家康の帰還
よろしくお願いいたします。
天正十年(一五八二)六月二日。
和泉国の堺で泊まった徳川家康と穴山梅雪の一行は、京の織田信長の許へ赴くため、淀川沿いの京街道を馬に乗って移動していた。信長の側近に報せるため、本多平八郎を使者として先発させた。
本多平八郎が枚方まで来たとき、京の方角から茶屋四郎次郎清延が馬を駆けさせてき、織田信長の死という変事を報せた。
「世もはやこれまで」
四郎次郎は顔を引きつらせた。
明智光秀の謀反、織田父子の突然の死、どちらも信じられないことだ。
しかし本多平八郎にとって、信長より自分の主の家康の安全が重要事項だった。
二人は道を堺の方へと変え、平八郎は一行のうちで主君・家康と三河衆の重臣たち、井伊、榊原、酒井、石川、大久保らを誘って街道を離れ、馬から降りて今聞いた変事を告げた。
家康は、「死ぬ」と叫んだ。
「知恩院に入り、腹切って織田殿と共に死なん」
と、惑乱した。
供の三河衆はみな同じ浄土宗、もしくは一向宗(浄土真宗)の信徒である。
欣求浄土、厭離穢土。
徳川の旗印にもあるその言葉。極楽浄土を願い求め、汚れたこの世から逃れること。
彼らにとって、死は極楽浄土への入り口だった。
その場にいた者たちは、たちまち家康と同調した。
家康は案内人の長谷川秀一を呼び、告げた。
「私は長年、織田殿と深く親交を結んできた。もう少し人数を引き連れていたら、光秀を追いかけ、織田殿の仇を討つが、これほどの少人数ではそれもかなわないだろう。中途半端なことをして恥をかくよりは、急いで京に上って知恩院に入り、切腹して織田殿と死を共にしようと思う」
「殿までも、そのようにおっしゃる」
と、長谷川は深くうなずいた。
「まして私にとっては長年の主君です。一番に切腹して今回のように死出の道案内いたしましょう」
と同意した。
死を決した徳川の一行が戻って来て、本多平八郎と茶屋四郎次郎が馬の轡を並べて先に行く。
他の者たちが「どうしてこのように急がれるのか」と思っていると、しばらくして本多平八郎が戻って来、馬を寄せて石川数正に言った。
「取るに足らぬ我が身を顧みず、私の考えを申し上げます。殿が長年の信義を守られ、織田殿と死を共にしようとすることは、義のあることではないと、どうして申すことができましょう。しかしながら、織田殿のため、長年の志に報いようとするならば、どうにかして本国に帰られ、軍勢を準備して、光秀を追討し、かの首を切って供えれば、織田殿の霊魂もさぞお喜びになられるでしょう」
酒井、石川といった徳川の重臣たちがこれを聞き、
「年長の我らは、このところに気づかなかった。かえすがえすも恥ずかしいことだ」
と言って、家康に言上した。
家康は、「もとより望むところだ。しかし、初めて来た地である。知らぬ山野にさまよい、山賊や一揆のため、あちこちで討たれては悔しいので、都で切腹すると決めたのだ」と答えた。
これに対して長谷川が怒る眼に涙を浮かべて言った。
「私は主君の最後の供をしませんでした。殿がご帰国され、光秀を誅殺するとき、先陣にあって討ち死にするは、いたって本望でございます」
これによって、一行は京に戻るのではなく、岡崎に帰ることを決めた。
そののち、家康が穴山梅雪に信長の死を告げた。
彼にとっても、天地が覆るような出来事だった。
梅雪が動揺しつつ、「これからどうなされます」と訊くと、「本国に戻ります」と家康が答える。
梅雪は家康と三河衆を疑った。何故すぐにこの重大事を報せなかったか。彼らは自分を殺すのではないか、と。
京とその周辺に明智の軍がおり、信長の接待を受けた自分たちを捜しているだろう。褒賞目当てで、地元の民が襲ってくることも考えられる。
このとき長谷川秀一が、「京の近辺、河内・大和・伊賀・伊勢あたりには、私の申次を受けた者が多うございます。それらを頼めば」と言うので、道筋の案内を頼んだ。
家康は梅雪にも共に行くよう勧めたが、「別に存念もござれば」と断って、その場で別れた。
