表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/54

家康の妻妾

 古い話は三河出身の老いた使用人たちからそれとなく聞き出して、世間話としてすればよいのだけれど、現在仕えている家康とその家族について訊いて回ることは、あらぬ憶測や疑いを招きかねないので、須和は松木五兵衛の伝手を頼った。そこで今夜、萩野から話を聞こうということになった。

 部屋を二間賜っていたので、いつもは須和と息子の五兵衛、萩野と梅と別れて寝るのだが、今夜は梅に五兵衛の隣で寝てもらった。梅は普段、他の端女はしためと共に水汲みや掃除などの下働きをしているのだが、須和の家人けにんなので眠るときはここへやってくる。男の加兵衛と伊助と与一は、用がなければ奥へ入れないので、男の使用人部屋で寝起きしていた。

 梅は五兵衛を孫のようにかわいがっていたし、五兵衛も懐いているので、二人はしばらく取り留めもなくおしゃべりをしたのち、寝入ったようだ。

 明かりの油は貴重なので、庶民は当然ながら、城の人びとも夜明け前に起きて、陽が暮れると寝るという生活をしている。だから、須和の部屋にも燈台はない。しかし縁の方の障子から半分欠けた月の光が差し込んでいるので、萩野の顔がぼんやりと見えている。五月なので、夜でも寒いということはない。

 須和は萩野と二人で差し向かい、寝支度をして布団の上に間近に座っていた。

「商いをしていると、情報がとても大切だと分かります。伊助は親の代からのうちの使用人で、京でも甲府でも人を使って様々な情報を、荷を商いながら集めてくれました。そのつながりで、尾張や駿河の話も集めることができましたが、三河は田舎でよそ者には口が堅く、須和さまがお知りになりたいことに漏れがあるやもしれません。その点はご容赦ください」

 萩野が声をひそめて、ぼそぼそと言う。

 伊助の異能に須和は驚いた。

 家中の誰が、庭で草を抜いたり、掃除をしたりしている男が諜報に長けていると思うだろうか。

「かまいません。無理を言ったのは、私の方です」

 須和も小声で答えた。家康の家族の中で、誰もが口を濁す亡きご正室様のことを一番知りたかった。

 萩野は家康が生まれたときからのことを順序立てて語ってくれた。




 刈谷の水野家から嫁いできたお大の方が松平家の世継ぎを産み、その赤子にお乳を差し上げたのは、安祥に住む天野清右衛門貞有あまのせいえもんさだありの妻のためである。

 天野清右衛門は父の代から竹千代の祖父・松平清康に仕えて奉行を務め、清右衛門自身も奉行となり、内藤義清、石川忠輔、植村氏義、林忠満と共に、武芸に優れた「岡崎五人衆」と称された。松平広忠の代には、代官も勤め、十四村の領地を与えられた者で、宅地に別館を造り、乳母となった妻はそこで若君を扶育した。

 次に乳母となったのは、岡崎五人衆の一人、内藤義清の三男・勝重の妻のまつで、まつは人質となった竹千代に付き従い、尾張の熱田へ竹千代が送られたときも傍らに在った。

 ところがそこで竹千代が疱瘡ほうそうに罹った。疱瘡は「命定め、器量定め」とも言い、死ぬ確率が高く、生き残ってもあばたが残る。

 乳母のまつは高熱に苦しむ竹千代を見かね、熱田の神に祈った。

「他人にうつって治るのであれば、どうかこのまつにうつらせ給え。我が身の命に代えて、若君のお命を守らせ給え」

 と、願って絶食した。

 やがて竹千代の熱は下がり、徐々に回復していった。

「お元気になられて、ようございました。熱田の神さまにお礼を申し上げて参ります」

 と、まつは若君の御前から下がり、自害して果てた。



「ちょっと待って。殿のお顔にあばたはありませんよ」

「お身体のどこかにあるのではないですか? 古い話ですからねえ。疱瘡でなく、似た症状の別の病気だったかもしれません。ともあれ、徳川のお殿様が幼い頃死にかけて、乳母が神仏に願い、身代わりになって死んだ、ということがあったのは確かです」

