拝謁
腹ごしらえが済んだあと、須和は総本家の栄からもらった布で仕立てた小袖に着替えた。黄色の地に車輪の柄が擦ってある物だ。
それを見た萩野が変な顔をし、支度が出来たと聞いてやってきた松木五兵衛も、「それで行かれますか。代わりの衣装を用意します。化粧もなさったほうが良いかと」と言ったが、須和は断った。
「身分のさほど高くない子連れの後家が、小綺麗な格好をしておっては妙な勘繰りを受けます。ありのままで良いでしょう」
五兵衛には行李の中から取り出した新しい小袖と袴を身に着けさせた。
地味な小袖の萩野を連れ、行李を二つ背に乗せた馬を曳いた伊助を従え、須和は松木五兵衛に礼を言い、加兵衛一家と別れて、宿を出た。使いの阿部老人に従って城へ着くと、通用門から中へ入った。
城の台所口で阿部老人が紺色の着物と前掛け姿の下働きの女に言付けを頼むと、用件が伝わったのか、五十歳ほどの老女が奥から上がり框までやってきた。この老女が奥向を仕切っているのだろう。武田家と違って上級の侍女なのだが、打掛は着ておらず、朽葉色の小袖姿だった。
「倉見局様。殿の仰せにより、神尾の後家どのを連れてまいりました」
「ご苦労。阿部殿は下がられよ。神尾の後家どの、わたくしは倉見局と申し、御方様にお仕えする者。子を連れて奥へ参られよ。殿が会うとの仰せじゃ」
「はい。では、失礼つかまつりまして」
五兵衛の草履を脱がす前に萩野に目をやれば、「わかっている」というようにうなずいた。外にいる伊助と共に指示があるまで待つつもりだろう。
須和は草履を脱がして息子を先に上げてから、自分も草履を脱ぎ、板の間に上がると座って一礼し、老女のあとについて廊下を歩き出した。
城は何回も建て増ししたような分かりにくい造りで、最近も手を入れたのか、新しい木の香りがどこからかしてきた。
そのうちに倉見局が足を止め、廊下でひざまずいた。
須和は五兵衛と共にそれに倣う。
「殿」と、局が声を掛けると、「参れ」と答えがあった。
老女が須和を振り返って座を譲る。須和はそこへ膝でにじり寄って、平伏した。何も指示しなかったが、横で息子も同じようにしていた。
「須和とか申したな。いつぞやは屋敷勤めをしていたと言っていたが、読み書きは出来るのか」
「はい」
家康の問いに、須和は短く答えた。円座に座っている家康の前に、壮年の男がいる。須和が平伏しながら、そっと目を上げてうかがうと、いかつい顔をしていた。二人で談話していたところに、呼ばれたようだ。
「信玄公の正室の屋敷では、どんな仕事をしていたのか」
「幼い頃は、女童として小間使いをしておりました。成人してからは、御末[食事係]、女儒[道具方]、御服[衣装の仕立て]をひと通りいたしました」
朋輩は嫁に行ってしまい、長く務める者があまりいなかったので、あのころは求めに応じて各部署を回って働いた。
「なるほど」
と、うなずいた家康がつぶやく。
「御末の筆頭の尾張。いや、料理はせぬから、御服の筆頭、右京大夫か。いやいや、すわりが悪い。うん、女儒筆頭の阿茶。これが良い」
ひとり納得した家康は言う。
「須和は、阿茶局と名乗るがよい」
言い渡してから、自分の下手な諧謔が面白かったのか、くすくす笑っている。
変な御方じゃ、と須和は思った。同時に、室内からふわりと香の良い薫りがする。
「阿茶局は倉見局の助[助手]とする。倉見、苦手な書き物をしてもらうといい。重忠、お愛につける侍女だ。見知りおけ」
家康の言葉で、室内にいた武士と廊下の老女が一礼し、須和はさらに深く頭を下げた。
主となる徳川家康への拝謁はこれで終わり、須和は倉見局に連れられて奥へ向かった。
「これから、お愛の方様の許へ参ります。長丸様、福松丸様のご生母です。まだ正式に決まっておりませんが、長丸様がいずれお世継ぎとなられるでしょう。あなたがお仕えする御方です」
倉見局は手短に告げて、廊下を先にゆく。奥へ進んだとき、ふいに良い香りがしてきた。女たちの笑いさざめく声、幼児のたどたどしい話し声も。
「御方様、失礼つかまつります。新しい侍女を連れて参りました」
老女が廊下でひざまずいたので、須和も息子と共に再びそれに倣った。
「今川の臣、神尾の後家の須和と申し、さきほど殿から阿茶局と名をいただきました」
倉見局が説明している間、須和は平伏していた。
「息は年が改まってから、長丸様にお目見えし、お側使いとなされるとのご意向でございます」
それは聞いていない。でも、五兵衛もお勤めできるのは嬉しい、と須和は思った。いずれ直臣になるということだからだ。
「面を上げなさい」
鈴を転がすような可愛らしい声がした。
須和がゆるゆると顔を上げれば、部屋の中に女性と子どもがいた。小袖、細帯姿の女性が五人と三、四歳くらいの幼児が二人、十歳前後と見える少年が一人。床に木彫りの玩具が転がっているので、子どもたちを遊ばせていたようだ。
部屋には香の良い薫りが漂っている。
「右筆[書記]を雇ったと殿からお聞きしました。わたくしは目が悪くて、文字を書くのが苦手なので、これまで倉見局に手伝ってもらっていましたが、最近は公家の御内室への私的な消息[手紙]を書く必要も出来てきて困っていました。手伝っておくれね」
