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天正十年六月の浜松城

 庶民や須和の生家が属する下級武士階級では一張羅を年中着ているか、手持ちの着物の重ね着などで寒さをやり過ごすものだが、名の知られた武士や大名の家では年中行事として、節供の頃に衣替えをする。四月一日に表地と裏地の間に真綿の入った小袖こそでから裏地のあるあわせへ。五月五日に男はあわせから裏地のない帷子かたびらへ。六月一日に今度は女があわせから帷子かたびらに。九月九日、冬用にあわせから真綿が入った小袖へと、替える。

 六月末の夏越なごしはらえは、その日が終わると秋の七月となることから、ちょうど一年の真ん中にあたり、の輪をくぐって厄払いをする。そのとき、贈り物をする。それは絹織物が主となる。



 殿が進物を贈るのは、織田さまをはじめとした付き合いのある家の方々で、それは家同士の正式なものだ。内々では、正妻が女同士の付き合いとして家々の妻女に物を添えて消息(便り)をする。徳川家の場合、正室がいないので、お愛の方様がその役をしていた。衣類を贈るのは殿のご生母、叔母、異母妹、異父妹。

 須和は過去の文面を参考に挨拶状を作った。書き損じや変更で書き直した反故紙は捨てずにとっておき、襖の下張りなどに使う。須和はなるべく反故紙を作らないよう慎重に筆を進め、出来たものを御方さまに見せ了解を得て、係の役人にそれを渡した。

「あれほどの饗応を受けて、織田右府さまに例年通りの八朔はっさくの進物とはいかんだろう。殿の一行を追いかけ、角屋の船に乗せた使いは京に着いただろうか」

「ああ。じきに着いて茶屋家の者が殿の一行を見つけ、伝えてくれるだろうよ」

「よしなに」と頭を下げて御用部屋を出ようとした須和の耳に、役人たちのそんな会話が聞こえた。

(もう八朔はっさくの贈り物の相談か。殿は普段、とても質素倹約されているけれど、こういうときは吝嗇けちではないから、織田さまへの進物はたいそう豪勢なものになるじゃろうな)

 八朔はっさくというのは、八月一日のことで、この日は身分の下の者からも進物を贈ることができ、また必ずお返しがあるので、庇護・主従の関係の確認する行事ともなって、各地に贈り物を持った使者が行きかう。

 そして話の中に出て来た「角屋」というのは、伊勢国大湊を本拠にする廻船商人の角屋七郎次郎かどやひちろうじろうのことだ。



 古来、東海の海では遠州灘が航海上の難所となっていたが、明応七年(一四九八)の大地震で浜名湖の地形が大きく変わり、その開口部に作られた今切は渡船場として利用され、その西岸に築かれた新居は駿河湾と紀伊半島を結ぶ航路の中継地点となった。航路が以前より安全となったこのような状況から、北条氏は関東の領国で不作となった場合、伊勢方面から海路で米殻を買い入れ、兵糧を補充するということを行っていた。航路の途中にある駿河の今川氏とは同盟関係にあり、駿河の今川氏領国が飢饉の場合は、北条氏が買い入れた兵糧の一部を購入できるという合意の元、駿河・遠江・三河の沿岸を通航することができたのだった。

 角屋七郎次郎家は今川氏・北条氏と関係を取り結んで廻船商人として御用を務めてきた。今川氏が没落したあと、その領国は武田氏と徳川氏に分割されたが、角屋は徳川氏を取り、伊勢湾と関東を往来する船の運航を変わらず行っていた。



(六月の祓の準備は目途がついた。次は七夕で、その次に八朔か)

 七月七日の節供は、棚を作って青銅の瓶に花を飾って祀るのだ。

(八朔はどれほどの進物が届くじゃろか。八朔のときはお公家さまとかにも進物が行くから、忙しくなるなあ)

 その前に針仕事にいそしまなくてはならない。夏物の用意で、つくろうものは繕い、新しく仕立てる物は布を断って縫う。大名といっても出来星の徳川家は、まだ貧しくて、暮らしぶりは豊かな大名の家老くらいだ。だから縫い子に任せるまでもなく、縫い物も女たちの仕事の一つで、目の悪い御方おかたさままで布を顔に近づけて殿の帷子かたびらを縫っている。

「織田右府さまの饗応って、どんなかねー。豪勢なお料理が出るんだらー?」

 末の方で、最近入ったばかりの若い侍女が三河言葉で朋輩に言った。

 襖をあけて二間続きにし、御方おかたさまの側には須和と倉見局と側仕えの侍女、次のにはおふうをはじめとする若い侍女たちが固まって、針糸を持って手を動かしている。その合間に、おしゃべりが始まった。

「いくつもお膳が出て、百種も珍味が出るんだと」

「うわ。食べれんでも見るだけで眼福」

「やめて、その話。お腹が空いてまうわ」

「そうよねー」

 と若い侍女たちは笑いさざめいている。



 この室町期に、日本料理の基礎が出来上がった。

 それ以前、奈良朝のころ食べられていたのは、魚介類ではあわび、堅魚かつお烏賊いか、魚を細長く切って塩干しした楚割すわやり年魚あゆさけますうなぎ。海藻類では、わかめ、のり。鳥類はよく食べられ、農耕に使う牛・馬の殺生は禁じられていたが、猪、鹿、うさぎが食べられていた。野菜は、山野草や大根、瓜、なす、芋など。果物では蜜柑、桃、柿、梨、びわ、栗、くるみ、しい。菓子といえば、果物。そして小麦粉をこねて揚げた唐菓子。調理は、焼く・煮る・ゆでる。