「三河者の忠義が、重たい……」

 だが、乳母とその養い子の絆が強いことは、昔から語り物の随所に出て来る。現に長丸君の乳母・大姥局おおうばのつぼねも若君を慈しみ、その成長に心を砕いていた。



 三歳で生母と生き別れた竹千代を母替わりとなって育てたのは、大伯母の随念院ずいねんいんである。

 竹千代の曽祖父・松平信忠は安祥松平家の二代当主として家督を継いだが、家臣たちをまとめることができず、早々に隠退させられて、先代の長親(道閲)の後見の元、嫡男の清康が後を継いだ。清康の姉の随念院は当主となった弟の養女として大給松平家の乗勝に嫁ぎ、永正十二年(一五一五)に嫡子の親乗を産むが、子が十歳のとき夫が二十九歳という若さで没したため、足助城の鈴木重直と再婚し、娘が生まれるものの、「守山崩れ」で清康が横死したため、重直は松平氏から離反するために随念院を離別する。そのため、岡崎に戻っていたのだった。竹千代の父・広忠が後妻を迎えても養育に関わり、竹千代が人質として岡崎を去ったのちも連絡をとっていた。

 やがて尾張から今川氏の居館がある駿府に送られた竹千代は、母方の祖母の華陽院けよういんに育てられた。

 竹千代と一緒に駿府へ行ったのは、石川与七郎数正、天野三之助康景、上田万五郎元次入道慶宗、金田与三右衛門正房、松平与市忠正、平岩七之助親吉、榊原平七郎忠政、江原孫三郎利全ら二十八人、雑兵五十人余り。そして遊びの友として、阿部甚五郎正宣の子・徳千代(伊予守正勝)という六歳の子。のちに、岡崎で留守居をする奉行の鳥居伊賀守忠吉の子の彦右衛門元忠もこれに加わった。

 駿府では少将の宮の町にある人質屋敷に住み、その左隣には小田原の北条氏から人質として来ていた、のちの北条氏規が住んでいた。氏規の生母は北条の当主・氏康の正室の今川氏(瑞渓院)だったので、義元の母の寿佳尼じゅけいににとっては娘の子、すなわち孫だった。だから、寿佳尼は氏規を連れて野遊びなどに行き、氏規は人質としては気楽な立場だった。松平竹千代はその氏規と交流を持ち、岡部宿を本貫とする駿河衆の岡部氏の人びととも親しくなった。

 今川水軍の将・岡部忠兵衛貞綱もその一人で、家康は三男が生まれると、子どもの頃から知っている貞綱の娘に乳母となってくれるよう頼んだ。これが大姥局だった。また、のちに徳川の将となる、貞綱の甥の岡部正綱は幼馴染である。

 駿河国という穏やかな気候風土と、足利一門の今川氏の京の文化を取り入れた雅やかな雰囲気の中で育ち、竹千代自身、人質の立場を忘れるような子供らしい逸話がある。

 天文二十年(一五五一)、十歳の正月、今川義元の駿府館で諸将が年賀に伺候したとき、縁先から放尿し、並み居る人びとを驚かせ、五月五日の安部川の石合戦を見物した際には、近侍の者に背負われながら眺め、「私は小勢の方へ行こう。小勢の人は腹をくくって恐怖を抱かず、隊列も大変よく整っていることよ」と、小勢が多勢を打ち破ることを予言し、結果その通りになった。また、義元の父・氏親の菩提寺の増善寺で鷹狩をしようとして、叱られたりした。同時に近くの寺で手習いをし、ときどき駿府城外にある臨済寺という禅寺へ行って住持の太原雪斎たいげんせっさいから話を聞くといった日々を送った。



 太原雪斎、いみな崇孚すうふ。父母の一族は共に今川氏譜代の重臣で、幼名・芳菊丸といった今川義元の教育係を務めた。

 足利一門の守護大名・今川氏では争いを避けるため、九代当主で伊勢宗瑞(北条早雲)の甥だった今川氏親が、後継以外の男子は出家するという不文律を設けた。氏親の五男の芳菊丸はそれに従って、享禄三年(一五三〇)に得度し、承芳と名を改める。道号は、栴岳せんがく

 それ以前に、京都五山の建仁寺で修行していた雪斎は、秀才として知られており、そのため氏親に教育係を要請されたのだった。二人は修行のため上洛し、建仁寺、妙心寺と移った。

 禅宗は公案こうあんの臨済、只管打坐しかんたざの曹洞と分かれるが、仏法以外にも禅寺では漢籍を学び、その内容は四書五経の他、兵法・医学・薬学という実学も含む。

 雪斎と承芳が修行に励んでいる間、駿河では大永六年(一五二六)に氏親が病没し、嫡男の氏輝が家督を継いだ。そのとき、十四歳という若さであったため、母の寿佳尼が後見した。氏輝は内政の手腕があり、武芸にも秀でていたが、天文五年(一五三六)三月に突然、死去し、同じ日に後継者であった次弟の彦五郎も亡くなっている。

