浜松城へ
須和たち一行は、笛吹川にかかる真新しい橋を渡った。富士を東から回る鎌倉街道と違って、西回りのこちらの道は田んぼのあぜ道のように狭いと聞いていたのに、広々とし、荷駄の行列とも悠々とすれ違える。
「織田様が道普請をされたのじゃろうか」
誰ともなしにつぶやいた須和の言葉を、萩野が拾った。
「徳川様でございますよ。織田右府様を接待されるために橋を架け、道を整え、宿を新しく作られたそうで、近隣の村の者たちは人夫として駆り出されましたが、臨時の収入があって喜んでいるそうです」
「まことに。我が殿を吝嗇と申す者もおるが、金を使うべき所はよくわきまえておられる」
須和たちの会話が聞こえたのか、馬で前を行く阿部老人が、かっかっと笑った。
その後、須和たちは笛吹川の南岸、左右口で泊まった。織田右府が泊まった御殿風の宿は三重の柵がめぐらされ、家臣たちには百余りの小屋が作られていたという。それら宿の建物は出発のあと、材料を解体して次の宿泊地へ運んで組み立てたとか。家臣のための宿の小屋が一つ残されており、須和たちはそこに泊まるのを許された。
木の香りがする宿で一夜を過ごしたのだが、須和はどうにも落ち着かなかった。御裏様の屋敷奉公をしていたときを除いて、これまで薄い雑炊をすするような日々を送ってきたので、金にあかせた出来事を見たり聞いたりすると、別世界に迷い込んだように感じた。武家の思考と感覚は、公家のそれとはまるで違うらしい、と思った。
その後、織田右府のあとを追うように須和たちは旅を続けた。その間、阿部老人が徳川家の接待の様子を詳しく話してくれる。道々、そのあとを眺めると、徳川の家を傾ける勢いで金と労力を使ったのが良く分かる。
本栖の宿館の豪華さ。須和たちは富士の人穴には寄らなかったが、そこに家康が織田様のために建てた茶亭のこと。大宮の大宮司家の屋敷内にしつらえた新築の座所のきらびやかさ。
この大宮で、それまで接待の準備のため先行していた家康が織田右府を出迎え、秘蔵の脇指、太刀、名馬を与えられたとか。
「このとき、いかに織田様が感激なされていたか」と、阿部老人の語りは、もはや自分の主、家康の自慢話となっている。
やがて織田信長の一行は、富士川を渡り、三保の松原から富士を仰ぎつつ久能へ入り、江尻城(清水)に泊まった。翌日は駿府で茶を喫し、田中城で泊まり、四月十六日に懸川に泊まって、十七日には天竜川を渡った。
天竜川は暴れ川で、流れがすさまじく、舟橋などかからない。しかし、それを家康はあえてやった。大綱だけで百筋以上引き、両岸で数千人がそれを持ち、舟が流れないようにした。
(接待という名の、これは戦ではないか)
阿部老人の話を聞いているうちに、須和はそんな感想を持った。
とんでもない御人と知り合ってしまった……。
このままではいけないと、必死になってした行動が、思いもよらない相手と縁を結んでしまったようだ。
やがて、須和たちは駿府へ入った。徳川家が普請したところ以外、五年前に須和が去ったときと変わりない様子に見えた。
(徒士のお長屋で一緒だったオカタたちは、どうされておるじゃろか)
主君の一条信龍は徳川家康に討たれた。夫も徳川との戦で死んでいるから、須和にとっては二重の仇と言えたが、駿河に来てからの暮らしはろくでもないことばかりだ。息子を授かったこと以外、いいことなんて無かったから、徳川家に奉公することに須和は悪感情など少しも持っていなかった。
(『竈の灰まで、あたしのもの』と言い切った後妻どのは、どうしたか)
とも思ったけれど、もはや関わりないことだ。息子の五兵衛は、神尾の姓を父親からもらっただけと、須和は考えていた。
次に訪れた田中城も、五年前と少しも変りない。
須和は富士の峰に向かい、「オカタたちが無事でありますように」と祈った。
夫たちが主君に従うのと共に、落城のときあるいは、戦に巻き込まれて死んだか。その可能性のほうが大きかったが、自分たち母子は生きている。井戸端でおしゃべりしていたみんなも、どうか生きていてほしい、と願った。
その後、須和たちは懸川を過ぎ、天竜川を人夫の肩に乗って渡った。そして浜松の城下に到着する。下から見上げた浜松城は天守と石垣のない地味な城だった。
「お城に参ずる前に、須和様の装束を松木のほうで整えとうございます」
と、萩野が阿部老人に言い、許されたので、一行は浜松城下の松木家の宿へ入った。
「姉様、恙なくおいでのようで何よりです」
報せを受けて出迎えたのは、松木五兵衛である。
「何から何まで、お世話になります」
客間と思われる一室の上座へ導かれた須和は座ってから、前にいる義弟に礼を述べた。
