お召し
市場姫さまは嫁ぐといっても、城下の筒井さまへ与えられた屋敷に住む。筒井さまは大和国に領地を持っておられるが、そこは代官に任せて浜松に住み、徳川の将として働くということだった。
「荒川との子は、置いていかねばなりません」
幼い子らと離れるのは辛く寂しいので、市場姫さまは肩を落としている。
福々しく可愛らしい方だが、一向一揆での親しい人たちの裏切りと夫との死別を経験し、面差しに影がある。
市場姫さまの前夫の荒川殿はすでに死亡し、殿に反旗を翻したので親類縁者もいない。けれども、市場姫さまが殿の異母妹なので、子どもたちは浜松城の殿の許で育てられることになった。つまり、面倒を見るのは、お愛の方さまと西郡の方さまだ。
「お子たちは城にいますから、ご城下なら、いつでも会いにこられますよ。〝行ってはならぬ〟というほど、筒井さまも狭量ではありますまい」
御方さまが慰めている。
市場姫さまのお子は、男子二人と女子一人の三人。まだ成人前で、可愛い盛りの子らだった。
もうお一人の多劫姫さまの再嫁先は決まっても、まだ時期などは決まっていなかった。けれども輿入れが三つも立って続けにあり、嫁入りの衣装や道具を調える茶屋家は大忙しだ。お付きの侍や女房の衣装なども加えると、膨大な量となる。そこで松木五兵衛忠成の所にも大量の注文があり、須和の義弟はほくほく顔だった。
「甲府の親父殿も、徳川様によって引き続き甲州金鋳造のお役につくことを安堵されました。いやまったく。あねさまのござる方角には足を向けて寝られませんで」
久しぶりに会った松木五兵衛は、さらに顔も体も丸くなったようだ。
須和は今回、台所横のいつも会う場所ではなく、自分の局に義弟を呼んだ。この頃の奥向きは、後年のような厳格な男子禁制とはなっておらず、役人の許可があれば男でも入ることができた。まして松木は御用商人であり、須和の縁者である。
「忠成どのの、先見の明があったゆえのこと。私は何もしておりません。ですが」
と、須和はにこりと笑んだ。
「少しでも感謝してくださるというのなら。一つお願いを聞いていただけませんか」
「何でしょうか」
「あなたの所の家人の伊助を、私にください」
「とは? 伊助が何ぞいたしましたか」
「いえ。何かしたということではなく、忠成どのもご存知のように、息子は竹千代さまへのお目通りも叶い、将来は直臣となることでしょう。けれども息子には父親がおりません。家臣もおりません。家を興さねばならぬ立場。であれば、一人でも多く信頼できる者をつけてやりたいのです。伊助はよくやってくれています。息子もなついております。どうでしょう」
「このこと、伊助には?」
「話しましたら、私と忠成どのの決めたことに従うと申しておりました」
主人の松木五兵衛と会う前に、須和は伊助を呼んでこの件を話した。
初め驚いた伊助だが、神妙な顔でうなずいた。須和の意図を察したのかもしれない。
松木家から神尾家の使用人、つまり須和が願うように神尾五兵衛の家臣となるということは、商家で一生、使用人として働くより、武功を挙げれば、何かしら出世の糸口になる。今は主筋の娘、萩野を妻に望むことも不可能ではない。
「あねさまのたっての願いならば、聞かざるを得ません。伊助を神尾の家臣となさってください。なに、わしの実家に移るだけなので、嫁や親父殿も快くうなずいてくれるじゃろう」
その答えの通り、後日正式に松木家から「諾」との書状が届いた。
伊助は、「松木」からの別れとして「多木」と姓を名乗り、諱は松木五兵衛が「良いことが広がるといいな」と言ったことから、「吉広」とした。
以後は庭番ではなく、神尾五兵衛の従者として付き従うことになった。
この年の六月には、浜松の松木家の宿にいた小夜が、娘の幸と生後半年になる息子の弥九郎を連れて須和の許へやってきた。
「やっと、オカタさまへのご奉公が叶います」
