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比翼連理(一時的な)

「どうやらわしは阿茶を満足させることができたようだな」

 闇の中で殿が、くすくす笑っている。

「わしも満足した。我らは相性が良いようだ」

 睦言をどう返していいか分からず、須和は黙っていた。しかし、殿の肌着の襟元をきゅっと右手で握った。多分、顔が赤くなっているだろう。

「須和が……阿茶がわしを好いておるらしい、それも想いを忍んでおるらしいと、お愛から聞いたとき、わしも戸惑った。わしの許に来る女は、政略がらみばかりで、互いに情は二の次だったからのう」

 御方おかたさま、誤解なんです。殿も真に受けないでください、と言いたかったが、真実を暴露すると職を失くすのが確実だったので、須和は沈黙を守った。

「お愛に『一度でもいいから、須和の想いを叶えてほしい』と懇願されて召したが、これは手放せなくなりそうだ」

 と、殿は須和を再び抱いた。



 翌日から、殿は須和を片時も離さなかった。

 朝の鍛錬も一緒。殿が「青影」という馬を与えてくれたので、須和は加兵衛に馬の世話を頼み、男装して馬場で乗り回した。また、殿は身の回りのことをすべて須和に任せ、家臣との会合にも連れて行く。そのため、重要な家臣の顔を名前と経歴と共に須和は覚えてしまった。そして夜は閨で、須和は訊かれるままに信玄公の自分が見聞きした逸話を語り、習い覚えた『源氏物語』『伊勢物語』『古今和歌集』などの話をし、殿は『吾妻鏡』を語って聞かせてくれた。

 鎌倉幕府を開いた源頼朝公のことを殿はとても尊敬していて、熱く語る。

「だが、すべて読み通しておるのではないのだ。解釈も違っているかもしれぬしな」

 と、少し残念そうだった。

「いつか良くご存知のお公家さまに講釈していただいたらいかがでしょう」

「そうだな。いつになるか分からぬが」

 殿が寂しそうに笑った。

 殿の側らで、重臣たちとの会話を聞いていて徳川家の置かれた今の状況が須和にも理解できるようになった。

 亡き織田右府さまの孫の三法師君を擁し、鎌倉幕府における北条氏のような執権となり、実権を握るかに見えた羽柴秀吉は、自らが織田家を凌ごうと動いていた。織田家で三法師君の後見の座を争った三男の信孝どのを自害に追い込んだものの、実権が手に入らないとみた次男の信雄どのはその秀吉に反発し、徳川と手を結んで秀吉を討とうとしている。そして徳川は、天下をその手に握ろうとしている秀吉に対抗しようとしている。

 ――おもしろい。

 須和は殿と同じ目線で物事を見ることができたとき、そう思った。

 しかし須和には何の力もないので、眺めているだけだが。

 とはいえ、二人きりになると殿は須和にいろいろと語りかけ、それに対して須和が言うことに何か思いつくことがあるのか、寡黙と言われる殿が閨では饒舌だ。

 民政や軍事、人事のこと以外でも漢籍・古典の話など、聞いているとおもしろいし、須和が分からないことを訊くと殿も面白がってくれる。趣味嗜好が合っていて、殿といると楽しい。

 殿が持仏の黒本尊に向かって毎夜、念仏を唱え、写経をしているのを見て、須和も真似ると、殿は小さな阿弥陀仏とそれを入れる厨子を贈ってくれた。

 嬉しかった。

比翼連理ひよくれんり、男女の仲睦まじさ――男に添う、とはこういうことか)

 擬態ではなく、須和は本心から徳川家康という男を恋慕うようになった。

 夫ではないが、心の中でのみ自分の〝唯一無二の夫〟と想うのなら、ばちは当たるまい、と思う。

 殿にとっての妻、一番はお愛の方さま。

 それは誰にも、自分自身にも譲れないことだった。

 私は二番でいい……。



 こうして殿との〝蜜月〟を過ごしているうちに半月経ち、年が明けて於茶阿局おちゃあのつぼねが西郡の方さまの許から戻って来た。娘の督姫さまが輿入れして寂しがっている御方さまを慰めるため、於茶阿局はしばらくそちらへ行っていたのだ。

「阿茶局さま、こちらにお出ででございましたか」

「はい。殿の側付きとなりました。どうぞ、よしなに」

「ええ、こちらこそ」

 と、にこやかに答えた於茶阿局が、ついと顔を寄せて小声で告げた。

「今はご寵愛を受けておいでのようだけど、いい気にならないでね。殿の寵を受けて御子をもうけるのは、わたくしよ」

 須和は笑うのをこらえた。寵を競うなど、奥勤めの女としてやってはいけないことだ。

 一人の男を巡っての嫉妬なんて、ありきたり過ぎて、めんどくさい。やっぱりこの女とは、合いそうにない。

「ま、異なことを。於茶阿局さまは、女訓を習い遊ばさなかったのですか」

 答え、そして声を低くした。

「嫉妬はならぬと婦道を習いませんでしたか。ああ、寺では読み書きを教えても、そこまでは」

 教養がないと、あてこすった。

「失礼なっ」

 於茶阿局は打掛の裾を払って、立ち去った。

「仕事はできるのだけど」

 去って行く背を見て、須和はつぶやいた。

 於茶阿局は郷士の娘と聞いたが、鋳物師の妻となったことを考えても、武家の女の覚悟を知らないのではないか、と須和は感じた。

(教えてもいいけれど、おしつけがましいと嫌われるだろうな)

 比翼連理。男女の想い想われる仲など、この世で永久に続くわけがない。

 ひととき夢を見たっていいではないの、と須和は思った。









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