 平安朝になると、禁中や大臣家で任官のときや正月に「大饗だいきょう」という宴が行われ、そこで宴会料理が供された。

 室町期になると饗応には、本膳、追膳おいぜん[二の膳]、三膳、大汁、小汁、冷汁、山海苑池之菜さんかいえんちのな、百味を調えた形式の本膳料理が出されるようになる。

 平安朝末から鎌倉・室町期は世界的な寒冷期、「小氷期しょうひょうき」だったとされ、長承ちょうしょうの飢饉(一一三四)、久寿きゅうじゅの飢饉(一一五五)、養和ようわの飢饉(一一八一)、寛喜かんぎの大飢饉(一二三一)、長禄ちょうろく応永おうえいの大飢饉(一四二〇)、寛正かんしょうの飢饉(一四五九)があったのが知られている。

 これらは全国的な飢饉だが、長雨と旱魃の影響でいつの時期もどこかで飢饉が起きていた。家康が生まれる二年前の天文九年(一五四〇)にも諸国で大飢饉が起きており、天文十年には伊勢、十一年十三年には甲斐で、十五年に会津、十六年には駿河に飢饉があり、丹波では大地震、白山が噴火している。天文二十二年は凶作で、弘治二年三年と飢饉と旱魃が続き、永禄七年に阿蘇山が噴火し、永禄八年から十年、全国で大飢饉が起こった。さらに疱瘡や麻疹などの病が流行り、弱った人たちを死に至らしめた。

 このように餓死する人びとがいる一方で、禁裏や高位公家、将軍の周囲では、山海の珍味がふんだんに使われた饗宴が行われていたのだった。



 饗応には進物も用意され、天正十年、安土城へ徳川家康を招いた際、主の信長より饗応の役を仰せつかった明智光秀は大変気を使い、京や堺から唐傘や木履ぼくりを取り寄せた。

 献立は山海の珍味を使い、五月十五日到着してすぐ、同日夕食、十六日朝食、夕食を供した。

 その記録から、十六日夕食では、

御膳:飯御湯漬 

塩引しおびき かりの豆 あえまぜ 焼物 香物 ふくめ鯛 かまぼこ

二膳:からすみ たこ さざえ こくし あえくしげ あつめ汁

三膳:山椒はも えび 舟盛 のしもみ 白鳥汁 鯉汁

よ膳:かずのこ 百菊焼 うりもみ 青鷺汁あおさぎじる

五膳:しき羽盛はもり ばい貝 くじら汁

御菓子:羊羹 うち栗 くるみ 揚げ物 花に昆布 おこし米 のし

御点心:しょうが さんしょう かたのり ことうふ しいたけ 蒸麦むしむぎ

御そん肴 たちばな焼き二本:かく盛 つぼ盛 鯛のあつもの

折十こう さかずきの台 そのほか

 となっている。

 この頃まだ醤油はなく、ひしお・酢・塩・酒・味噌が調味料として使われた。甘味は甘葛あまずら。砂糖は輸入品で貴重だった。

 このときの饗応役の明智光秀は三日間、その役を務め、西国の備中にいる羽柴秀吉の支援のため、信長から行くよう命ぜられて安土を離れた。

 五月十五日に安土城に到着した家康と穴山梅雪あなやまばいせつの一行は織田信長から饗応を受け、十九日に安土の摠見寺で梅若太夫の能を見物し、二十一日には信長から京の遊覧を勧められ、信長から遣わされた近習の長谷川秀一の案内で京中に入った。

 二十九日に引き続き長谷川秀一の案内で堺へ行き、堺の代官で茶人の松井友閑の饗応を受け、その同じ日、信長は上洛して本能寺に入った。

 六月一日、家康は堺において、豪商で茶人の今井宗久、天王寺屋(津田)宗及の二人と、松井友閑それぞれから茶の湯のもてなしを受けた。

 翌二日の明け方、本能寺にいた織田信長を明智光秀の軍勢が襲い、信長は防戦するが自刃し、嫡子・信忠も急を聞いて駆けつけ、二条御所に籠って戦ったが、同じく自害して果てた。

 その六月二日、家康は堺を発って京にいる信長に礼を述べるために上洛しようとしていた。その途中で、信長の死を知る。



 須和がその変事を知ったのは、松木五兵衛からの報せによる。

 六月三日、御方おかたさまの身支度を手伝い、朝餉を摂るために一旦部屋に戻った際のことだ。伊助が縁側に坐って待っていた。

「松木の伝馬による急ぎの報せでございます」 

 と、二つ折りで手のひらに乗るくらいの紙片を須和に捧げた。

〝明智光秀、謀反。織田右府、死す〟

 開くと、そう書かれてある。

「このこと、五兵衛どのは」

「すでに知り、須和さまへ注進せよと」

「相分かりました」

 須和は今来た廊下を戻り、お愛の方の部屋へ入って、倉見局以外の者の人払いをしてもらい、義弟から来た紙を御方おかたさまに見せた。

 紙片を顔の前まで近づけて読んだ御方おかたさまが顔色を変える。

「留守居の酒井どのに、これを見せなさい」

 御方おかたさまが紙を持った手を下ろし、脇からそれを覗き込んだ倉見局も真っ青になった。

「殿は、ご無事なのでしょうか」

「まだ分かりません。倉見、このことは他言無用です。須和は急ぎ酒井さまの許へ報せに行きなさい」

「はい。御前を失礼したします」

 須和は立ち上がって部屋を出、留守居役の酒井重忠がいる表の間へ急いだ。その後から、お愛の方様が殿の無事を持仏に祈って唱える念仏のか細い声が聞こえてきた。









引用文献 『信長のおもてなし』江後廸子著、吉川弘文館

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