築山殿
『「家」とは、家業と文書などの財産、つまり家産を伝えていくものです。公家の当主は、家の名・家業・家産・祖先祭祀・家の墓地を継承します。その家長と役割を分担して家の内部を取り仕切る正妻は、夫に何かあれば家を代表し、常の場合は家財・寝所の管理、側女や子どもたち家人の統括、食べ物や衣料の調製と管理をいたします。「男は外、女は内」を守るのです。それは公家や武家、身分の上下など関係ありません。人の妻となれば、よくよく心するのですよ、須和』
と、昔、淡路局さまに諭されたものだ。
同時に、女房(侍女)としての心得も教えられた。
『いかにやりたいことがあっても、人に聞こえて謗られるようなことはやってはいけない。心のままに行動することは悪いことである。つらいことや嬉しいことが顔色に出てはいけない。我が心、身の上、人のことなどをしゃべってはいけない。といって、あまりに上品ぶるのは憎たらしいから、そのほどはわきまえて振舞うようにしなさい』
『公私につけて、急ぐことは早くしなさい。人に頼まれたり、口を入れたものは最後まで、きちんとするように。といって、差し出るのもよくない』
『おおらかに美しい様子をしながら、事の善悪は見極めておきなさい。そして、良い人を育てなさい。人の悪口や誹りに決して加わってはいけません。召し使う人たちには、あまりに軽々しくしてはいけません。仲間内だけで分かることを言って、笑ってはいけません』
『薫物は、ことごとしく立ち消えるけばけばしい薫りのものはいけない。人柄が偲ばれるような懐かしい香りにしなさい。着物の色でも香りでも、映えばえとして、目立って今風で華やかな色や香りのものは、一度は良いが二度目は見劣りがするものである。齢よりは大人らしくしなさい。しかし、あまりにもそれが過ぎてもいけない』
など、仕事や人との関係に才能を発揮して鍛錬して万能であり、なおかつそれを見せびらかさず、内に秘めておけ、という教えを受けた。
(なかなか出来ませぬが)
男装して忠利どのと取っ組み合うなんてことは、論外だろう。こうして主人家族のことをあれこれ探るのも。
今川一門の家に生まれたご正室様も、きっとこのような女訓を受けたことだろうと想像する。
「御前さまのことを密かに探っておりましたが、三河衆の悪口がそれは酷くて難儀いたしました」
萩野はため息と共に言う。
曰く、性格は性悪で嫉妬深く、淫乱。唐人の医師を閨に引き入れ、武田氏と通じて夫の家康を亡きものにしたあとは、若い夫を求めた、とか。侍女のお万が家康の子を妊娠したのを知り、寒い夜、傍にはべる侍女たちに命じて裸に剥き、庭の木に吊り下げた。それを見つけた本多作左衛門が保護した、とか。
「すべて、ありえないことでしたが」
永禄五年(一五六二)に上ノ郷の鵜殿氏は家康に滅ぼされた。しかし他の鵜殿氏支流は家康に降伏し、三河国宝飯郡の柏原鵜殿氏は、家臣の加藤義広の娘を養女とし、鵜殿長忠の娘として差し出した。西郡の方と呼ばれたこの女性は、永禄八年(一五六五)に家康の次女・督姫を産んだ。
「殿は西郡の方様に娘を産ませたあと、お通い遊ばさなかったようですね」
と、萩野が言う。
督姫が生まれた年に三河一国を統一した家康は朝廷に改姓を願い出て、翌年、「徳川」と名乗り、三河守に叙任される。
永禄十年(一五六七)五月二十七日、家康の嫡男・竹千代と織田信長の娘・徳姫の婚儀が行われる。共に九歳。形式的な夫婦だが、徳姫は岡崎城で暮らすことになった。竹千代は七月に元服して、信長から「信」の字を与えられて信康と名乗ることになる。
妻子を岡崎城に置いた家康は、今川氏の領国だった遠江の攻略に乗り出す。岡崎では遠いので、遠江の曳馬城をその名では縁起が悪いということで浜松と替え、元亀元年(一五七〇)に浜松城に家康は移り、岡崎城は十二歳の信康に譲った。築山殿は嫡男の生母として共に岡崎城へ入った。
「岡崎城には、殿のご生母の御方さまとそのご夫君。幼いとはいえ、ご嫡男夫妻がいたのでしょう? ご正室さまは大変だったのではないかしら」
