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木綿と水軍

 出発の前、殿が奥へやって来たので、お愛の方様、西郡の方様、姫君方、若君方を先頭に殿へご挨拶をし、侍女たちはその後ろに控えていた。須和もお見送りということなので、義妹からもらった浅黄色の布で作った絹の一張羅の小袖を着てその場にいた。

 側室方からの挨拶に答えた殿が、ふと須和に目を止め、笑みを浮かべた。次の瞬間、長丸君を抱き上げ、お愛の方様と会話していたが。

 殿が去ってから、お愛の方様の部屋へ引き上げ、倉見局に「あのとき殿は、何をお笑いになったのでしょうか」と尋ねたら、上座にいた御方おかた様が困ったように告げた。

「須和のその小袖、殿の下帯の色と同じなのです」

 ふんどしと一緒なんですかー。それは笑える。

「すぐに着替えて参ります!」

 と、つぼねへ戻って、えいからもらった変な柄の麻の小袖に着替えた。

 しかし下帯まで白い木綿ではなく、浅黄色とは。汚れが目立たくていいとの理由だそうだけど、質素倹約もここまで徹底すると呆れを通り過ぎて尊敬する。



 そんなことがあった四日後、須和は萩野を通じて呼び出した松木五兵衛と台所横の部屋で会っていた。

「まずは御礼を申し上げます。姉様あねさまのお陰で、徳川様の御用を務めることになりました。茶屋様が高級品の衣類や武具、御道具を扱い、松木は日用品の陶器や木綿・麻の衣、ご家来衆の使う道具などを取り扱うということでお出入りが許されました」

 と、満面の笑みを浮かべている。

「私は何もしておりません。あなたの努力の結果です。でも、まずはおめでとうと言いましょう」

 殿は品物を買うだけでなく、松木の持つ伝手つても取り込もうとしているのだろう、と須和は思った。京と在国を行き来する商人は、京の情報ももたらす。茶屋家の持つ伝手と違う情報源を持つ松木を取り込むことで、別方向からの情報を得る。それが双方違っていても、最終判断を下すのは殿なのだ。

「いやいや姉様あねさま、ご謙遜を。それで、今回のお呼び出しの用件は何でしょうか」

「これです」

 と、須和はたたんである絹の小袖を差し出し、先日の出来事を話した。

「支度金を使ってしまって、もう銭がありません。茶屋様に頼んだ物は晴れ着にしたいので、普段使いの物が欲しいのですが、新しくあつらえるわけにもいかず、染め直すか、これを売って木綿の古着を買うかしたいのです」

「打掛のお代は気にしなくてもいいんですよ。宗清どのも祝いの品として贈りたいと言っておられますし」

「借りを作りたくありませんの。たとえ身内に近い人であろうと」

「それはまた、ご自分に厳しいことで」

「いいえ。あなたには頼ってばかりおります」

姉様あねさま、それはお互い様です。我らの間に貸し借りはなしですぞ。わしは商人ですので、自分の目利きを信じたまで」

 うっふ、と笑った五兵衛忠成は、すぐに真剣な目つきで小袖を見つめた。

「銭がないと言うのなら、これを売って木綿の小袖を買うほうがいいでしょうな」

「加代様からいただいた思い出の品ですから、本当は売りたくないのですけどね」

姉様あねさまがそう思うとらすと知れば、加代も喜びましょう。ご奉公が叶って落ち着いたと、ふみでも書いてやってください」

「そうですね。そうしましょう」

 義妹の加代は、父親の堀田藤九郎の代から羽柴秀吉に仕える忠右衛門の妻として、羽柴の城がある近江国の長浜に住んでいるとのことだった。

 須和は木綿の小袖との交換を頼み、後日、近況をしたためたふみを書いて萩野経由で近江へ送った。



 武田氏に御蔵前衆として仕えていた松木家は京都出身の強みを生かし、京へ武田領国で採れた米や物産を輸送して売り、武田氏の資金を調達し、一方で京でしか手に入らない高級品や武具などを買い込んで甲斐へ持ち帰った。そして、京の情報も。

 武田氏が領国とした甲斐・信濃は内陸で、金となる米が多くは採れず、また陸路では大量輸送ができない。物を多く輸送するなら河や海の船だった。そのため、武田信玄は海に出ることを欲し、駿河を領国として今川氏が有していた港をわが物とした。そして旧今川水軍の岡部忠兵衛を大将に、旧今川水軍の伊丹康直、伊勢海賊衆の小浜景隆、向井正勝などを中核とした武田水軍を作り上げた。しかし、念願かなって京との交易を拡大しようとした矢先に命が尽き、あとを継いだ勝頼も敗死し、武田は滅んだ。


 古代から西国は瀬戸内海において京へ租税となる物資を運ぶために難波まで、東国では尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・武蔵の沿岸に伊勢神宮へ神饌しんせんを運ぶため伊勢への航路が開かれていた。それに携わる人びと、集団が海賊衆となり、大名家に属せば、水軍と呼ばれた。

 海賊衆は自分たちが支配する領域を通航する船を保護する代償として関銭、警固料を取っていた。それを払わない場合、略奪をするが、本質は武装した交易者であり、海運業者であった。

 古く海賊衆として知られるのは、紀州の熊野、瀬戸内の村上・忽那・河野・沼田・加賀谷・大内・大友の勢力が大きく、他に肥前の松浦、大隅の肝付、駿河の今川、伊豆の里見があった。

