表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/40

須和の生い立ち

 成瀬というのは、三河出身の武士・成瀬吉右衛門正一なるせきちえもんまさかずのことである。

 武田氏は鎌倉期から甲斐国の守護であったが、国内には有力な国人こくじん[在地領主]が多く、守護である武田氏に素直に従うことはなかった。

 甲斐国は、甲府盆地の一帯を「国中くになか」。笹子峠から東の都留郡一帯、甲斐の東にあたる地域を「郡内ぐんない」。府中から南に進んだ富士川流域の谷あいを「河内かわうち」と呼び、郡内には小山田氏、河内には穴山氏という独立した領主がいた。先先代の武田家当主・信虎のぶとらは、この有力国人を破り、あるいは娘を妻に迎えて取り込み、甲斐を統一した。しかし、しだいに独断専行が多くなり、家臣たちの支持を失って、長子の晴信によって駿河に追放された。

 家督を継いだ晴信は、信濃を平定し、駿河・西上野、そして遠江・三河・美濃・飛騨の一部を領地とした。その過程で、他国人や武士以外でも能力のある者を多く家臣として取り立てた。

 成瀬正一は、その一人である。

 三河武士・成瀬正頼の次男で、永禄三年(一五六〇)、二十三歳の頃、出奔して甲斐にやってき、武田氏に仕え、翌年の九月十日に起こった川中島の戦いで、討ち取られてしまった諸角虎定の首級を石黒五郎兵衛と共に取り返し、主君・信玄から黒駒の地を与えられた。

 武辺者ぶへんものというのは、それだけで好かれるものだが、成瀬正一は陽気で愛嬌があった。武田の将の首を取り返した勇者ということで子どもにも好かれ、甲府のあちこちに出没する正一はすぐに子どもらに囲まれ、須和の弟の久左衛門もその中に混じっていた。

 弟を迎えにきた七歳の須和を抱き上げ、「将来、べっぴんさんになるじゃろなあ」と日焼けした顔で笑ったのが印象に残っている。

 それだけの縁だ。

 数年後、成瀬正一は武田家を去り、北条氏に仕えたのち、「以後、他家に仕えることはまかりならぬ」という掟ができたということで親族に呼ばれて三河へ戻り、松平姓を名乗っていた頃の家康に仕えた――ということを、大人たちの噂話で聞いて、須和は知っている。

 あれから、二十一年が経っていた。相手は四十過ぎ、忘れているだろう。それでも、このか細い縁を頼ろうと思っている。

「かかさま、ひだるい」

 と、山道にさしかかったとき、五兵衛がしゃがみ込んだ。

 山の中に入ると、陰になったところにまだ雪が融け残っていた。道の土も湿っている。

「ひだる神に捕まった? お腹すいたねえ。腹ごしらえ、しようか」

 須和は道端で乾いた枯草があるところを探して二人で座り込み、布で包んで持って来ていた握り飯の包みを開け、一個の握り飯のひと掴みを自分がほおばったあと、残りの大部分を息子に持たせ、自分は竹筒から水を飲んで腹を満たした。

「どこへゆくの?」

 雑穀の握り飯をほおばりながら、子どもが訊く。

「富士の御山を拝みにいこう。みんなが幸せに、腹いっぱい食べれるように」

 死ぬかもしれない、とは幼い息子に言えなかった。敵国の女が訴え出て、もし無礼討ちになるようだったら、そのときは母子一緒に斬られるつもりだ。乱捕りで離ればなれになり、国外どころか、海の向こうへ売られていくより、言いたいことを言って、死んでいくほうがましだ、と須和は思った。

 五兵衛の腹がほぼ満足したところで、須和は再び息子の手を引いて、歩き出した。

 甲府から御坂峠に通じるこの道は、鎌倉に幕府があった昔からの街道で、このあたりの黒駒の地は大昔に牧があり、名馬の産地として有名だった。成瀬正一がかつて賜った土地であるのも、不思議な縁だった。富士参りの道者から関銭をとるため、関所が設けられていたはずだが、戦ということで参拝のために富士へ向かおうという人は誰もいなかった。

 上り坂が続くので、息子の退屈を紛らわそうと、須和は昔語りを始めた。

「かかさまの高祖父さまは……」

「こーそふぅ?」

「おじいさまのおじいさまですよ。……その方は飯田但馬守虎春いいだたじまのかみとらはるとおっしゃって、御名の虎の字を先先代さまからいただいたほど武芸に秀でた方でした。先代さまが幼い頃、武芸の師範もしたの。曾祖父さまは美濃守、祖父さまは筑後守をいただいた武者でした」

 律令制を取り入れたときから、売官の制度は存在した。律令の体勢が崩れても官職を天皇が与えるという形は残り、戦乱の世で窮乏した歴代の帝は、実態の伴わない官職名を売って、その暮らしを維持する一部としていた。

 武田家では、信玄の父・信虎の頃から褒美として官職名を与えることをしていた。須和の父・直政が祖父の「筑後守」をそのまま名乗っていた、つまりお館さまから、あまり重視されていなかったことは、息子に語らなかった。

