戦と婚礼
明けて天正十一年(一五八三)正月、年賀の挨拶のため浜松城の広間に集まった家臣たちの前に、家康は禿姿の五歳になる三男の長丸君を伴っていた。そして、名を竹千代と改めると告げた。後継にするとの宣言だった。
須和の息子の五兵衛も、須和が縫った肩衣姿で竹千代君にお目通りし、正式に近習となった。
その月の中頃に、お竹の方が女児を産み、振姫と名づけられた。
また、西郡の方の侍女のお久が部屋を賜り、「於茶阿局」と呼ばれるようになった。督姫の輿入れのため、上臈[上級の侍女]が必要になったからだった。
「於茶阿局は、殿の閨に侍っているそうですよ」
倉見局が御方さまに告げた。
「殿のお好みは分かりません。確かあの方、三十路ではありませんか」
「お若く見えますからね」
御方さまと倉見局が何故か、須和の方を見て話している。
「須和、気を落とさないように」
御方さまが慰めてくださったようだが、ちょっと理解ができなかった。
しかし、お久どのが上臈になったのは納得できた。
(努力なさっていたからな)
気が合いそうにない相手だったが、奉公したこともなかったのに行儀作法を覚え、下仕えから上って来た。聡明なので侍女たちを取りまとめるのが上手い。
それは須和も認めるところだった。
お久こと於茶阿局は、遠江の金谷村の鋳物師の妻だったが、夫が代官に殺され、仇を討ってもらおうと、三歳になる娘のお八を連れて鷹狩に来た家康の前に飛び出し、直訴した。願いは聞き届けられて代官は処罰され、お久は召し出されて奥勤めをすることになった。
娘のお八も少し大きくなると、年頃が近い登久姫、熊姫の遊び相手を務めている。
於茶阿局が閨に侍るようになったのは、下山の方の妊娠が分かったからだ。
下山の方こと、お都摩は美濃の岩村城で妻のおつやの方と共に織田信長によって逆磔にされた武田二十四将の一人、秋山虎繁の甥の秋山虎康の娘である。秋山越前守虎康は、武田信玄の次男・龍宝[海野信親]の付き人、聖道様衆で、巨摩郡高畠村に住んでいた。
家康と手を結んだ甲斐の国衆・穴山梅雪(信君)は河内の領主で、居館が下山郷(身延町)にあり、お都摩はその穴山梅雪の養女として十六歳のとき家康に献上されたため、「下山の方」と呼ばれた。
一緒に和睦のための人質として差し出された、お竹の方は武田家で織田家との取次[外交窓口]をしていた市川十郎左衛門昌永の娘である。市川昌永は岐阜城に泊まり込むほど交渉し、武田勝頼の正室に織田信長の養女を迎えることに尽力したが、その正室がお産で亡くなり、継室に北条氏の娘を迎えるにあたって、立場を失った。
家康も、お竹の方が振姫を産むと興味を失くしたようで、閨に呼ぶことはなかった。
十歳となり、正式に若君の近習となった須和の息子の五兵衛は、ご奉公に励んでいる。しかし、しばらくすると沈んだ様子を見かけるようになった。
「五兵衛、気になることでもあるの?」
その日の勤めを終え、部屋に戻って来た須和は繕い物をしながら、書物を取り出して今日習ったことを覚え直している息子に訊いた。
萩野は気を利かせて、隣室へ行っている。
「朋輩で、やな奴でもいる?」
「うーん」とうなった五兵衛は、話し出した。
「一緒にお仕えしている人から意地悪をされたことはありません。みな良い方たちで、元服前からお仕えしている私たちをむしろ気づかってくださいます。若君たちが殿へご挨拶に行かれると、殿もお付きの私たちにお声をかけてくださり、ありがたいことです」
「まあ、それは良かったこと」
「ただ、その……自分の不甲斐なさを痛感することが多くて」
「どういうこと?」
「元服前からお仕えしているのは、傅役の土井甚三郎どのと、今年からは私と水野清六郎どのと三人だけなのですが、清六郎どのは血筋からいって殿のお従弟さまにあたり、私より年下の八歳なので学問も武芸も初学なので、まあ理解できます。けれども甚三郎どのは私より一つ上だというのに、はるかに出来が良く、麒麟児とはこういう方を言うのかと感じるほどです。やはり噂通り、殿のお子なのかと。それに比べて、私は何もかも及ばなくて、こんなふうで果たして立派なご奉公が出来るだろうか、と思うのです」
おやおや、と須和は思った。
これまで一緒に学ぶ者もいず、母親からしか学問と武芸の手ほどきを受けていなかったので、他の人を見て落ち込んでいたのか、と。
近習になったことによって、五兵衛も甚三郎どのと同じ師について学問と武芸を習い始めたのだった。須和が施した教育は初学で、これから高等なものになってゆく。
「その自覚は、良いことです」
須和は繕い物の手を止めて言った。
「その前に、甚三郎どのは殿のご落胤という噂を嫌っておいでです。ひとが嫌がることを口にしてはいけません。たとえ、その相手がいないときでも」
「はい」
と、五兵衛も書物を置き、須和に向き直った。
「人の能力はそれぞれ違います。殿はそれを見抜いて我らを使ってくださる主君です。その殿は、人の心の誠を尊ばれます。甚三郎どのはとても優れておいでで、それも良いこと。でも、甚三郎どのと五兵衛はそれぞれ違った人です。五兵衛は己を知り、その能力をもって真を尽くしてお仕えなさい。学問と武芸の修練は、ご奉公するためにだけでなく、己を知るためにも励むことです」
