家康の母と兄弟姉妹
須和が調べたところ、かつて、三河と知多半島、渥美半島に領地を持つ国衆それぞれは、東に今川氏という足利将軍家一門に連なる守護大名、西に新興ながら勢いのある織田信秀という二大勢力にはさまれ、どちらに属したら生き残れるか、右往左往していた。
それを象徴するのが徳川家康の母方の祖母・華陽院の生涯である。
法名・華陽院の俗名は、お富という。たぐいまれな美女で、実父は熱田大宮司に仕える青木加賀守式宗、のちに三河国額田郷の領主・大河内左衛門尉元綱の養女となった。元綱は名族・吉良氏の家老を務める大河内氏の一族である。そして養父によって、人質兼側女として三河の諸家に次々と嫁がされた。
十二歳のとき、熱田大宮司家の末裔で三河星野荘の領主・星野秋国に娶わせられたが、すぐに大河内家へ戻り、尾張織田氏の被官・川口宗定に嫁がされ、文助という男子をもうけたが離縁され、次は今川氏親の家臣で水巻城主の菅沼定広の許へやられて十郎兵衛という子を産んだが、また養家へ戻った。そして、三河の緒川城主・水野忠政に嫁した。
忠政は先に西郷信貞の娘を正室に迎え、藤七郎、おかんという一男一女をもうけたが離別していた。
お富と忠政との間に、清六郎・お大が生まれたが、お大を産んだあと、岡崎の松平清康の側室となった。清康がお富の美しさに目をつけ、松平氏が水野氏を破ったときの講和条件として譲り受けたと言われる。
お富は清康との間に、源次郎信康と、のちに碓井姫と呼ばれる女子を産んだ。
やがてお富は、清康が横死すると水野忠政の許へ戻って、伝兵衛、藤次郎という男子を産んだ。
忠政の死後、今川氏の伝手を頼って駿府に入り、出家して源応尼と名乗った。孫の松平竹千代が人質として送られてくると、今川義元の許しを得て、元服まで養育にあたった。そして、桶狭間の戦の数日前に死去する。
家康の母、お大は享禄元年(一五二八)に知多半島北部の緒川城で生まれた。この後、父の忠政は天文二年(一五三三)に刈谷城を築いて移り、そこを本拠とした。
天文十年(一五四一)十一月に、お大は十四歳で岡崎城主・松平広忠の許へ輿入れした。当初、三月の予定だったが、広忠の側女のお久が勘六という男児を産んだという噂が刈谷に伝わり、水野忠政とお富が躊躇したため、延びたのだ。その後、松平側がお久と勘六を岩津の信光明寺へ預けるということで、輿入れが実現したのだった。
はるか後年、同様なことが家康の孫娘の身の上にふりかかり、阿茶局も無関係でいられない、ということは不思議な縁であるが、このときの須和が知ることではない。
(政略って分かっているだろうに。男ってやつは、本当にどうしようもない)
と、この話を老いた三河女から聞いたとき、須和は死んだ亭主を思い出して、つくづくそう思った。
広忠は眉目秀麗であったという。若いお大が夫を恋い慕うのは自然な成り行きだったが、広忠はお久が忘れられず、化粧田[嫁入りの際に持参する田畑]のある桑谷村に屋敷を造って、お久母子を移し、そこへ通った。
お久は三河国加茂郡大給[豊田市]を本拠とする大給松平家の乗正の娘とされる。松平氏は分家が多く、宗家は長らく額田郡の岩津城を本拠とする岩津松平氏だったが、今川軍を率いて三河に侵入してきた伊勢宗瑞(北条早雲)を岩津城下で破ったのち衰退し、安祥松平氏が勢力を伸ばした。そして家康の祖父・清康の代になって、松平宗家となった。その安祥松平氏に対して、大給松平氏は何かと対立する一族だった。
刈谷の水野氏との縁組は尾張の織田氏に対抗するためのもので、叔父の信孝が方針を立て、譜代の老臣たちがこの婚儀のために奔走した。だが、大給松平の娘に男子が生まれ、正室とした水野の娘に男子がないのでは家臣一同が困る。お久の兄弟・乗勝に家康の大叔母、随念院が嫁ぎ、その息子の親乗の代になって、安祥松平家に従うようになったとはいえ、大給松平家の血を引く若君を主として仰ぎたくないのが家臣一同の想いだった。
ほどなくお大は懐妊した。
松平家では祈願所の鳳来寺に安産を祈った。けれどもお大は、それに加え、別に名僧・俊恵を招いて祈祷を依頼した。
俊恵は岡崎城内二の丸の薬師如来を祀った持仏堂にこもって日夜、祈祷を行った。
お大はさらに、城外の岩津の円福寺に願をかけた。男児誕生の望みがかなったときは、銅造の薬師如来像を寄進する、と。
そして天文十一年(一五四二)十二月二十六日、お大は無事に男児を産んだ。