 継嗣がいなくなったことで、家督争いが起きる。今川氏の有力被官の福島くしま氏が、その血を引く氏親の側室が産んだ玄広恵探げんこうえたんを推し、氏親の正室だった寿佳尼と重臣たちと雪斎が栴岳承芳せんがくしょうほうを推した。寿佳尼たちは承芳を還俗させ、足利将軍から偏諱を賜って、義元と名乗らせた。また、こちらは北条氏綱[早雲の長子で北条二代]の支援も取り付け、戦となるが、義元側の勝利となり、玄広恵探は自刃した。

 義元の家督相続に尽力した雪斎は、寿佳尼と共に義元を補佐し、内政だけでなく、外交や軍事にその力を発揮する。

 弘治元年(一五五五)に六十歳で亡くなり、「雪斎が生きていたら、桶狭間の敗戦はなかっただろう」と言われている。

 家康も、「義元は雪斎和尚とのみ議して国政を執り行ったゆえ、家老の権威は軽い。そのため雪斎亡き後は、国政が整わなかった」と後年、述べている。



 ともあれ、竹千代に対する雪斎の物腰は穏やかで丁寧だ。

「息災でなされておるか」

 と、臨済寺で会うと決まって挨拶をしてくれる。

「物まねびがお好きであるか」

 義元が竹千代を一門格にして、成人したあかつきには使おうという意図があるのを雪斎は知っていた。

 独創的になるより、手本を忠実に真似るのを竹千代は好んでいた。

「それは良いことだ」

 雪斎は戦などで独創的なものは、その時だけ有効で、知られてしまえば、あとは敗れるばかりだ、という。その点、古今東西の良き例を真似る者は、良きところを知り尽くしておるゆえ、それを眼前の問題に応用するため、敵に見破られることはない。書や絵を学ぶように、まずは真似て、それを自分のものとし、おのれ独自のものをつくりなされ、と。

 雪斎の話はときに禅問答のようになったが、戦の経験など有用なものもあった。



 そして弘治元年(一五五五)正月、十四歳になった竹千代は元服して松平次郎三郎元信と名乗った。翌年、岡崎へ里帰りして、翌弘治三年(一五五七)正月十五日、十六歳のとき、理髪役をしてくれた関口親永の娘で義元の姪を妻に迎えた。花嫁は幾つか年上だった。

 一方で、翌永禄元年の二月に初陣を務めた元信は元康と改名し、三月には今川軍の先鋒として織田軍と戦い、破っている。

 結婚した当初、二人は仲睦まじかった。すぐに子ができ、永禄二年(一五五九)三月六日に生まれた赤子は男児で、竹千代と名づけられた。

 そして翌年の永禄三年(一五六〇)、元康にとって激動の年となる。

 五月六日に母方の祖母・華陽院が亡くなり、幼い息子と身重の妻を置いて十日には今川義元の西上軍の先発隊として出発せねばならなかった。

 五月十八日、義元に命じられたとおり、大高城に兵糧入れを無事成し遂げ、翌日の早暁、織田方の佐久間信盛の守る丸根砦を攻め落とし、義元の命により、鵜殿長照に代わって大高城に入った。その十九日の午後、桶狭間の中の田楽狭間で織田信長の奇襲によって、今川義元が討たれたのだった。

 元康のところに義元戦死の報が届いたのは夕方で、元康は義元の死を確認してから大高城を出て、二十日に菩提寺の大樹寺に移った。そして岡崎城にいた今川勢が駿府に引き上げるのを確認してから、二十三日には岡崎城に入った。

 広忠が殺されて以来、十二年ぶりに岡崎に主が戻って来たのだった。それまで岡崎城は今川氏の遣わした城代が住み、松平氏の領地を管理していた。

 今川義元は三河を直轄地にはせず、松平氏を一門衆格とすることで今川の領土に組み入れようとした。そのため、不在でも領主は竹千代で、阿部定吉、石川清兼、鳥居忠吉たち岡崎衆の奉行を使って今川氏は統治し、安祥松平氏唯一の直系血族である随念院に領主代行の役目、すなわち半物はんもつ[花押入りの文書]の発行などをさせた。

 義元の母の寿佳尼も病気の夫の代理として同様のことをしていたので、今川衆には見慣れたことであっただろう。

 岡崎城で元康を出迎えた大伯母で育ての親の随念院は、翌年の八月二日に亡くなるのだった。

 松平元康が岡崎城を取り返した翌月の六月四日、亀姫が生まれる。しかし元康は依然として今川氏の一門衆格であり、妻子は人質となっていた。

 今川義元の突然の死によって、今川領国の国衆は動揺し、三河の国衆もそれは同じだった。義元の後継・氏真は国衆・家臣たちをまとめることができず、元康も今川との断交を決意する。