「はい、かかさま」
十歳の子には難しい話かな、と思ったが、良い返事が返って来たので須和は嬉しかった。真っ直ぐ育って欲しいと願う。
(それにしても)
と思案する。
五兵衛が元服すれば、神尾の家の当主となる。この部屋から出て、甚三郎どののように城内に別の部屋をいただくか、城下に住む場所をもらうか分からないが、信頼する家臣を集めねばならない。
年末に男児を産んだ小夜が、『子連れでご奉公がかなうのなら、すぐにでも参りたい』と母親の梅を通じて言ってきたし、萩野と伊助の様子を見ていて好き合っているようだったから、『夫婦になっては』と勧めたら、『伊助は使用人ですから、松木の家の者が許さぬでしょう。それに私は前夫との間に子ができませんでした。あの人に子を与えられないのでしたら、夫婦になる必要もありません。私たちは来世で夫婦になるよう約束しているのです』と寂しいことを言っていた。
(神尾の家を興すことも、ゆるゆると進めねば)
やるべきことが山積みだった。
のちに、土井甚三郎は元服して、利勝と名乗る。長丸、改め竹千代君が成人し、二代将軍秀忠となると老中に就任し、幕政の中心を担ってゆく。家光の時代にも引き続き老中を勤め、その晩年には大老になった。
水野清六郎は、家康の生母・お大の方の同母兄、水野忠守の子である。
家康の母方の祖母・華陽院が水野忠政との間にもうけたのは、お大の方の他、忠守、近信である。
近信は桶狭間の戦のときの刈谷城での戦いで重傷を負い、歩行が困難になったと伝えられる。家康の関東移封後、武蔵国で五百石の所領を与えられた。
忠守は織田信長の意向で家督を継いだ異母弟の忠重には従わず、家康の許に留まった。その子の清六郎は元服したのち、忠元と名乗り、二代将軍秀忠の側近を務めた。子孫からは三人の老中を出し、その内の一人が天保の改革を行った水野忠邦である。
この年の一月中旬に、家康は尾張の星崎城で織田信雄と会見している。そのあと、信雄の伝手で大和国の大名・筒井順慶から「養子を預かってほしい」という話が来た。
「婚礼でございますか」
お愛の方さまから聞いて、須和は思わず聞き返してしまった。
「ええ。督姫さまではなく、市場姫さまなの。どうやら、多劫姫さまにもお話があるらしくて」
大名家の婚礼は、当然のことながら政略が絡む。
市場姫が再嫁するのは、大和国の大名・筒井順慶の従兄弟、筒井紀伊守政行のちに名を順斎と改める人物で、実子に恵まれなかった筒井順慶は従兄弟や甥を養子にしており、そのうちの一人である。
「筒井家の家督を継ぐのは、甥の定次さまと決まったので立場がないそうなのですよ。ですから、織田信雄さまの口利きで我が徳川に仕えたいと。けれど、そうは言っても、明智が兵を挙げたとき、与力だった明智方に味方すると期待されていたのに、日和見をしたあの筒井さまでございますよ。何を考えておられるのやら。筒井さまご自身は、羽柴秀吉の臣下になったというではありませんか」
「殿のことです。そんなことは百も承知されていることでしょう。でも、いつ裏切るか分からない夫を持つことになって、市場姫さまも気が休まらない日々を送られることでしょうね」
お愛の方さまが嘆息した。
多劫姫の再嫁先は、信濃国高遠城主の保科正直ということだった。保科正直は滝川一益が撤退したあと、北条氏に帰属し、正室を人質に出していたが、八月の黒駒合戦で徳川方が優位になったと知ると、信濃の国衆と共に徳川方に転じた。それに激怒した北条氏直は、保科正直の正室を処刑した。徳川は信濃の抑えとして、妻を殺された正直を姻戚に迎えようとしていた。
「いずれ戦う敵がいる……ということですか? どこと?」
東の北条とは和睦がなり、督姫が嫁ぐ。越後の上杉とは、まだことを構えていない。西の織田は内紛している。では、どこが徳川に攻めて来るのだろう。
「さあ?」
と、倉見局が首を傾げる。御方さまも同じだった。
徳川が北条と和睦した天正十年(一五八二)十二月、この月のはじめに羽柴秀吉は五万に近い大軍を動員して織田信孝の居城・岐阜城を包囲して攻め、その異母兄の織田信雄は秀吉方となって伊勢長嶋の滝川一益の動きを封じた。越前北庄に居城がある柴田勝家は雪のために動けず、翌天正十一年(一五八三)二月になって出陣し、四月に賤ケ岳付近で対峙し、敗れた。織田氏の内紛は柴田勝家の敗死、滝川一益の降伏、織田信孝の自害という結果に終わった。
家康は五月二十一日に、家臣の石川数正を近江坂本にいた羽柴秀吉に遣わして戦勝を祝し、以前、織田信長からもらった茶器・初花の肩衝を贈った。
両者は表面上、友好的な関係だった。しかし、秀吉の本心は違う。
賤ケ岳の戦のあと、毛利家の一族、小早川隆景への書状の中で語る。
「東国は(北条)氏政、北国は上杉(景勝)まで筑前(秀吉)の覚悟に任せ候……」
秀吉は関東、越後に至るまで、徳川領国も含めて、やがては自分の支配下に置くつもりだった。
そこに徳川家の存在は、ない。




