和とはちーと年が離れておるが、槍一本で徒士侍にまでなった御方じゃ。下級武士とはいえ、一条様の直臣に、なかなかなれるものではない。須和に二親がいないことも承知で、身一つで来てくれればいいと言う話でな。若い頃、一度妻を娶ったが、子ができないまま死別し、やもめ暮らしだそうだ。一条様のご家来になって、早く馴染むためにも甲斐の娘を妻にと望んでおられる」
と、仲立ちの人から聞いた話を半兵衛は須和にした。
徒士侍とは、馬乗りの大将ではなく、それに付く小身の侍である。
地ばえの武田氏家人の末裔である須和と、郷士から侍奉公に転身した下級武士の孫左衛門なら、生まれや家柄など、まあ釣り合っている。歳はかなり離れているが。
神尾孫左衛門は、成瀬正一のように手柄を立てて直臣になったのではない。それは永禄年間の武田氏と今川氏の事情による。
須和が生まれる二十年ほど前の天文二十一年から二十三年にかけて、それまで戦っていた武田氏・北条氏・今川氏は婚姻によって同盟を結んだ。
これによって武田信玄は後顧の憂いなく本格的に信濃侵攻を行い、上杉謙信と対立してゆく。北条氏は関東支配のために、今川氏は今川氏輝亡き後の後継者争いで分裂した領国内の安定と三河へ進出するため、手を結んだのだった。
しかし永禄三年(一五六〇)、須和が六歳のときに今川義元が桶狭間で織田信長に討ち取られ、氏真が当主となると、三河の松平元康(徳川家康)が自立し、状況が変わってくる。
須和が九歳だった永禄六年(一五六三)に今川氏の領国では氏真に反発して遠江の国衆の大規模反乱が起き、これを見た信玄は反乱が駿河まで波及するようなら、今川家臣を調略して駿河に攻め込む計画を立てる。結局、駿河で反乱は起きなかったが、永禄十年(一五六七)、今川氏真は甲斐への塩止めを敢行し、三国同盟は破綻した。
以後も今川氏領国の駿河・遠江の混乱は収まることなく、須和が十四歳になった永禄十一年(一五六八)に武田信玄は、この四年前に三河一向一揆を平定し、徳川家康と改名した徳川氏と和睦し、共同で今川領へ侵攻。遠江は徳川氏、駿河を武田氏で分割することを約したのだった。
今川氏真は領国を追われ、今川氏に仕えていた国衆は主を失って、北条氏を頼るか、武田氏の家臣となったのだった。
(ご当主・信玄様が駿河に侵攻したのが永禄十一年。これから考えると、孫左衛門どのは一条様のご家来になってまだ二年と少しほどか。三十代半ばで新参者とは)
と、十七歳の須和は考えた。
早ければ四十で隠居し、息子にあとを譲るものだが、初老といっていい年齢で侍奉公を始める男は、かなりの変わり者だろう。嫌な予感がしたが、本家のおじが持ってきた縁談を断れるわけがない。何よりも、口減らしになる。
「人当たりの良い、穏やかなお人らしいぞ」
半兵衛のこのひと言で、須和は縁談を承知した。
嫁いだのは翌年の元亀三年(一五七二)の秋、当主の武田信玄が西上の途につくということで、その挨拶のため孫左衛門の主君・一条信龍が甲府へ来た際のことであった。前年に駿河は武田氏によって平定され、信龍は藤枝の田中城代となっていた。
神尾孫左衛門・三十八歳、須和・十八歳のことである。
須和は本家のおじが用意してくれた持参金としての米俵一俵と、鏡と櫛と着物が数枚入った行李一つを持って、馬に揺られていった。それ以前に、孫左衛門からは結納として、痩せた老馬が一頭贈られてきた。
須和の行先は甲府にある一条信龍の屋敷内の徒士組の長屋である。
婚儀のときに初めて会った神尾孫左衛門は、がっしりとした体格をし、切れ長の目、色白でのっぺりとした顔、鬢に白いものが混じっている男だった。
神尾氏側の親族は、商家に養子にいったという異母弟で孫左衛門に少しも似ていなかった。丸顔で愛嬌があった。名を松木五兵衛忠成といった。
「初めてお目にかかります。姉様、近江の長浜にいる妹から祝いの品を預かってきております。どうか、お納めください」
如才なく口上を述べた松木五兵衛が三反の絹織物を差し出した。薄緋、紅梅・萌黄の色でそれぞれ染めてある。
「なんと美しい」
高価な絹の布など、お裏さまの御所で見て以来のことだ。
「加代は散財したものよ」
横にいた孫左衛門が皮肉っぽく言った。挨拶以外で初めて聞いた婿殿の言葉だった。
『人当たりの良い、穏やかな人柄』というのは、仲人口か。と須和は思った。吝くて小心者の印象を受けた。
孫左衛門の両親は駿河に行ったときに会うことになるから、婚礼には来ていない。孫左衛門には腹違いの弟妹がいて、弟は松木家に養子にいったこの五兵衛。妹の加代は、永禄八年(一五六五)、武田勝頼の正室に織田信長の姪を迎えて織田家と誼を通じた縁で、その家臣の羽柴秀吉の家中の者の妻となって、今は近江国にいるということだった。
「お加代様には、どうぞよしなに」
と、須和は礼を言った。
結局、婚礼の客は徒士頭の楢崎弥右衛門一人で、見届け人のようだった。家臣の結婚は主君の許しが必要で、孫左衛門と須和は正式な夫婦である。親族の席には松木五兵衛と飯田半兵衛だけだった。
雑穀の飯に川魚の焼いたもの、野菜の煮つけに酒がつくという膳だったが、ふだん雑炊ばかりであるから、下級武士の祝い膳としては、豪華なほうだろう。
楢崎弥右衛門は孫左衛門の同輩だったが、気はしがきき、血の気が多くてもめ事が多い徒士組で、うまくそれをさばくということで頭となったのだ、と駿河に行ったとき、長屋の女房衆から聞いたのだった。
祝いの膳を食べ終わると、三人は帰っていった。その後、須和は奉公人を孫左衛門から紹介される。
従者の源三郎。三十過ぎほどのがっしりとした体格の男で、神尾家の下人だったが、孫左衛門が侍奉公する際に解放し、従者にした。
下男の与一。二十代半ばの若者で、馬の世話の他、雑用をする。
下女のマツ。三十前後の小太りの女で、家事をしている。
マツと小夜は台所の板の間で、源三郎と与一は馬小屋で寝起きすることになった。
そして床入りとなり、夫婦の寝間に入ったとき、孫左衛門は告げた。
「今日から、わしが亭主じゃ。言うことをよう聞けよ。わしは子が欲しい。早く孕め」
と、乱暴に須和を抱いた。
閨のことの後、孫左衛門は吐き捨てるように言う。
「なんじゃ。生娘だったか」
悪いか、と須和は思ったが、言わなかった。代わりに訊いた。
「何故、わたくしを娶ったのですか」
「掛かり人で二親のいないおまんなら、逃げ帰ることもあるまい。うるさい親もおらんし。何より、結納が安う済んだからの。そう、おまんを嫁にしたのは、安かったからじゃ。ブサイクでも嫁に来れて、良かったと思え」
須和は夫となった男の言葉に、耳を疑った。やはり仲人口なんぞ、信じるのではなかった。
婿殿は、外面がいいだけの下種だったようだ。
地獄じゃな。
須和は思った。しかしこの世で生きるということは、そのままで地獄に棲んでいるのかもしれない、とも思い返した。