庚申の夜
殿が旅立つ前、義弟が萩野を通じて「久左衛門どのが見つかった」と報せて来た。一郎太も無事のようだ。
嬉しかった。
詳しくは分からないそうだが、成瀬様と会うことができ、今はその下で働いているということだった。
須和はさっそく倉見局にそのことを報告し、「弟が生きていた祝いとして御方様に仕えている朋輩たちへ庚申待ちの夜に甘酒を振舞いたい」と申し出た。祝いというのは口実で、庚申待ちの徹夜のとき、殿やご家族のことをそれとなく聞き出すつもりなのだった。嬉しいのは本当だが、それを利用させてもらうことにした。
倉見局は快諾し、御方様に申し上げると、その話は殿にも伝わって、「庚申ならば、わしが留守のときになるな。されば、重忠の許、城で働く者みなにも振舞うがよい」と許可が出た。吝嗇な殿が珍しく費用を出してくれることになった。
漢数字だけでなく、年や日付を十二支十干の組み合わせで表すやり方が暮らしに溶け込んでいるのだが、その庚申の日、その夜眠ると、人の身の内にいる三尸[三匹の虫]が上帝に罪を告げ、そのために命を縮めるということから、帝釈天もしくは猿田彦命を祀って徹夜する行事のことを『庚申待ち』という。
殿が出かけてから数日して庚申の日がやってきた。甘酒を作るため、朝から台所では飯の炊けるよい匂いがする。
戦となれば、雑兵は米の飯が食える。それが目的で志願して雑兵になる村の若者も多い。徳川の家は夏になれば麦飯で、普段は殿を始めとして米の飯を食べることをあまりしない。基本、朝夕の二食で、昼に麦こがしや雑炊が出るときがある。朝食は飯と野菜の煮つけなどの副菜と塩辛い香の物。夕食にはこれに魚か、たまに猪や鹿の肉の味噌漬けを焼いたものがついた。
名ある大名家の使用人の食事にしては質素だが、雑炊ばかりの毎日だった須和と五兵衛にとって、ご馳走が続いているようなものだった。
そういえば、と須和は思う。
甲斐国にいるみなは大丈夫じゃろうか。勝頼様は税を掛けないはずの裏作の麦まで租税として持って行ってしまっていたし、武田家では農閑期に他国を攻めて雑兵となった村の男たちはそれで稼ぎを得、暮らしていた。けれども今年は逆に攻められ、戦で男手が取られて田おこしすら出来ていない。春から夏は食べ物がなくなる飢えの時期。武田領だった地域では、餓死者が出るんではなかろうか。
本家の人たちのことを思い、不安を感じたが、須和は頭を振ってその考えを追い出した。
五月の庚申の日、夜に甘酒が振舞われるということで、朝から城中の人たちがそわそわしていた。甘味が貴重ということもある。
やがて陽が暮れ、侍女たちは御方様が退屈しないようにその御前で物語をする。
二人ほど語り終わったとき、須和はそっと倉見局に殿の幼いときのことを訊いてみた。
「さぞ、お可愛らしい若君であられたことでしょうね」
「阿茶どののおっしゃる通り。色白でしもぶくれのお可愛らしい、いじらしい御子でありましたよ。わたくしがまだ娘時分にお見掛けしたかぎりでは……」
倉見局は酒井氏の分家の者で、同族の男に嫁いで六人子どもをもうけ、夫が戦死すると子を育てながら産婆の役目を何度かし、読み書きもできるので奥向きの奉公をしているのだという。
倉見局の身の上話を聞いているうちに夜半となり、甘酒が振舞われた。
侍女たちがはしゃぎ、おふうという物まね上手な侍女が語り出す。二十歳ほどの大柄な女だ。
おふうは伊賀者だった。京から伊賀国を抜けて伊勢国の大湊に至り、海路でゆけば、三河は陸路より近い。そのため、伊賀から三河・駿河にやってきて住み着く者も多かった。殿の側近で今は事情があって御家を離れている服部半蔵正成どのの父御もその一人で、お愛の方様の母君が再婚した服部平太夫正尚どのもそうだった。昨年の天正九年(一五八一)、北畠信雄を中心とした織田軍の伊賀攻めで、殺戮を逃れて三河へやってきた者も多い。
おふうは天正九年以前から三河に住み着き、御方様が側室となるとき、服部家からついてきた侍女だった。
「殿がお生まれになったとき……」
と、おふうは殿の出生から語り出した。倉見局と須和の会話を小耳にはさんでいたようだ。
天文十一年(一五四二)十二月二十六日、父・松平広忠が十七歳、刈谷城主の娘だった母・お大の方が十五歳のとき、嫡子が岡崎城内で生まれた。石川清兼が蟇目役を、酒井正親が胞刀の役を務め、大浜称名寺の住持・其阿が竹千代と命名した。祖父の清康、父の広忠も名乗った幼名だった。
しかし竹千代が生後七か月のとき、お大の方の父・水野忠政が病死し、あとを継いだお大の方の異母兄・忠次はこれまでたのみにしていた駿河守護の今川氏よりも頭角を現してきた織田信秀に従うことを決め、今川氏と手を切り、織田氏に味方し、信秀の諱の一字をもらって名を信元と改めた。