須和はつぶやいた。
生母のお大の方様は聡明で優しいお人柄と聞くから、嫁に意地悪をしたとは思えないけれど、側にはべる侍女や家臣はまた別の思惑があるだろう。幼妻の徳姫には乳母をはじめとした侍女団がついていて、岡崎の内部を尾張の織田信長の許へ通報していただろうし、人質交換で岡崎へやってきたご正室さまに、心を許せる侍女や家臣は少なかっただろうと、そんな状況が推察できる。
(遠江の攻略があったとはいっても、殿はご正室さまに内々のことをぶん投げて浜松へ行ったわけね。おまけにそこで、ご正室さまから『子をつくることは許さない』と言われたお万さまに手を出して、子が出来たら城から放逐した、と)
「男って……」
と、須和は顔をしかめた。
男児は天正二年(一五七四)二月八日に生まれた。場所は浜名湖で海運に携わる領主・中村源左衛門正吉の屋敷だった。双子で、片方は死んだとされたが、実は氷見氏に養子に出され、のちに当主となった氷見貞愛であるとも言われている。家康はお万を捨てたわけではなかった。駿河奉行であった本多作左衛門に命じ、中村家で預かってもらったのだった。
子が生まれたと作左衛門から聞き、家康は定紋の入った産着を与えた。
「お名を」と作左衛門に促され、男児の似顔絵を見て、「ギギだな」と、家康はつぶやいた。ナマズに似たギギという川魚に似ていたらしい。
「於義伊とせよ」
と、幼名がつけられた。
けれども於義丸は三歳になるまで、父の家康と対面できなかった。正室が許可しない脇腹の子は、徳川の子として認知されない。本多作左衛門が主にどうするか訊いても、はかばかしい返事がなく、やむを得ず、嫡男の信康に直訴した。
本多作左衛門から異母弟の話を聞いた信康は、一計を巡らした。近々、父は岐阜の岳父どのの許へ行くため、岡崎に一泊する。そのときに面会させよう、と。
こうして父子の対面は実現したのだが、於義丸が徳川の次男として認められるのは、正室の築山殿が亡くなってからである。
「ご正室さまは、どうしてお万の方様とお子様を認めなかったのでしょう。華陽院さまの血筋で従姉にあたる方が嫁いでいるから、いかに伯父の水野信元さまの配下であっても、氷見は縁なき家ではありませんのに」
須和の問いかけに、萩野は首を傾げた。
「御前さまのお考えは、私などには分かりかねます。けれども、松平ではなく、今川の縁を優先させたのではないか、とおぼろげながら察します。西郡の方様の養家の鵜殿氏は今川と縁が深く、お愛の方さまの実父は今川の家臣ですから」
「そうですね」
須和はその意見にうなずいた。
東三河の西郷氏は守護代を務めたこともあるが勢いが衰え、三河を支配した今川氏に従った。お愛の方の祖父・西郷正勝は遠江の今川氏の家臣・戸塚忠春に娘を嫁がせた。しかし、忠春と嫡男の忠家は天文二十三年(一五五四)の大森の戦で討ち死にする。お愛の方、三歳のときのことである。
母はその後、伊賀国から移住してきた服部正尚に再嫁し、お愛の方が八歳のときに桶狭間の戦で今川義元が討たれた。
東三河において今川氏の影響力が低下したのを見た設楽氏、菅沼氏など東三河国衆は今川氏を見限って、松平氏に属することを決めた。そのため、吉田城にいた三河衆の人質十三人は吉田城下の龍拈寺で串刺しの刑となった。その中には正勝の甥の孫四郎正好もいた。そして永禄五年(一五六二)には居城を今川氏に攻められ、嫡男の孫六郎元正は戦死し、正勝も居館に火を放って自害した。
元正の同母弟で松平家宿老の酒井忠次の妹婿、西郷清員は逃げのび、家康から西郷氏の家督を継ぐよう命じられるが、そのときまだ幼かった兄の忘れ形見、義勝へ家督相続を認めさせた。その義勝にお愛の方は後妻として嫁ぎ、一男一女をもうけた。ところが、元亀二年(一五七一)、武田氏の先発隊、秋山虎繁の南進を阻むための戦で、義勝が討ち死にする。義勝亡き後、お愛の方は服部正尚の妻である母の許に身を寄せた。そして天正六年(一五七八)、家康が服部正尚の屋敷を訪れたとき、お愛の方を見初め、浜松城へ連れ帰った。お愛の方は伯父の西郷清員の養女となって、翌天正七年(一五七九)四月に長丸君を、天正八年(一五八〇)に福松丸君を産んだ。