息子の五兵衛は別室で湯あみをしたあと、粥などを食べさせてもらっている。だからここには、須和と目の前に座っている義弟と部屋の隅に控える萩野だけだった。
「こたびは徳川様にお仕えなさるとのこと、お慶び申し上げます」
「さまざまなお気遣いをしていただき、かたじけのうございます」
と、型通りの挨拶をして頭を下げたあと、須和は松木五兵衛をひたと見据えた。
「徳川様からのお召しは、本当のところでしょう。けれども、ここまでしてくださるのは、何か意図があってのことと察します。私が亡くなった兄の嫁というだけではありませんね」
「さすが姉様。よくお分かりだ」
松木五兵衛が、にこりとする。だが、その眼の光が今までと違う。
これが本性か、と思った。取引をするときの商人の目だ。
「武田は滅びましたが、蔵前衆だったわれらは特にお咎めもなく、新しい領主の河尻様はそのままお使いくださるようです。しかし、われら商いをする者は、それだけではだめでしてね。松木家は今、武田を継いだ穴山様にお仕えしていますが、他にも伝手が欲しい。そんなとき、姉様に徳川様からお声が掛かりました。酒井様にも、姉様がわしの身内だと申し上げてありますから、向こうも利用価値があると判断されましょう」
「『奇貨居くべし』ですか」
「なんのことですかな」
「漢籍の言葉です。『珍しい品物は、あとで大きな利益を得るために買っておくべき』という意味です。こういうところが、孫左衛門どのに嫌われていたのですけどね。女に教養などいらぬと。ましてや真名の読み書きなど」
「徳川様なら、面白がられることでありましょう」
と、答えた松木五兵衛が苦い顔をする。
「兄者は阿呆じゃ。武田家のご正室様の屋敷に奉公していた姉様の価値も分からず嫁にして、端女のように使い倒し、あげくは他の女と子を作り、離縁とは。侍奉公をしたかったら、妻女の働きも考えねばならんものを組頭の妹というだけで、そちらを取った。徒士どまりの考えでは、いたしかたありませんがの」
と、初めて兄に対する感情を吐露した義弟は、須和を見た。
「徳川様は大名じゃ。その奥勤めなら、姉様の以前のご奉公の経験が生かせます」
「なるほど。私は忠成どのの掌の上で転がされるわけですね。では、何をすれば良い?」
「奥での出世を。そして松木家を引き上げてくだされ。徳川様には呉服を一手に引き受けている京の茶屋家がすでに御用を務めておりますが、武田家に蔵前衆が何人もいたように、食い込めないわけではない」
「いいでしょう。とはいえ、当て外れかもしれませんよ」
須和は皮肉を込めて微笑んだ。
「わしは自分の目を信じておりますゆえ」
義弟も負けていなかった。
「ならば、これからは私の言うことを聞いてくださいな。まず、徳川様について教えてくれませんか。仕える御方のことを知っておきたいのです」
「ようございます」
と、松木五兵衛忠成は語ってくれた。
三河の奥深いところに酒井郷という場所がある。そこに流れ着いた時宗の聖、徳阿弥が富農の家に逗留しているうちに家の娘と懇ろになり、男子が生まれた。それが酒井氏の祖である。娘が亡くなると徳阿弥は松平郷に移り、そこの土豪の入り婿となって還俗し、松平親氏と名乗った。親氏は近隣の刈り取りを開始し、血縁である酒井氏と共に周辺の土豪を攻撃して所領を奪っていった。
数代のちに松平氏は平地にある安祥城を攻め取って、居城とした。このときから付き従う諸家が、酒井・本多・林・石川・阿部・大久保・高山・遠山・青山・植村などで、安祥譜代と呼ばれる。
家康の祖父・清康が家督を継ぐと、当時の守護代だった西郷氏を破って岡崎城を取り、大永四年(一五二四)に本拠地とした。そのとき以来従うのは岡崎譜代と呼ばれる榊原・松井・高力・天野・安藤・永井・牧野・戸田・奥平・菅野などの諸家である。
清康は三河を統一する勢いであったが、尾張の守山に出陣していた際に二十五歳の若さで家臣に殺されるという最期を遂げた。このとき家康の父・広忠は十歳足らずだった。
松平氏は十四家と多く分家していたが、けして味方ばかりとは言えず、幼い広忠は叔父や家臣たちに護られながら各地を転々とし、東隣の遠江・駿河を支配する守護大名の今川家に助けを求めることによって、やっと広忠は岡崎城へ戻って来ることが出来た。だが、西隣・尾張の織田信秀がさかんに三河を侵略してくる。
今川氏が尾張へ侵攻しようとし、織田氏も三河を支配下に置こうとする。そんな中、広忠は刈谷城主・水野忠政の娘と結婚し、天文十一年(一五四二)十二月に竹千代(家康)が生まれた。その二年後、刈谷城主となった伯父の信元が今川氏から織田氏に属することを決めたため、広忠は妻を離縁する。