 翌永禄四年(一五六一)に元康の許へ、織田信長から和睦の申し入れがあった。この頃、信長は美濃の斎藤竜興と戦っていたため、東から攻められるのを封じたいという理由だった。

 元康はそれに応じ、永禄五年(一五六二)正月十五日に、清州城で信長と会見し、同盟に合意した。そして二月四日、久松俊勝と松井忠次に命じ、三河西郡城主・鵜殿長照を攻め、その子の氏長と氏次の二人を生け捕りにした。長照の妻は義元の妹、二人は氏真にとって従兄弟にあたる。松平の家臣・石川数正が氏長・氏次と元康の妻子の人質交換に成功し、元康は妻子を取りもどしたのだった。

 これはかつて、雪斎が織田方に取られた竹千代を取り返した手法そのままである。



「岡崎城にはそのとき、生母のお大の方様と夫の久松様がおられまして、ご正室さまは岡崎城から東北にある築山というところに住むこととなり、『築山殿』と岡崎衆は呼んでおります。夫と別居する正妻をやや蔑んでいるような感じですね。今川の統治は岡崎衆にとって過酷でありましたから、その恨みが御前様に向かったように思われます」

「三条家の出のお裏様、中御門家出身の寿佳尼さま、ともに公家の妻は夫と別の館に住むということを、武家の方々はご存知ないようですね」

 萩野の溜め息に、須和も同意した。



 安祥松平氏と敵対する三河の国衆は、設楽郡の菅沼氏・奥平氏、宝飯郡の牧野氏・鵜殿氏、八名郡の西郷氏、渥美郡の戸田氏、幡豆郡の吉良氏、碧海郡の酒井氏。菅沼、牧野、西郷、戸田は攻めて家臣となし、あるいは松平姓を与え、元康はまず西三河を制圧した。

 そんな情勢の永禄六年(一五六三)三月二日、嫡男の竹千代と織田信長の娘・徳姫、五歳同士の婚約が決まった。婚儀が行われたのは、四年後の永禄十年(一五六七)である。

 永禄六年に元康は「家康」と改名し、その九月に三河一向一揆が勃発する。一揆より少し前に酒井忠尚、東条城主・吉良義昭、その一族の荒川義広が反乱を起こす。

 吉良氏は元々、家柄が格下の松平氏に伏するのを不満としており、荒川義広は家康の異母妹の市場姫が嫁いで子も成していたにもかかわらず、本家の吉良氏に従った。

 酒井氏は三河の国衆として他国にも知られていた。同祖ということで松平氏を凌ぐことも考えられた。しかし、酒井正親と酒井忠次は家康に従った。

 家康の誕生したとき胞刀の役を務めた酒井正親の五代前から、酒井氏は雅楽頭うたのかみ家と左衛門尉さえもんのじょう家に分かれた。雅楽頭家の正親は家康の祖父・清康の代から、左衛門尉家の忠次は家康の父・広忠の代から仕えており、正親・忠次ともに人質となった竹千代と一緒に駿府に赴いている。しかし、酒井氏も一枚岩ではなく、忠次の甥の忠尚は広忠没後に三度も背き、のち元康に仕えたが、家臣というより独立した国衆として今川氏から扱われるほどの勢いを保っていた。そして永禄六年の一向一揆の際、叔父の忠次が家康側につく一方、忠尚は挙兵し、敗れて他国へ逃走する。

 そして家康は三河一向一揆を平定し、三河一国を統一した。この間、従属した鵜殿氏から側室を迎えた。西郡にしごおりの方である。

 西郡の方は永禄八年(一五六五)、家康二十四歳のとき、次女の督姫を産む。

 また、西三河の氷見ひみ氏を従えたとき、側仕えとして寄越されたお万という娘に、築山殿は子を産ませるのを許さなかった。けれども家康は手をつけて孕ませ、駿河奉行だった本多作左衛門重次にお万を任せ、城外でお万の方は男児を産んだ。家康が三十三歳のときだ。

 その五年後、今川の臣・戸塚忠春の娘を母方の伯父の西郷清員の養女として召し、天正七年(一五七九)四月に男児が生まれた。これが長丸君である。



「西郡の方様、お愛の方様は浜松城においでになるし、城外にはお万の方様がいらっしゃるのは存じています。殿の孫の二人の姫君も。でも、ご嫡男とご正室様、そして織田の徳姫さまは、どこにおいでになるのですか? 誰もがいないものと振舞っていますが」

「それは……むごい話でありますゆえ、みな語りたくないのでしょう」

 萩野が痛ましげな顔をした。









評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