「本家のおじさまたちが住んでいる家と周辺の田畑は、虎春大おじじさまが賜ったと聞いています」

 須和たちがその末裔なのだけれど、度重なる飢饉や流行病、戦で、本家のおじ一家と自分たちくらいしか残っていない。

「そうかー、だから、古くて家がアマモリするんかー」

 九歳の五兵衛が、何かを納得している。

「雨漏り? そうね」

 藁葺き屋根を葺き替える時期は過ぎていた。費用が工面できなくて、半兵衛がやっていないだけだった。

 ……食べていくだけで、精一杯だもの。

 須和は、溜め息をひとついた。

 父が生きていた頃は、もう少し豊かな暮らしが出来ていたように思う。

 ご当主さまを教えた血筋だからと、幼い頃、馬術や弓術、小太刀の基礎を父からおそわった。父が戦で死んで、それはなくなり、母が病死して親戚の半兵衛に引き取られると、「御裏さまの許へ奉公に行かないか」と言われた。

「御裏さま」とは、そのときの当主・信玄の正室の三条の方のことである。

 めわらわ、という小間使いの少女を探しているとのことで、わずかだが、ろくも出るということだった。

 須和は、すぐにうなずいた。九歳のときだ。

 須和と弟、それに仕える加兵衛一家を抱え込んだ半兵衛にとって、口減らしになるし、禄も出るとあって、願ったりかなったりの話であった。

 半兵衛に連れられていった御方さまの屋敷は、別世界だった。躑躅つつじやかたでも、ご当主さまとは別のお屋敷で、御料人様衆という侍が三十騎、雑用をする僧体の御同朋集が三十人つけられ、お付の女房衆、下働きの御末おすえも大勢いて、建物、庭、調度類、言葉遣いまでも京風で、そこは甲斐ではなく、京の都だった。

 三条の方は、左大臣・三条公頼の次女で、今川家の仲介によって、天文五年(一五三六)七月、十六歳で嫁いできた。三男二女を産み、次男・信親が生まれつきの盲目、三男・信之が十一歳で夭折という不幸に見舞われたが、嫡子の義信、北条氏政の正室となった娘、有力国人の穴山信君の正室となった娘の母として、また信玄の正室として、重んじられていた。

 須和が三条の方の屋敷で勤め始めたとき、御方さまは四十を少し過ぎた年齢だったが、子どもの須和の目にも天女とはこうか、と思うほど、美しい人だった。めわらわとして勤め、御方さまと側仕えの女房のやりとりを見聞きしていると、御方さまは春の光のように暖かく穏やかなお人柄で、同い年のご当主・信玄公との夫婦仲もむつまじい様子だった。

 須和は同じ時期に勤め始めた四人の少女と一緒に、下臈女房の淡路局あわじのつぼねの指導のもと、京言葉・公家言葉や行儀作法、読み書きなどを教わりながら、言いつけられた雑用をこなしていった。

 それまで帷子をき、雑炊を食べる生活から、「かざみ」というめわらわが着るきれいな衣を身に着け、白いご飯に季節の菜、ときに見たこともない菓子が下げ渡される。おまけに、馬糞くさい飯田屋敷と違って、ここはいい匂いがしていた。

「ここは極楽浄土か」と、須和は思った。

 戦で荒れた京を逃れて、御方さまのご親戚の公家衆が甲府の躑躅が館を訪れ、京の風雅を伝える。茶の湯、連歌、漢詩・和歌、蹴鞠、鷹狩。

 めわらわとして奥勤めをするうち、須和は仮名の読み書きだけでなく、真名まな[漢字]も、とつとつとなら、読めるようになった。また、三条家は笛と装束の家として知られていたので、淡路局から衣装の有職故実についても教わった。そのとき、衣に炊き込める香の知識も。

 めわらわとして勤める少女たちは、十四、五になると次々と実家さとに戻って嫁に行ったが、親のいない須和は十四歳になったとき、形ばかりの裳儀もぎ――女子の成人式をしたのち、下働きにまわされた。

 御方さまの侍女をしている上臈から下臈の女房たちは、三条家からついてきた公家の者で、御方さまと歳の近い年配者ばかりだった。下働きは、地元の者で身元がはっきりしている者、または須和のように、めわらわの時期が終わった若い女が務めた。

 京の御所の下働きには、食事を作る御末おすえ、道具方の女儒にょじゅ、御召物を仕立て、また手紙を作成する御服所ごふくどころ、外へお使いに出る使番つかいばん、雑用を勤める仲居なかいという役があった。

『さすがに禁裏さまのようには、お役を務める者を集めることがなりませんから、須和、すべて出来るようにおなりなさい』

 と、淡路局がゆったりと命じた。

 だから須和は、貴人のために食事を作り、衣を仕立てて整え、書を練習して代筆ができるように励んだ。

 一生奉公でもいい、と須和が思っても、終わりはやってくる。

 元亀元年(一五七〇)七月、労咳のため、三条の方は亡くなった。五十歳だった。

 お仕えしていた女房たちは、ある者は出家し、ある者は縁者を頼って京へ帰って行った。

 下働きの者たちは地元の生まればかりだったので、実家さとへ戻された。

 そのとき十六歳になっていた須和が帰るのは、本家しかなかった。下賜された衣と最後の禄として少々の銭を持って、須和が飯田屋敷へ戻ると、本家のおじとおば、加兵衛と梅が少し老けていて、本家の跡継ぎの清左衛門と弟の久左衛門は元服し、清左衛門の妹のお栄は近くの名主の家へ嫁に行っていた。