 その後、各地で大名の許に水軍として編成され、代表的なものは、安房の里見義康、織田信長に属し、のちに豊臣秀吉の臣下となった志摩の九鬼嘉隆、豊臣秀吉に属した菅達長、淡路の脇坂安治、土佐の長曾我部元親、伊予の池田秀氏、毛利元就に属した来島通総、安芸の毛利隆元、大内義隆に属した周防の白井房胤、豊前の黒田長政、筑前の小早川隆景、豊臣秀吉の家臣・肥後の小西行長、五島列島の五島純玄、壱岐の松浦鎮信となる。

 この天正期には、肥前の松浦党、大友水軍の若林氏、毛利水軍の三島村上氏、織田水軍の九鬼氏、北条水軍の梶尾氏が大きな勢力となっており、このうち織田水軍と毛利水軍が紀州沖で雌雄を決し、一度は敗れたものの、天正六年(一五七八)六月、九鬼嘉隆の造った甲鉄船を使って勝利し、十一月の大阪湾での海戦でも圧勝した。


 ここに至るまで織田信長は、筑前国博多津、薩摩国坊津とともに三津の一つと言われた安濃津あのつ[三重県津市]がある北伊勢を傘下に置くため、三男の信孝をその地を治める神戸かんべ氏の養子と為して織田の支配下とし、次に大湊おおみなとを擁する伊勢の大名・北畠氏に次男の信雄を養子に送り込んで伊勢国を織田の領域とした。

 大湊は伊勢神宮の奉納品の受け入れなどをする港として繁栄していた。また、ここでは造船もしており、対明貿易のための朱印船も造られた。堺と同じく会合衆えごうしゅうによる自治組織で運営されていたが、織田信長によってそれは解体させられて織田氏の支配するところとなり、九鬼氏の甲鉄船もここで造られた。

 この天正年間の頃、徳川家康の許には渥美半島を本拠とする小笠原氏の水軍と、伊勢海賊の小浜氏・向井氏、知多半島の海賊衆・千賀氏がいた。彼らは戦支度をするだけではなく、交易のためにその船を使った。


 海賊衆や水軍が使う船は、帆船である。帆の素材はわらこもむしろが一般的だった。しかしやがて、木綿が使われるようになる。木綿の帆は水に濡れても強いし、風をはらんでも風抜けしないなど、他の素材よりはるかに優れていたからだった。

 木綿が初めて伝えられたのは、延暦十八年(七九九)、三河に崑崙こんろん人がもたらしたと言われるがすぐに廃れ、足利将軍義澄の治世、明応年間に朝鮮から種子が輸入されて、栽培されるようになった。

 木綿は保湿性や吸湿性に優れているため、兵衣として使われ、他にも旗や陣幕、火縄銃の火縄などに最適だったため需要が高まり、輸入品が主だったものが、国内でも作られるようになり、大和・河内・山城・摂津・備前・備中・備後など近畿・中国地方で盛んに栽培された。

 水軍をかかえる今川氏の駿河でも木綿は栽培され、駿河木綿として有名になった。家康も三河にいるときから木綿栽培と織物を奨励し、

「家臣たちが妻を迎えるに当たっては、よく木綿を織ることができる女を求めよ。出陣の後には、俸米(扶持米)を十分に与えることができないので、木綿を織って家産にあてるように」

 と、申し渡している。

 のちに、この地の物は厚地で丈夫な三河木綿として知られるようになった。



 このころ、裕福な婦人でも小袖を三、四枚持っていれば良いほうで、貧しい者は麻の衣一枚で何年も過ごす、というのが普通だった。神尾孫左衛門の妻のままであったら、須和もそうなっていただろう。木綿が着られるようになったのは、屋敷奉公のお陰と言える。しかし、やるべきことは徒士侍の妻のときとは違って手だけではなく、頭を使い、気働きをせねばならないことばかりだった。

 正室のいない家康にとって、男子の生母であるお愛の方がその代理の立場にいる。妻は武家の行事に関わる。当然、補佐する侍女がいて、倉見局がその中心となり、須和はその手伝いをすることになっていた。


 武家の年中行事は、元旦・上巳じょうし[三月三日]・端午たんご[五月五日]・七夕[七月七日]・重陽ちょうよう[九月九日]の五節供ごせっくの際の贈答。八朔はっさく、すなわち八月一日に行われる贈り物とお返しの行事。十月の亥の日に亥子餅いのこもちを贈って食す行事。歳暮の贈答。衣替えのときの衣の贈答。六月晦日の六月のはらえ[夏越なごしの祓]の際の贈答がある。その時々で贈る物が決まっていたり、相手によっても贈答品が違うので、あらかじめ目録を作り、御方おかた様の許可を得たあとは殿の許可ももらい、それから発注し、買うことができたら、挨拶の書状をつけて相手方へ家臣が送り届ける。

 これは右筆の仕事にもかかわってくるので、須和も係となるのだ。四月の衣替えと五月の節供の準備のときはまだ奉公していなかったから、六月の祓が須和の初仕事だった。



「さあて、がんばろう」

 松木五兵衛を送り出してから、須和は自分を奮い立たせた。決められた仕事以外にも、為すべきことがある。








 

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