このあと、梅雪は京の南の宇治を過ぎた辺りで一揆勢と明智の兵に見つかり、家康と間違われて討たれてしまった。
一方、家康の一行は東に走った。河内国から伊賀国を経て、伊勢国に行くために。
六月二日のうちに長谷川と旧知だった近江国甲賀の土豪・多羅尾光俊の館までたどりつき、翌日その案内で、御斎峠から伊賀国に入る。
そこに至るまで、茶屋四郎次郎が銀を与えて道案内に地元の者を雇い、本多平八郎たちが家康を警護し、長谷川秀一が地元の豪族を懐柔した。
伊賀に入ると、服部半蔵が配下の雑兵と共に家康の警護に加わった。
前年、伊賀は一揆を起こし、織田軍と戦って敗れ、伊賀の国衆は虐殺された。家康はそのとき、逃れる者たちを見て見ぬふりをしたので、恩義を感じていた者たちが警護をかって出たのだった。
しかし伊賀国を抜けた加太峠で地元の一揆勢に襲われ、血路を開いて先に進んだ。
四日に伊勢白子へ至り、そこで角屋の船に乗った。そして五日の朝、三河大浜(碧南市)につき、陸路で岡崎城に入った。
酒井重忠は船で家康一行を出迎え、そのときの船に立てた船印を自らの馬印とした。
岡崎で一休みした一行が浜松に帰ってきた。
それまで沈鬱としていた城内が嘘のように賑わっている。
はるか後年、大久保彦左衛門忠教が記した『三河物語』の中で、「我らは殿の犬ころにて」と書いているように、このとき猟犬たちが主の帰還を喜んで騒いでいるみたいに須和には見えた。
姉川の戦のとき、「天兵が舞い降りたかのような」と朝倉勢を驚かせた、きらびやかな軍装の尾張衆が、三河の者たちを「三河の犬」とか「猿」と見下し、それに対して、主の家康が「腹を立てるな」と戒めたほど、三河衆は古ぼけて田舎臭い軍装をしていた。しかし、「三河衆一人に尾張衆三人」という言葉があるように、守戦では少数で城をもちこたえ、武田信玄が率いた甲州兵が最強ならば、その次くらいに三河兵は強かった。その兵たちの質朴な忠誠心が向けられているのが、主君の家康なのだ。
(殿がご無事で本当に良かった)
留守居の酒井重忠に、殿の生存を信じろと迫ったものの、現実に帰還を目の当たりにすると、やはり嬉しさがこみ上げてくる。須和ももう、三河衆と同じ気持ちになっていた。
表で家臣たちの挨拶を受け、そのあと奥へやってきた殿を奥の広敷でお愛の方と西郡の方が出迎えた。少し遅れて、姫君たちと若君たちも侍女や乳母に連れられてやってきた。侍女団の最前列には、下山の方とお竹の方がおり、須和たちはその後ろで控えていた。
殿が二人の側室とお子さまたち、お孫さまたちの名を呼び、「そなたたちの顔を再び見ることができ、嬉しく思う」と言う。
「無事にお帰りになられ、一同の喜び極まっております」
と、御方さまが涙声で挨拶をした。
その後、部屋に移って、西郡の方さまとお愛の方さまの給仕で食事を摂った。
「そなたの養父、服部正尚が、日差しが熱かろうと蓑笠をどこからか調達してきてな。礼を言ったら感激し、『以後は蓑と名乗りまする』と申しておったぞ」
と、少人数で二百人余りの雑兵を討って逃れてきた苦難を語らず、殿はお愛の方さまを喜ばせていた。西郡の方さまはそれをにこにこしながら聞いている。
和やかな雰囲気だった。
(お愛の方さまと西郡の方さまは、閨にはべる時期が違っているせいか、意外と仲がいい。これは大名家の奥向きとして、普通なのか、そうでないのか)
須和には分からなかった。武田家の正室・お裏様の屋敷に他の側室はいなかった。信玄公は正室と側室それぞれの屋敷に通う形をとっていたから、両者が顔を合わせるのを見たことがなかったのだ。
側室、子・孫との時間を過ごした殿は、寝所に入ると下山の方と閨を共にした。
(やはりそうなるか)
殿を観察して分かったことがある。同時に二人の女を相手にしない。一時期であろうが、そのときどきに一人だけ。
(律義を表向きだけでなく、女に対してもそうとは。はてさて)
二十年も、あの苛烈な織田信長の同盟者であった徳川家康を世間では〝律義者〟と呼ぶ。けれども須和は知っている。