水野信元は妹婿の松平広忠に使者を送って、織田氏に与するよう勧めた。
けれども父の清康が討たれたあと、各地をさすらっていたところ、今川義元の援助によって岡崎城に戻れた広忠は恩人を裏切ることは出来ないと、その申し出を断り、妻のお大を離縁することにした。竹千代が三歳のときだった。
そして織田信秀が攻め寄せてくると聞き、広忠は今川義元に援軍を求める。今川氏が人質を要求したので、天文十六年(一五四七)八月、広忠は六歳になる竹千代を駿府へ送ることにした。西郡[蒲郡市]から船で渥美郡田原に出、そこから陸路を取る予定だった。
ところが、広忠の後妻の父で渥美半島の田原城主戸田康光が一行を欺き、舟を尾張の熱田に向かわせ、竹千代を永楽銭千貫文で織田方へ引き渡した。
織田信秀は竹千代を人質にしたことで今川を裏切って織田につくように誘ったが、広忠はそれに従わなかった。けれども、天文十八年(一五四九)三月十日、広忠は家臣に暗殺されてしまう。二十四歳という若さだった。
松平家中が動揺する中、今川義元は武将を派遣して岡崎城を接収させ、松平氏の重臣・妻子を駿府に移し、松平氏遺臣が織田方に属するのを防いだ。
十一月八日には、義元の軍師・太原崇孚雪斎を大将とする朝比奈泰能たちの軍勢が、織田信秀の支城で信長の庶兄の信広が守る安祥城(安城市)を攻めて、九日には信広を生け捕りにした。その後、雪斎は信広と竹千代の人質交換を計り、成功したのだった。
岡崎城に戻ることができたのもつかの間、竹千代は十二日に父の墓に詣でたのち、二十七日には今度は今川氏の人質として駿府に向かわければならなかった。そして八歳から十九歳までの十二年間、今川氏の人質として過ごした。
とはいえ、今川氏は松平竹千代を一門に加える意図をもって、教育を施した。
天文二十四年(一五五五)三月、十四歳になった竹千代は元服して松平次郎三郎元信と名乗った。元信の「元」は義元の偏諱を受けたものだった。
元服の式は駿府の今川館で行われ、烏帽子親は今川義元、理髪役は関口親永だった。烏帽子親とは義理の親子の絆を結ぶことを意味する。そして理髪役を務めた関口親永の娘を正室として娶ることになる。
翌年の弘治二年(一五五六)五月頃、今川義元の許しを得て、元信は亡き父・広忠の法要を営むために故郷の岡崎に戻ることができた。そして、領内を巡検した。
駿府で人質としてはわりと自由に過ごしていた元信だが、故郷は今川氏の完全な支配下に置かれ、家臣たちは戦となれば先手、すなわち最前線に送られ、「名ある岡崎衆、郎等までも過半討ち死にす」という惨状になったこともあった。戦でいくら働いても、恩賞はなく、主君が人質であるため、俸禄もなくなり、普段は農夫として働いた。
領内を回ると田植え時で、領民たちが泥田に入っている。田植えの最中、道に貴人が通っても路傍まで出て来ずともよい、という習慣があったのだが、元信に気づいた人びとは手を止め、泥田を渡って来て笠を取り、路傍にうずくまった。
その中でただ一人だけ背を向け、草むらへ逃げ込んでしまった農夫がいた。
『近藤登之助ではないか』
その中年の農夫は、松平家で物頭を務め、平時でも外出には数十人の供を連れ、戦場では尾張衆の間にまでその名が響いた男だった。その男が、農夫として食うべく米を作っていた。
呼びかけられて、登之助が元信の前にやって来たとき、
『憂き目を見させることよ』
と声を掛ければ、登之助は号泣した。
元信は今川氏の代官に遠慮し、岡崎城の本丸ではなく、留守を預かる奉行の鳥居伊賀守忠吉が起居する二の丸に入った。
そこで数日過ごしたとき、ある夜、鳥居忠吉がやってきて自分の城内屋敷まで案内し、蔵の中を見せた。天井に届くばかりの米俵と山積みにされた青銭がある。
『今川城代の目を盗んで旧領内からあがる年貢や運上金をくすね、貯めたのがこの米銭でございます。殿が将来独立なさるときは、これをすべて軍用にお使いなされ』
と老人は泣いた。
これが三河衆よ、と須和は思った。普通なら、主人が殺され、幼君が人質となった家など見限って他家に仕えるものだが、困窮してもその忠節を曲げない頑固さ。他に類を見ないことだ。
すすり泣きの聞こえる中、おふうの語りは続く。
翌年の弘治三年(一五五七)正月十五日、元信は駿府の今川館で関口親永の娘と結婚した。関口親永は今川一門の瀬名氏貞の次男で、妻は義元の妹であった。今川義元の姪を妻とした元信は一門格として扱われる。