宿老酒井正親の指示で、松平八幡宮へ早馬が送られた。松平家代々の嫡男は境内の泉から汲んだ水で産湯をつかう習わしだった。
竹千代と命名され、世継ぎが生まれたことを皆が祝う一方で、同じ日に桑谷村のお久も男児を産んだと、あとになってお大は聞いた。
このとき生まれた男児はすぐに僧となることが決められた。恵最という。その兄は、松平忠政と名乗り、酒井正親の許に属して、家康に家臣として仕えた。二人の母のお久は、桶狭間の戦の後、岡崎城へ戻ることができた家康と面会し、家長となった家康から許可を得て、出家している。
やがて産褥期を過ぎた二月に、お大は祈願の通り、円福寺に薬師如来像を寄進し、俊恵のために大仙寺を建立した。
しかしその年の七月、父の水野忠政が病死した。あとを継いで刈谷城主となった嫡男・藤七郎忠次、のちに改め信元はそれまで傘下にいた今川氏を見限り、織田信秀に味方することにした。
今川氏を裏切ることができない松平広忠は、お大を離縁することにした。天文十三年(一五四四)九月、竹千代が三歳のときのことである。
お大が岡崎をあとにしたのち、広忠は家臣の平原正次の娘を寵愛して、娘を二人産ませている。市場姫と矢田姫という。
市場姫は最初、八面城城主の荒川義広に嫁いだ。三河には足利一門の吉良氏の領地・吉良荘(西尾市)がある。そこの領主の東条吉良氏の当主・持清の次男で荒川家という別家を起こした初代が荒川義広だった。吉良氏は家康の祖父の清康が吉良荘に侵攻した際、降伏し、家臣となった。義広は永禄四年(一五六一)に家康が東条城城主・吉良義昭攻めをしたとき軍功を挙げ、家康の異母妹・市場姫を娶った。だが義広は、三河一向一揆のとき吉良の同族に従い、家康に背いて門徒衆の味方をし、城を追われた。市場姫は義広との死別後、大和国の大名・筒井順慶の従兄弟で養子の筒井政行(順斎)に嫁いだ。
矢田姫は叔母の碓井姫の子で宝飯郡長沢を本拠とする長沢松平家当主の松平康忠に嫁いだ。矢田姫はそこで嫡男の康直をもうけた。
ほかに広忠は御湯殿で仕える侍女を孕ませたが、生まれた翌年に広忠が亡くなったので事情を報せる機会がなく、家康が一時岡崎城に帰ったとき、生母が訴え出て、証拠の脇差を差し出したことから、家康がみとめて家臣とした家元という六歳下の異母弟がいる。しかし家元は十三歳のときから両足がなえてしまい、多病だったので、母の正光院と岡崎城下で暮らしている。
広忠のご落胤とされる男子が数名いるけれど、知られているところでは、家康には異母兄が一人、異母弟が二人、異母妹が二人いることになる。
お大を離縁した広忠は翌年、渥美半島の田原城主・戸田康光の娘、真喜姫を娶った。しかしこの妻との間には、子ができなかった。
一方、お大は兄が勧める知多半島の阿久居城主、久松弥九郎俊勝の許へ再嫁する。俊勝の先妻は、小金丸・おややという子をもうけたが、産褥で亡くなっていた。天文十六年(一五四七)、二十歳を幾つか過ぎた俊勝と二十歳のお大は結婚した。その前に、お大は刈谷の楞厳寺へ詣でて周鑑和尚を導師に、出家得度した。その後、再嫁したのだった。
そのころ、岡崎の松平家では嫡子の竹千代を今川氏へ人質に出そうとしたところ、後妻の父の戸田康光に奪われ、織田氏へ差し出されるという事件が起きていた。このことを知ったお大は、竹千代の幽閉先の熱田の加藤家へ衣類や玩具などを使者に持たせて送っている。そして二年後に駿府へ送られても、連絡を取り合っていた。
竹千代を織田へ売り渡した戸田康光は、松平広忠と今川氏の軍勢に攻められ、嫡男の尭光と共に討ち死にする。戸田氏は今川氏に味方した次男の定光が継ぎ、子孫は家康の家臣として従った。
そして天文十八(一五四九)年三月、松平広忠は家臣に暗殺される。これによって、幼い人質の身ながら、竹千代が安祥松平家の当主となった。
二度目の夫、久松俊勝は優しい人で、お大と仲睦まじく次々と子が生まれた。そんなとき、駿河の今川義元が上洛するということで、その先発隊として竹千代改め松平元康が阿久居の近く、池鯉鮒までやってきた。お大が三十三歳、永禄三年(一五六〇)のことだ。
母に会おうと、元康はわずかな供を連れて阿久居を訪れ、十六年ぶりの母子の対面を叶える。
二人は長年の想いをそれぞれ語り、泣いたり笑ったりした。
このとき、お大は久松俊勝とその間にできた子たちを元康に紹介した。