嬉しそうに語る小夜に、須和は頼んだ。
「小夜は将来、五兵衛の興した家で侍女たちの統括を担ってもらいます。そのつもりで、ここで奥向きのことを学んでください」
小夜の夫の与一も、松木五兵衛から正式にもらい受け、須和は言った。
「私の息子の五兵衛が元服し、戦に出るようになったら、家臣として助けてください」
「もちろんでございます。お生まれになったときから存じ上げている若様です。下人身分から解放してくださったオカタさまのご恩は山よりも高く、真心を込めて、生涯お仕えさせていただきます」
と、立派な若者となった与一は頭を下げた。
息子の五兵衛が家を興した際には、下働きの者など紹介してくれると、松木五兵衛は請け合ってくれた。
(さて、萩野にはどう切り出そうか)
伊助が神尾の家臣になると聞いて驚き、祝ってくれた萩野だが、それ以後、伊助のことを知らんぷりしている。
須和としては、もう身分という障害はないのだから、素直になってもいいのに、と思うのだが、当人にはまた違う想いがあるようだ。
息子が元服したあとのことを考え、須和が日常の仕事をこなしながらいろいろと動いていた天正十一年(一五八三)、八月十五日に督姫の輿入れがあった。
大名の家同士の婚礼なので、互いの体面もあって華やかなものだった。
督姫さまは白いお衣装、上着に幸菱、白小袖、打掛、下着は練絹。という花嫁衣装で、奥においては生母の西郡の方さまとお愛の方さまに挨拶をし、表へ出てから、殿へ別れのご挨拶をして玄関に出て、輿に乗った。
花嫁行列の輿は十二丁、四十二丁の長持と三千の騎馬武者、女房衆、一万人の供、そのそれぞれの衣装がきらきらしい。
華やかな行列は東へ向かい、小田原の北条氏の城へ着くと、そこで婚礼の儀が執り行われる。儀式は夜、式三献の後、婿と花嫁が対面して婿君から贈り物があり、饗応の膳に向う。祝言は三日間行われた。
九月に下山の方さまが男児を産み、万千代と名づけられる。殿の五男である。
奥向きに赤子が増え、若様にお仕えする少年、奥で見習いをする少女、使用人の子どもたちと、子らの声が賑やかとなった。
「騒がしゅうございますか」
息子の顔を見にやってきた殿へ、御方さまが訊くと、「よいよい」と機嫌のいい返事があった。
その翌々月、少し寒くなり始めた頃に、市場姫さまの婚礼があった。こちらは他領へ行くわけでなく、ご城下が嫁ぎ先なので行列の行く距離は短かったが、花嫁行列の華やかさは督姫さまに劣らなかった。
(殿は『吝嗇』と言われるが、使うべきときにはケチることはない)
須和は甲府に自分を迎えに来た老役人の言葉通りだと思った。
そして、多劫姫さまの婚礼は、来年の七月と決まった。
このとき須和は知らなかったが、羽柴秀吉との対決が抜き差しならない事態になってきていたのだった。
八月の督姫の嫁入りの際、二十二歳の当主・氏直の父の氏政はこの婚儀を喜び、弟の氏規は旧知であり花嫁の父でもある家康への書状に、「歓喜、大形ならず」、大変な喜びようであると伝えている。
北条氏も羽柴秀吉の東国進出を感じ取っており、徳川と連合できて安堵したのだった。越後と北信濃を領有する上杉景勝が秀吉に恭順の態度をとっていたので、北条氏としても徳川氏との連携は必要なのだ。
十二月に入り、家康は一向一揆以来禁止していた一向宗の禁制を解除し、本願寺との関係改善を図った。本願寺門徒は織田信長との石山合戦で敗れたものの、他の地方ではまだ一揆組織は健在だったので、あなどれない勢力だった。これも秀吉との対決を予想しての布石である。
このような情勢の天正十一年暮れ。須和はお愛の方さまに呼び出され、告げられた。
「須和、いえ阿茶局。そなたは明日から殿の側付きとなります。よかったですね。長年の想いが叶って」
笑顔の御方さま対し、須和は「はい?」と疑問付きの返事をしてしまった。
どうしてそうなる?