領国に戻ってすぐ、岡部正綱に命じて甲斐国の国衆に対して調略するよう命じたのを。そして、武田狩りから逃がして匿っていた武田の旧臣・依田信蕃に徳川に味方する甲州侍を募るよう依頼していたのを。さらに、武田氏滅亡の直後から、臣下の成瀬正一を甲斐に潜伏させ、武田旧臣の取り立てをさせていたのを。
(食えぬ御人じゃ)
それが、須和の徳川家康に対する印象だった。
やがて、家康は「織田殿の仇討ち」を掲げて家臣たちに出陣を命じ、岡崎から一日行軍して六月十四日には尾張の鳴海まで至った。そこで羽柴秀吉が寄越した飛脚で、明智光秀が討たれたことを知った。
備中で毛利軍と対峙していた秀吉は、のちに「中国大返し」と呼ばれる強行軍によって京へ戻り、十三日の山崎の戦において明智軍を破った。その後、光秀は落ち武者狩りに遭って、命を落としたという。
それでも家康は尾張の津島まで軍を進めた。十九日になると、そこへ秀吉からの正式な使者がやってき、「光秀はすでに誅しおえましたゆえ、ご帰陣あって然るべし」と、つまり「あとは織田家の問題であるから、国元へ帰りたまえ」と、言ってきたのだった。
家康は軍を返し、混乱する甲斐・信濃の平定を織田家に申し出た。
(筋は通したということかな?)
徳川家からの申し出を織田家の誰が受け取ったかは知らないが、長谷川秀一どのがすでに清州へ帰還されているので、良きように計らってくださるだろう。
と、須和は見ていた。
弔い合戦のために軍勢を率いて行く前、家康は甲斐国を支配している織田家の家臣・河尻秀隆に使番の本多信俊を遣わした。
本能寺の変で織田信長が死んだことを知るや、北条氏は上野国にいた滝川一益に攻撃をしかけ、一益は戦ったものの敗れて京へ逃げ帰った。次に北条が狙うのは、甲斐・信濃である。そこで北条氏の甲斐侵攻に対する協力を申し入れた。ところが河尻秀隆は家康を疑い、本多信俊を殺してしまった。
武田氏の旧領、甲斐・信濃が伏さないのは、家康の策謀があるからだと疑っていたからだった。
実際そうなのだが、使者を殺されたことで、徳川が甲斐に介入する口実ができた。
河尻秀隆は信長の父・信秀のときに初陣し、信長に仕えた近習で、信長の要求することは軍事・民政ともに確実にかなえた優秀な家臣だった。しかしそれも主の信長がいてこそのことだったようだ。
武田の旧臣たちは、岩村城の惨劇を忘れていなかった。
かつて東美濃の岩村城で遠山景任に嫁いだ信長の叔母のお艶の方が景任の死後、信長の息子の御坊丸の後見として城主となっていたとき、信玄は京に上る際の作戦の一環として、自身は遠江へ行き、一方で山形昌景と秋山虎繁に岩村城を攻めさせた。
秋山虎繁は岩村城を取り囲み、「お艶の方と婚姻すれば、城に籠る者を助命する」と条件を突きつけた。援軍を期待できない状況下、お艶の方はそれを飲み、御坊丸は人質として甲斐に送られた。
しかし信玄の没後、情勢は逆転する。長篠の戦で武田勝頼の軍が敗北すると、織田信忠の軍が岩村城を包囲した。城兵を助けると言う条件で秋山虎繁とお艶の方は降伏したが、織田方は約束を守らず、城兵を殺し、秋山とお艶の方らを逆磔の刑に処した。
――織田は信用ならない。降伏しても殺される。
それが甲斐・信濃の国衆の印象だった。
各地で一揆が起き、河尻は一揆衆に殺された。
家康は一揆の鎮圧に、配下の大須賀康高・岡部正綱、そして穴山衆を向かわせた。
須和は殿が浜松城にいるとき、お愛の方さまに申し上げて、侍女たちにも武芸の練習をさせてもらえるよう頼んだ。何かあったとき、女でも戦える者がいたら良いと思ったのだ。
それは許可され、須和は希望者を募った。護身の体術と、非力な女でも扱える薙刀を練習すること。練習時間は明け方の男たちの鍛錬時間と同じ。庭の隅で行うので、雨の日はなし。という条件だ。
お愛の方さまに仕える侍女たちからは、十人ほど良いと言ってくれた。みな伊賀者だ。
「伊賀では郷ごとに武芸自慢がありましたから、鍛錬には女でも慣れております」