「いやいや、見初めたって? 作為があるでしょう。あの殿が、石橋を叩いても渡らないような、それでいて衝動的に女に手を出して捨てるような殿が、一目ぼれなんて、ありえない。そりゃあ、御方様は愛らしく、温和で美人で、ずっとお側にいたいような素晴らしい御方ですけれど」
「……須和さまでも、うろたえることって、あるんですねえ」
萩野が呆れて目を細める。
「人質を殺されてまで徳川に従った豊川三人衆、設楽氏・菅沼氏・西郷氏の内、設楽貞通どのは長篠の戦以下、さまざまに軍功を挙げられ、菅沼定盈どのも遠江の国衆の調略、また武田との戦で軍功を挙げられております。ただ西郷氏だけは男子が次々と戦死し、目立つ働きはしておりませぬ。殿は人質としていた一族を殺されても味方してくれた者たちを粗略には扱わない御方。男子がなければ、女子を召し上げようとなされたのではありませんか? 今川の臣の戸塚の娘と言えば、ご正室さまは頷かれましょうし、殿としては西郷の養女、母方とはいえ、西郷の血を引いておれば良いのですし」
「そうかもしれません……。この考え方のほうが殿らしく思います」
「でも、殿は大当たりでしたね。御方さまが長丸君を出産された五か月後に、あの事件が起きるのですもの。ご正室さまの悲劇のめは、それ以前から芽吹いていたのです」
と、萩野は最後にご正室さまとご嫡男のことを語り出した。
家康の嫡男・信康は天正元年(一五七五)、十五歳のとき足助城攻めで初陣を為し、天正三年(一五七五)五月の長篠の戦では徳川軍の大将として参加した。ただ、前年の天正二年に信康につけられた松平親宅が「何度も諫言するが聞き入れなかった」として蟄居・出家をしている。
これ以前、織田信長が朝倉氏を攻めたとき、妹を嫁がせた浅井長政に裏切られ、信長が単騎で京に逃げ帰ったことがある。そのとき世間では、「織田はもう、だめだろう」と囁かれた。しかし天正元年に織田信長は朝倉・浅井を攻め滅ぼす。
今川氏の血を引く築山殿にとって、織田は危なっかしく、信長は恐ろしい。一方で、信玄が亡くなったとはいえ、後継の勝頼は戦に勝ち続けて武田氏は版図を広げていた。それに出来星の織田より、名族の武田氏の方が親しみやすく理解しやすい。さらに今川氏滅亡の後、武田氏に仕えた者やその知り合いから来る便りでは、織田より武田が優位のように思える。
そんな雰囲気が醸されていた岡崎で天正三年四月四日、大賀弥四郎という者が謀反を計画したということで、処刑された。
「大賀という者は、中間から取り立てられ、渥美郡二十七余郷の代官に任じられていた譜代の家臣だったそうです。武田に通じ、主を討つつもりだと妻女に告げ、『わしはそなたを岡崎の城に移し、御台と呼ばせようと思っているのだぞ』と言うと、妻女は『もし御台と呼ばれればめでたいが、うまくいかなければ凶事そのもの。よくお聞きなさい。米は実るほどに頭を垂れ、謙虚になりますが、人は年季がたつにつれて高慢ちきに反り返るようになるといいます。今のあなたがそうでしょう』と答えたきり、口をきかなかったそうです」
「功名にはやった愚か者。謀反などなかなか成功するものではなかろうに」
と、言った須和に萩野が答える。
「そうです。大賀の計画は、恐ろしくなった仲間の裏切りで露見し、妻子四人は磔の刑に、本人は鋸引きの刑に処せられたとか」
「なんと惨くも、恐ろしいこと」
「まったくです。どうやらその計画、岡崎の重臣たちとご正室さままでもが加わっていたようで、家老の石川春重、松平新右衛門は大樹寺で自害、小谷甚左衛門は討ち取られ、倉知平左衛門は甲斐へ逃れた、と」
「でも、そのときはご正室さまと信康さまは罪を問われていませんね」
「はい。けれども、殿とご正室さまのお仲は冷え冷えとしたものになったそうです」
天正三年(一五七五)の十二月に、家康は母方の伯父の水野信元とその養嗣子を織田信長の命で自害に追い込んだ。
