徳川家康という男
須和は萩野や松木五兵衛、城内で働く梅、加兵衛、与一、伊助にそれとなく朋輩から家康とその家族のことを訊いてもらい、自分の見聞きしたことと考えあわせ、主としての徳川家康の性格をだいたい把握した。ちなみに、下人から解放された与一と夫婦となった小夜は子を身ごもったため、娘の幸と一緒に松木家の宿で預かってもらっている。
須和が浜松城に来てから殿を観察していても、饒舌な人とはいえない。「はきと申されぬ方」というのが家臣たちの評だ。
でも何事かあったとき、家臣たちに意見を言わせ、最終的に殿が決断する。
大将は戦のとき、床几に座って指揮をする者と自ら戦場に出る者がいるけれど、初めは采配を持って指揮していても烈しさを増すと殿自ら戦場に出て家臣たちを叱咤する。
拳で鞍の前輪を叩いて、「かかれ、かかれ」と命令し、最後には指のふしぶしから血が流れるのを、戦が終わったあとに薬をつけるのだが、傷が癒えないうちにまた戦となるので、指の中節四つすべてがたこになってしまっている。[歳をとってから指がこわばって、曲がりにくくなるほどだった]
いらだつと親指を噛む癖があり、愛用の軍配団扇も歯形だらけ。
「合戦は勇気を主として意気込むのがよい。勝敗は、そのときの運次第と思うべし。必ず勝とうと期しても勝てるものではないが、まったく予期せず勝つこともある。あまり考えすぎるのはかえって損である」とのこと。
ともかく、家臣のことをよく見ており、三河一国を統一し、永禄八年(一五六五)三月に三河三奉行を置いた際には、その人選ぶりを三河の人びとは「仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野三兵」と謳った。
「仏高力」と言われた高力与左衛門尉清長は、一向一揆のとき、土呂本宗寺を平定し、仏像経典などを拾って収め、もとに戻した温順、慈愛の人。
「鬼作左」は本多作左衛門重次のことで、豪放で厳しい人物と見られていたが意外にも情のある民政を行った。
「何方偏なし」の天野三郎兵衛康景は公平さで知られていた。
この三人を血縁などのつながりでなく、その能力をかって任命したことで人びとは驚き、またほめそやしたのだった。
殿は才気が表面に出て、ぎらぎらした者は好まず、誠実な者を尊んだ。
「人はただ真心が深い者こそ、万事に念を入れるものである。真心が薄ければ自然と過失や誤りがある。心さえ誠実であれば、他の落ち度は許してやるのがよいだろう」と。また、
「家臣を使うときは、人の心を使うのと、才能を使うのと、二つの心得がある。性質が誠実で、主人を大切に思い、朋輩と交際しても少しも我儘でなく、すべてまめで穏やかで、そのうえ知力もあるならば、これは第一級の優れた家臣である。特に目をかけ愛しみ、身分が下であれば破格の抜擢をして、国政を差配させても少しも危ういことはないであろう。また、心持ちはそこまで確かでない者も、何事かに一つでも優れていて役立てられるところがある者は、これもまた捨てずに登用すべきである。この二つの品格を見分けて、才能を捨てることがないようにすることが肝要である」とも言う。
討ち死にした家臣の子らも気にかけ、家督を相続させている。
そして勝ち戦よりも単騎で逃げるような負け戦を何度も経験し、それを糧にした。
これらは主人としての立場から。
殿は幼少時、新陰流の流れをくむ奥山流の剣法を習い、新当流の剣法も学んだ。[剣術指南として柳生宗矩を召し抱えたのは、文禄三年(一五九三)。しかし生涯一度も人を斬ったことはない]
大坪流の馬術も習い、弓の腕前も確か。鉄砲も習い、名手だった。
学問が大好き。実学も好きだが、古典教養も好き。
鷹狩と水泳もよく行い、幼い頃病弱だったことから、医薬にも詳しく、自ら薬の調合を行う。そのくせ、自分以外の者が体調不良になったとき、「医者に診せよ」と言う。
健康に気を使い、麦飯、魚、野菜の煮つけを食べ、酒もほどほどに過食はしない。季節のものではない珍しい物も口にしなかった。
猿楽(能)も大好き。高天神城攻略のときは、高名な猿楽師を招いて演じさせていた。
囲碁、将棋も好き。薫物も大好き。
定家流の美しい文字を書き、つい最近まで書状や消息、覚書など私的なものばかりでなく、公文書まで自分で書いていた。
絵も描くが、それはこっそり。
一方で、苦手なのは舞、和歌・連歌。
茶は飲むけれど、茶の湯はさほど興味がない。
源頼朝公を尊敬し、三方ヶ原の戦で大敗させられたにも関わらず、武田信玄の軍政・民政を手本にしようとしている。
と、ここまで羅列してから須和は思った。
「凝り性で収集癖があるのかなあ。それと癇癪持ち」
癇癪といっても人に当たるようなものではなく、後に残らない感情の爆発。急に機嫌が悪くなって、その原因が分かる者がなだめると、良くなる。
そして最大の特徴は、質素倹約。
褌の色から馬の飼い葉まで、とにかく細かく、奉書紙一枚も無駄にせず、軍陣においても器物・幔幕を持って行かない。代官あての金銭請取書や年貢皆済状も自ら書いている。
[後年、蒲生氏郷が、「豊臣殿下がいなくなられた後、誰が天下の主になるだろうか」と問われ、「徳川殿は、その名望が世に高く知られているが、天性の鄙吝[けち]であるから、天下の主たるべき器ではない。こののち、天下は前田利家のものになるだろう」と答えた]
加えて、女好き。
女が好きといっても、無差別にとか、美しさを愛でるとかではなく、女としての機能を男として求めるのが第一で、美醜や性格はその次といった感じだ。これまで、欲情したときの一夜限りの女もいる。側室と認めるのは、それなりの理由がある者だった。ただ、戦場の陣屋女郎など遊女から病が移ることを理解していたので、殿はそういう女を相手にしない。
「御方様は筋目の良さだけでなく、美しさも性格の愛らしさもおありなので、秋の扇のように殿が捨てるようなことはまずあるまい」
須和は複雑な心境だった。殿のことを調べているうちに、次男の童子とその生母のお万の方が何故、城外に住んでいるのか知ったからだった。
引用文献『徳川実紀』