 須和の稼ぎで清左衛門と久左衛門は馬と武具を買うことができ、武田家へ武家奉公がかなうこととなった。

 御方さまの屋敷で過ごした六年ほどの年月、須和は神隠しに遭って、戻って来たようなものだった。

 それまで互いに争っていた武田家・今川家・北条家が嫁取り・婿取りをすることで和睦したのに、永禄三年(一五六〇)に駿河するが遠江とおとうみを領する今川義元が桶狭間で尾張の織田信長に討ち取られたことをきっかけに、それが揺らぎ始め、信玄は今川と手切れすることにした。反対した嫡子の義信を、暗殺を企てたとして幽閉し、義信は自害して、武田家の世子は諏訪家を継ぐはずだった四郎勝頼に決まったこと、それが三年前。また、北条氏に嫁いでいた大姫(黄梅院)が離縁され、亡くなったのが昨年だったと知る。

 ……五人産んだ子のうち、三人までを喪うとは、高貴な方でも、お気の毒な。

 と、須和は改めて、御方さまの冥福を祈ったのだった。

 飯田屋敷に戻った須和は、千代女のもとで使用人同様、家事や農作業、機織りに従事した。そして生来、身体が丈夫で活発な須和は、半兵衛に頼んで弟と一緒に武芸の修練をさせてもらうよう、頼んだ。

 何があるか、わからないもの。女子おなごの身でも自分を守らねば。

 という思いからだった。当主・信玄はそのとき、さかんに駿河を攻略していた。

『いにしえの巴御前にでもなるつもりか。おまんはまず、その言葉を直し。それでは、男に嫌われて嫁にいけん』

 小言をいいながらも半兵衛は許してくれ、おばも修練の時間を作ってくれた。

 須和は京言葉をなるべく出さないよう、地の言葉を話す努力をし、家事と武芸の修練をして日々を送った。

 そんな須和に、半兵衛が縁談を持ってくる。その相手が、神尾孫左衛門忠重かんおまござえもんただしげだった。

「神尾の家は、孫左衛門どのの父御ててごも祖父さまも今川氏輝さまに仕えていたのですけれどね。お義父さまは氏輝さまの後継を決める戦で怪我をされ、武家奉公をやめてしまわれたの。五兵衛のととさまはそれを残念に思われて、武田家が駿河を領国にしたとき、信玄公の異母弟おとうと君で、ご一門の一条家を継いだ信龍さまにお仕えしたのです。ととさまは、甲斐の娘を妻にしたかったので、かかさまのところに話が来たの」

 それは須和が十七歳のときのことだ。相手の神尾孫左衛門忠重は、槍稼ぎの武者で、三十七歳。

 二十年上で他国人だが、親のいない自分には断れない、と思った。そして、十八のとき、一条信龍の屋敷の側に住む孫左衛門のもとへ、小夜を連れて嫁いだ。

 ひと月ほど一条さまのお屋敷そばのお長屋で過ごし、今歩いている道を通って先代・信玄公が新しく領地とした駿河国の駿府へ行き、夫の家族と同居する生活に入った。

「五兵衛は、一条の殿さまが城代をする駿府すんぷで生まれたのよ。向こうでの暮らしは、覚えてないかもしれんけど」

 夫には、他に女がいた。徒士頭かちがしらの妹で、出戻りだった。

「五兵衛が四歳の夏に、ととさまがいくさのとき負った傷がもとで亡くなったので、暮らしていけなくなり、甲府の本家のおじさまの所に戻って来たの。だから、ここを通るのは二度めになるね」

 夫が通っていた女にも男の子が生まれていて、実兄を通じ、自分が正妻だと言いたてて、須和たちを追い出したのだ。

「かかさま、うら、鬼の女をおぼえとるよ」

 はっ、となった須和は足を止め、息子に目をやった。

 子どもの目は怯えてはいなかったが、須和はたまらなくなってしゃがみ込み、息子を抱きしめた。

「かんにん……かんにんなあ」

 つい、幼い頃覚えた京言葉になってしまった。

「こわい想いさせたねえ」

「あんときは、なんとも思わんかった。今だったら、かかさまをうらが護る」

 力強い言葉に子の成長を感じ、須和は涙ぐみながら、笑った。

「頼もしいこと」

 もう一度、ぎゅっと息子を抱きしめてから立ち上がり、再び手をつないで歩き始めた。

 夫は駿河に侵入した徳川軍との戦いの際、負った傷で亡くなった。徳川家康は、夫の仇ともいえたが、恨みは無かった。この戦ばかりの世の中で、殺し殺されるえにしだったのだと、須和は思っていた。それよりも、今を生きること、そして、息子の将来のほうが大事だった。









評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