弘治四年、この年永禄と改元され、二月五日、義元の命で岡崎に戻り、家臣を率いて賀茂郡寺部城(豊田市)の主、鈴木日向守重辰を攻めることになった。初陣である。
この戦で軍功を挙げた元信は義元の許可を得て、勇猛だった祖父にあやかり、「元康」と改名した。
その後も元康と岡崎衆は今川氏の先鋒として織田軍と戦うのだが、三河は依然として今川氏の支配下にあった。
永禄三年(一五六〇)五月十日、室町幕府再興のため、今川義元が駿河・遠江・三河の軍勢二万余を率いて京へ上るということで、先発隊として元康たちの軍が駿府を出発する。本隊が出発したのは十二日で、十六日に岡崎、十八日に沓掛に到着し、そこを本陣とした義元は、松平元康に鵜殿長照が守る大高城に兵糧を入れることを命じた。
大高城は熱田に近く、織田の領地に深く入り込んだ今川の最前線だった。十八日に元康は夜の闇に乗じて無事搬入に成功した。そして鵜殿長照に代わって入城する。十九歳だった。
元康が大高城に居陣した五月十九日の午後、今川義元は雨天の中、織田信長の急襲を受け、田楽狭間で戦死する。それを元康が知るのは夕方で、元康は今川義元の死を確認して初めて軍を動かし、大高城を出て、二十日に岡崎の松平氏の菩提寺・大樹寺に入った。そして岡崎城にいた今川勢がすべて駿府に引き上げたのを見計らって、二十三日に岡崎城に入ったのだった。
この前後の頃、元康は生母の再婚先の尾張阿久居の久松俊勝の館を訪ね、三歳のとき生き別れた母と再会した。
童子の殿が人質となって今川へ送られるとき、戸田康光によって織田に売られる段になると、侍女たちは怒り、今川義元の許しを得て一時、三河へ戻ったときの家臣たちへの思いやりを語られたときには、みな泣いた。そして今川義元が戦死し、やっと三河が今川氏から離れることができ、殿が生母のお大の方と再会したところになると、もう号泣である。お愛の方様も袖で涙を拭いている。
(甘酒で酔うはずはないんだけど)
けれども、他国者の須和は冷静だった。
おふうの話の中では、殿は悲劇の人で、三河衆はそれを助ける健気な家人だった。語り物の世界で、主従は一体となっていた。それが侍女たちの父や兄や弟なのだ。みなが語り物の中の登場人物だった。
(三河衆の忠誠心の強さは、ここにあるのじゃろうな)
と思ったが、実際の徳川家康はちょっと違う、と心の中で物申したくなった。
今川義元の後継・氏真に元康たちが弔い合戦を勧めたにも関わらず、氏真は動こうとしなかった。そのため翌永禄四年(一五六一)二月、母方の伯父の水野信元の仲介で、宿敵だった織田と和睦して、永禄五年(一五六二)正月、元康は清州城で織田信長と会見し、同盟した。
義元の突然の死で混乱し、弱体化した今川氏より勢いのある織田氏についた主家と共にある方が家の存続が可能だと判断した家臣たちは今川氏に差し出した人質の犠牲を覚悟の上で元康に従った。
そのため、離反した諸将の妻子を氏真は串刺しの刑に処した。
元康自身の妻子については、元康の生母の再婚相手で松平姓を与えた久松俊勝、松井忠次(松平康親)に命じて三河西郡城主・鵜殿長照を攻め、長照の子の氏長と氏次を生け捕りにした。長照の妻は義元の妹だったので、今川氏真にとって従兄弟にあたる。元康の家臣・石川数正が氏長と氏次を連れて駿府の氏真を訪ね、人質交換を説得して成功し、正室と竹千代・亀姫の三人を取り戻した。
永禄六年(一五六三)三月、五歳の長男と信長の娘との婚約が成り、七月六日には名を改めて「家康」とした。
その頃には東三河の国衆のほとんどが今川氏から離反して元康に帰属し、松平一族もほぼ結集することができた。ところが九月、三河で一向一揆が勃発する。
譜代の有力門徒が家康方についたことで門徒宗は分裂し、一時は家康を窮地に陥れたが、結局は門徒衆が敗北した。
勝利した家康は本願寺派寺院を破却し、一向宗を禁止したが、門徒家臣の罪は許した。そして三河を制圧し、酒井忠次(正室は家康の叔母)・石井家成(数正の叔父)を左右の旗頭とした。
永禄九年(一五六六)十二月二十九日、徳川に改姓し、従五位下、三河守に任官する。
今川氏を遂い、遠江を平定し、岡崎から浜松城に移り、武田信玄と三方ヶ原で戦った。この戦は大敗北で、多くの将兵が戦死し、「三河武者、末が末までも戦わざるは一人もなかるべし。その屍、こなたに向いたるはうち伏し、浜松の方に伏したるは仰様なり」という惨状だった。
姉川の戦、長篠の戦、高天神城攻め等々、これまで多くの戦を経てきた。
殿はもう親のいない、いたいけな童子でも勇猛果敢な若武者でもない。歴戦の、四十一歳の初老の男なのだ。と、須和はおふうの語りを冷めた眼差しで聞いていた。
引用文献 『徳川実紀』