翌年の七月には長篠の戦における戦功の褒美として、十七歳の長女・亀姫を新城城主の奥平信昌に嫁がせた。
一方、天正五年(一五七七)八月の遠江国横須賀の戦で、嫡男の信康は退却時の殿をつとめ、武田軍に大井川を越させなかった。また、天正六年(一五七八)三月の小山城攻めにも参戦し、ここでも見事殿をつとめ、父の家康から「まこと勇将なり」と褒められている。
信康は妻の徳姫とも仲睦まじく、二人の間には天正四年に登久姫、天正五年に熊姫が生まれた。
しかし、嫡男が生まれないのを心配した築山殿が側室をすすめたことから、築山殿、続いて信康とも徳姫は不和となった。これを仲裁するため、家康が岡崎にやってきたが収まらず、織田信長も娘夫婦の不和を心配しており、天正六年正月に家康の招きで吉良で鷹狩をした際、滞在最終の二十一日に岡崎城へ立ち寄り、徳姫に会っている。けれども天正七年(一五七九)に徳姫は、父・信長へ十二カ条の訴状を送った。
それには、信康と不仲であること、築山殿が武田勝頼と内通した等、書かれてあった。
信長は使者として来た徳川家の宿老・酒井忠次に訴状の真偽を問いただしたが、忠次は信康をかばうことができず、そのため、信長は「徳川殿の思い通りにせよ」と答えた。
八月二十九日、築山殿が二股城への護送中に佐鳴湖畔で殺害され、九月十五日に二股城に幽閉されていた信康に、家康は切腹を命じた。信康は二十一歳だった。
「なんとまあ……殿は惨い宿命を背負っておられることか。徳川の家を守るために、正室と嫡男を殺さざるを得なかったとは」
須和は絶句した。
「『徳川どのの思い通りにせよ』と織田さまは仰せでしたが、殿が信康さまを生かしておいたならば、家中は分裂し、その機に乗じて織田さまが徳川を攻め滅ぼしたやもしれませぬ。徳姫さまは両家の絆の証でしたのに、ないがしろにするとは短慮。浜松におられた殿は織田さまと同じに武田を滅ぼすおつもりでした。けれども、岡崎のご正室さまと信康さまは和議を望まれ、意見の対立があったとも聞き及びます。信康さまは勇猛でしたが、横暴なところもあり、一部の家臣以外の信頼を得ておられませんでした。父親の命に背き、徳川家の同盟者である織田さまをも軽んじたため、殿と家臣たちから見限られたということでございます。ご正室さまは幽閉のご意向でしたが、それを恥じて自害なされたと聞いております。ご正室さまへの罰は、家内取り締まり不行き届きゆえかと」
須和は言葉もなく頭を振った。
「伯父の水野さまに続いて、織田さまを憚って正室と嫡男を自害に追い込まざるをえなくなるとは……」
「ああ、その水野さまですが、一族の他の皆さまは生きておいでです」
「は?」
と、須和は顔を上げた。
「天正七年に佐久間信盛さまを織田さまが追放されたことで水野家は領地を取り戻し、翌年、末弟の忠重さまが織田家家臣の水野の家督を継がれ、織田家に仕えておられます。忠重さまは信元さまと不仲で、早くから殿にお仕えして勇将として他家にも知られ、織田さまは家督を継がせることで労せず織田家に取り込んだのです。それに反発した他の水野の方は、いまだ徳川の家臣でおられますが」
「ええ?」
「それに、ご存知ですか? 殿が侍女のお松どのに手をつけて、この夏には子が生まれるそうですよ。お松どのは氷見の一族ですから、お万の方様が中村家で面倒を見ておられます。お竹の方様もご懐妊が分かり、年末にはお子が生まれるとか」
「なんということ!」
同情して損した、と須和は激しく後悔した。
(お愛の方様と、あんなに仲睦まじいのに。あれは何だったの。浮気ものーっ)
夫が亡くなったのち、天正八年(一五八〇)二月十七日、織田信長の娘・徳姫は家康と会見し、二十日には娘たちをおいて岡崎城をあとにした。
その後、近江八幡のあたりに住み、父の次は兄の織田信雄に、豊臣秀吉、そして徳川家に庇護され、京に住んで寛永十三年(一六三六)一月十日に亡くなった。娘や孫たちとはずっと連絡を取り合っていたらしい。
引用文献 『中世に生きる女たち』脇田晴子著、岩波新書 より、『庭のおしへ』一部抜粋