髪黒々として色白の細面、美しく可愛らしく、ほわほわとした雰囲気で、見ているだけで癒されるような――そんな御方だった。
ただ目をまぶしげにしばたたかせていた。
「阿茶、と殿が名付けたようですけど、わたくしは須和と呼ばせてね。その方が親しみやすく思うのです」
と、悪戯っぽく付け加えた。
「承りました」
須和は深く頭を下げた。
心の中では歓喜、乱舞。身体が震えた。
御裏様がおいでだ――御裏様が生きて、若くあられたら、きっとあのようなご様子だっただろう、と雰囲気が似ていたことに驚きつつ、このような美しくお優しい女主人にお仕えすることができ、嬉しくてたまらなかった。
御前を辞してから、倉見局に尋ねた。
「あのお香は、御方様のお好みですか」
「いえ、殿が特に調合してお渡ししていらっしゃるようですよ。殿は今川様の元におられた時期に習い覚わられたようです」
「まあ、自ら調合を」
難しいはず。それに香の原料は高価だ。
「愛されておられますね」
言葉にしてから無礼だったと、はっとした。
「まったくその通りです」
しかし倉見局は咎めず、にこりとした。
「長丸様と福松丸様は、殿の命でわたくしが産婆として取り上げました。特別な御方です。ですが」
と、言いよどんだ倉見局は再び廊下を歩き始める。
「他のご側室様方にあなたを紹介いたしましょう」
須和は倉見局のあとにつき、今年十七歳になる督姫の生母、西郡の方様の許へ行った。
西郡の方様は面長で楚々とした美人だった。四十歳前後と見え、すでに御褥すべりをしているようだ。義理の孫にあたる七歳の登久姫と六歳の熊姫を養育しているとのことで、部屋の中に人形や貝合わせの貝桶などが置いてあり、さきほどのお愛の方様の部屋と趣が違っている。
西郡の方様も、「阿茶、よろしくね」と優しくお声をかけてくださった。
次に向かったのは、穴山信君が徳川に味方する際、人質として寄越した二人の女性の許だった。下山の方とお竹の方と呼ばれている。
「穴山様が送って来た美女です。殿のお世話をしておりますが、いま殿は酒井様と歓談中ですので、局におられましょう」
さっき会った武士は酒井重忠という浜松城の留守居を仰せつかっている武士だとか。また、美女というのは、身の回りの世話をさせる美しい女性のことで、殿は夜伽も申し付けているとか。
倉見局の言う通り、下山の方とお竹の方は自分の部屋に引き取っていて、須和の挨拶を受け取ってくれた。同じ甲斐出身と知って、好意的だった。
殿のご長男はすでに亡くなられ、正室は実家へ戻られていること。ご次男は城外に生母とおられ、今年十歳になられること。二十三歳になられるご長女は奥三河衆の奥平信昌どのの室となり、新城城にいること、などを倉見局は語った。
そして倉見局は、須和が賜った局[部屋]まで案内してくれた。二間が割り当てられ、そこにはすでに萩野が控えていた。
「召し使う者は一人ですか。子息の従者はどうします。小袖は、それだけ? 客人がいらしたときのために、夏用と冬用の打掛がそれぞれ欲しいところですね。つい先日、織田右府様とご家来衆をこの浜松城にお迎えしたときなど、慌てましたよ。殿は普段、『裾が擦り切れるから打掛など着なくていい』などとおっしゃるから、ろくなものを持っておりませんで、お目見えしなくとも、威儀は正さなくてはなりません。客人がおいでになったときに、打掛もないなどと言っていられませんからね。そうそう、あなたの仕事ですが、右筆の他にも御方様の身の回りのお世話や側室様への連絡係なども頼もうと思います。わたくしも年をとって、廊下を長々と歩くのがつらくなりましたから。今日はこれまで。明日の六つ半[午前七時]に御方様のところへおいでなさい。朝の御仕度のお手伝いをします。食事は御方様が終えたあと、局へ配膳いたしますから、他の者と交代で摂りなさい」
「はい」
一気に言われたことを、須和は頭の中に記憶した。隣の五兵衛はもう疲れた顔をしている。
「ああ、それから」
と、倉見局が続ける。
「つい最近、殿が雇った右筆の神尾勝左衛門房成どのとは、ご親戚ですか。今川、次に武田に、ともに右筆として仕えた方らしいですが」
「いえ。舅から、代官として今川家に仕えた者がいた、とは聞いたことがありますが、その方は違う神尾でしょう」
「北条様のご家来にも、神尾姓がいると聞きましたが、どうです」
「そちらも違います。同じ神尾を名乗っていても、先祖は違うようです」
「そうですか。右筆の神尾どのとは仕事上、関りがありますので、ご親戚なら奇遇だと思ったのですよ。では、明日からよろしくお願いいたしますね」
倉見局はそう言って、去って行った。
「つかれたー」
老女の姿が見えなくなると、息子の五兵衛が床にひっくり返った。
「小袖に打掛に従者……。端女になると思っていたから、なんにも考えてなかった。どうしよう」
「とりあえず、五兵衛様に相談されては」
萩野に言われ、須和は必要な物を手紙に書いて伊助に渡し、松木家の宿へ使いに遣ったのだった。