異父弟最年長の三郎太郎(康元)、九歳。源三郎(康俊)も九歳。多劫姫、八歳。長福丸(守勝)は生まれたばかりで、松姫と留姫はまだ生まれていなかった。
夫と息子たちは松平の姓を名乗ることを許され、お大の夫の俊勝は元康に従って戦で軍功を挙げ、今川と戦って落とした西郡の城を与えられた。そこで俊勝は前妻との息子で長子の弥九郎信俊に阿久居城を譲り、西郡城には二男の康元を入れた。自身は岡崎城に詰め、元康が出陣する際にはそこを守った。
この間、元康は弔い合戦もしない氏真を見限り、織田信長と同盟する。名も家康、次いで姓も徳川と改めた。
母方の伯父の水野信元も織田に属していたが、天正三年(一五七五)十二月、織田軍が美濃の岩村城を囲んだとき、織田方の佐久間信盛から「城主の秋山信友に内通し、水野領から兵糧が運び込まれている」と、信元は武田勝頼に通じているとの疑いが掛けられ、家康を頼るのだが、信長から「信元を殺せ」と命じられた家康は、血のつながりより織田との同盟を取って、何も知らない俊勝に信元を迎えに行かせ、信元を岡崎城で自害させた。しかしこれは、知多半島を統一するほどの勢いを持っていた水野信元を除くための織田方の陰謀で、信元は冤罪であった。実子を亡くしていた信元は甥の信政を養子にしていたが、その信政も自害させられ、水野の宗家は滅亡する。信元の領地は、織田の宿老・佐久間信盛の直轄地となった。
信元の死を知って、自分が義兄殺しの一役を担わされたことに俊勝は驚き怒り、西郡城に隠棲してしまった。
そして天正十年(一五八二)の異父兄弟たちは。
三十一歳の康元は、永禄五年(一五六二)から上ノ郷城(蒲郡市)の城主となっている。
同い年の康俊は、永禄六年(一五六三)に家康の命令によって、今川氏真の人質として駿河に行き、永禄十一年(一五六八)に武田信玄が駿河侵攻の際、今川家の家臣・三浦与一郎という者が康俊らを拉致し、武田側に寝返った。甲斐に送られた康俊は、家康の配下によってそこを脱出し、三河へ戻って来た。けれども冬山を踏破したために、凍傷によって両足の指を失った。家康はその労をねぎらい、一文字の刀と当麻の脇差を与えた。
二十三歳の定勝は家康に従い、長篠の戦と甲州征伐に従軍した。
多劫姫は安祥松平家に敵対していた桜井松平家の松平忠正に嫁いだ。桜井松平家は、三河一向一揆で家康の敵となったが敗れ、これを臣下とするための政略結婚だった。そこで多劫姫は嫡子の家広を産み、産んだ年の天文五年(一五七七)に夫の忠正が亡くなったため、その弟の忠吉と結婚して二人の男子を産んだ。この年には、二十九歳。
永禄八年(一五六五)に生まれた松姫は、十四歳のとき戸田氏嫡流の松平康長に嫁いで天正八年(一五八〇)に嫡子(松平永兼)を産んだばかりだ。今年、十八歳である。
留姫は昨年の天正九年(一五八一)に、安祥松平家に忠実な竹谷松平家の当主・松平家清に十三歳で嫁いだ。
(殿は、異母兄弟、異父兄弟を使い倒しておられるな)
須和は思った。この乱世で家を保ち、生き延びるためには仕方のないことだ。しかし、親族衆だけでこれだけいる。六月の末にある祓の贈答品の用意はかなりの数にのぼるだろう。
(甚三郎どのは、冤罪で殺された殿の伯父御の庶子。父親が死んだ年に生まれておられる。だから殿は土井家に養子として引き取らせ、今は長丸君の傅役となされて手元に置いておられるのか)
親戚だからか、甚三郎は家康に顔かたちや性格が似ており、隠し子ではないかという噂が立っている。
また、刈谷近くの池鯉鮒神社を水野氏は崇敬し、代々の当主が社殿の修造や改修などを行っていた。そこの神職は氷見氏といい、家康の側室・お万の方の実家でもあった。
家康の父・松平広忠の異母弟で華陽院の子、源次郎信康。つまり叔父は、織田信秀が安祥城を攻めたとき、兄の命令で加勢に行き、城主の松平長宗と共に討ち死にした。十五歳余りだったという。娘があり、長じて水野信元の家臣で神職の氷見貞親に嫁いだ。この貞親の姉妹がお万の方だった。
(甚三郎どのとお万の方。不思議な縁といえばそうだけれど、殿の意思が働いている?)
殿は後悔しているのか。今川氏の許にいたときは干戈を交え、織田氏についてからは三方ヶ原の戦などに加勢してくれた伯父を殺し、結果的に家を絶やしてしまったことに。
そんな疑問を持ったが、どこに真実があるのか須和には分からなかった。