と言ったのは、瞽女の語りの聞き取りで親しくなった、おふうだ。機転が利き、須和は萩野と同じくらい頼りにしている。
次いで西郡の方さまへ、このことを申し上げたら、面白がってくださった。
「誰か、やりませんか」
と、須和のために周囲にいる侍女たちへ声をかけてくださった。しかし、侍女たちは互いに顔を見合わせるばかりだ。
と、一人が声を上げた。
「わたくしたちには、そのような武張ったこと、とてもできそうにありませんわ」
お久という美しく色っぽい女だった。
「ねえ」
お久は周囲に同意を求め、他の侍女たちもうなずき、くすくす笑っている。
「あらあら。仕方がないわね。その気になったら、申し出なさいな」
西郡の方さまが嫌な雰囲気になりそうなところ、取りなしてくださった。
「そのときには、よろしゅうお願いいたします」
一礼してその場をあとにした須和だが、あの女とは気が合わないなと感じた。
奉公で女が集まれば、諍いの一つや二つあるものだ。それをさばいて仕事をするのはお裏様の屋敷で経験済みだった。合わないなら、合わないなりに付き合えばいいのだ。向こうがこちらを排除しようとしないかぎりは。
武芸の鍛錬のため、須和は人を集め、師匠は薙刀の扱いに慣れていると言う萩野がしてくれることになった。
そんなことをしているうちに七月七日の節供が過ぎ、来客があった。三歳になる福松丸君に。
殿との会見を終え、先触れを出して御方さまの許へやってきた老人は、乳母に連れられてきた福松丸君に向かって笑む。
「東条のじいでございますよ。覚えておいでかな」
と、両手を広げている。
その隣には、前髪立ての十五歳くらいの少年がいた。
「じーい」
にこにこして福松丸君が歩み寄ってゆく。
「若君、玩具も持参いたしました」
少年も持っていた布包みから、木で作った鳥や手押し車を取り出した。
「まあ、周防守どの、礼を言います」
と、御方さまも答えて、玩具で遊び始めた福松丸君を微笑みながら眺めている。
『周防守』と呼ばれた老人は、元の名を松井忠次といい、殿から最近、松平姓を下賜されて、名を松平周防守康親と改めた。福松丸君が養子にいく東条松平家の名代を長く勤めて来た武将である。
家康の父・広忠が横死すると、松平一門も動揺し、それぞれの判断で織田氏に味方する家、今川氏に属する家と別れた。東条松平家は今川氏に属し、東条松平二代目の忠茂は今川義元の命令でたびたび出陣した。しかし、奥平氏の支族・日近久兵衛尉を討つため、三河額田郡の日近城攻めをした際、矢に当たって亡くなり、残されたのは一歳になる嫡子の亀千代のみで、義元は家臣で伯父の松井忠次が名代を務めるよう命じた。
永禄四年(一五六一)に桶狭間の戦で今川義元が死ぬと、東条松平氏も元康(家康)に帰属した。その後、松井忠次は軍功を挙げ、主君で甥の亀千代が元服して松平甚太郎家忠と名乗ってからも共に戦い、東条松平氏は西三河衆として徳川家において重要な地位を占めるようになった。しかし、甚太郎家忠は身体が弱く、天正九年(一五八一)に子がないまま、病死する。すると家康は、四男の福松丸(のちの松平忠吉)を跡継ぎとして東条松平を存続させ、松井忠次を名代とした。
このとき忠次こと松平康親は北条氏と対峙する駿河国沼津の三枚橋城にいた。
周防守さまはずいぶんと御歳を召してから、ご嫡男を設けられたのだな、と祖父と孫ほど年の離れた二人が去って行ったあと、須和が思っていると、おふうがささやいた。
「周防守さまのご継室さまは、殿のお手つきで、あのご嫡男の左近丞さまはご落胤ではないかという噂がありますよ」
なんですと?
「男って……」
須和は呆れて何度目かのため息をついた。
翌年三月の元服の際、十六歳の松平左近丞は家康から「康」の偏諱をもらい、康次のちに康重と改めた。天正十一年(一五八三)の六月に父の松平康親が病死したのちも八年間、徳川領国の東側境界で北条氏と戦い、小田原征伐のときまで、そこを守ったのだった。