天文十六年(一五四七)、今川氏の要請で広忠は六歳の竹千代を人質として駿府に送ろうとするが、織田方に捕らえられて尾張に送られ、約二年間、竹千代は織田家の許で過ごした。
天文十八年(一五四九)、広忠は家臣に暗殺されると今川氏は武将を派遣して岡崎城を接収させ、その約半年後、織田信秀の子・信広が守る安祥城を攻め落とし、信広を生け捕りにして竹千代との人質交換を為し遂げた。竹千代はその後、十二年間を今川氏の人質として過ごす。
人質といっても、今川氏は竹千代を一門として遇し、元服のときの烏帽子親は今川義元がし、姪を娶わせた。元服の際、元信と名乗り、初陣後に元康と改名している。
桶狭間における今川義元の敗死を機に岡崎城へ戻り、自立し、織田氏とも和睦した。
名を家康と改めた直後に家臣たちを巻き込んだ三河一向一揆が勃発したが、翌年には平定し、三河一国を統一した。徳川と改姓したのち、織田氏に味方した姉川の戦で浅井・朝倉軍を撃破。同じ年に武田信玄と断交して上杉謙信と同盟を結び、三方ヶ原の戦では信玄に大敗した。のち、長篠の戦で織田軍と共に武田軍を相手に大勝する。
「……甲州に織田・徳川軍が入ってからは、姉様の知っているとおりじゃ」
「なんとも」
と、須和は息を吐いた。
「数奇な宿縁を持つ御方じゃな」
「行く前に思い込みを持たせるのもいかんことだが――三河者は、よく働き、律儀で忠義者が多い反面、頑固で融通がきかず、利己的で誇り高い。ようは余所者を警戒する田舎モンということじゃ」
「田舎モンは、甲州人も同じ」
須和は、「ふふ」と笑った。意外と似たところがあるかもしれない。
「よう話してくだされました」
「いえいえ。わしも世間で知られていることしか分かりませんで」
と、松木五兵衛は右手を顔の前で振った。
和やかな空気が流れていたそのとき、廊下で咳払いがする。
「何用でございますか」
萩野がつと立ち上がり、障子の前に行って膝をついた。
「駿府の松木与左衛門様がお越しでございます」
と、障子の向こうで女の声がした。
「宗清どのか」
急いで立ち上がった五兵衛忠成が障子を開けた。
一礼して下がった使用人のあとから、小太りの四十過ぎと思われる男が姿を現した。薄青の小袖に茶の袴、朽葉色の袖なし羽織といった格好だった。
「五兵衛どの。そのまま、そのまま。こちらが神尾の姉君か」
「左様でございます。このたび、徳川様にご奉公することと相成りました」
「いやさ、べっぴんじゃの」
と、男は須和の前にどかりと座り、五兵衛が慌てて円座を勧めると、その上へ坐り直した。
「宗清どのは、どうしてここへ」
「神尾の姉君を迎えると聞いておったから、今日ぐらい浜松に着くじゃろうと当たりをつけておった。行き合って良かった」
と答えた次に須和へ向かい、頭を下げた。
「松木与左衛門宗清と申します。お見知りおきを」
「痛み入ります。して、五兵衛どの。ご親戚ですか」
ああ、とばつの悪そうな顔をした五兵衛忠成は、「そうです」と答えてから、言った。
「これまでいろいろ松木について姉様に話したこと。嘘ではないが、正しくもなかった。宗清どのが来てしまったからには、松木家について知ってもらっておいたほうがいいじゃろう」
「誤魔化しとったんか。悪いやっちゃなあ」
笑っている与左衛門宗清をしり目に、五兵衛忠成が話す。それによると――
松木家の初代、珪琳は公家崩れ。領地を地方の土豪などに押領され、食べていけなくなった珪琳は松木と名乗り、三条家につながるか細い縁を頼って甲斐にやってき、御裏様の御用を務めて京と甲斐を往復しているうちに財を成し、武田氏の蔵前衆に名を連ねるまでになった。
子の与左衛門宗義は山国の甲斐を出て駿河へ行き、今川氏の居館がある駿府で土倉[金貸し]を始め、永禄年間のうちに今川氏の御用を務める友野氏と肩を並べる程の豪商となった。駿河が武田信玄の侵攻後、武田氏の領国になったあとでも御用商人であり続け、元亀元年(一五七〇)に死去したのちには、息子の宗清が商いを継いだ。
「義父の五郎右衛門は父親のあとを継いで京との交易に従事しとりましたが、灰吹き法という金の精製法を知りましてね。職人の頭になり、甲州金という甲斐国内で流通している貨幣の金座役人として、山下様・志村様・野中様と一緒に勤めることになりました。武田が滅んで、河尻様が領主になってからは、逃げ散った職人たちを集めたりして鋳造どころではないようですが。養子のわしは、金座とはかかわりなく、京との交易に携わっております。御坂峠にいたのは、宗清どのが穴山様から半手、つまり戦のある境界での商いの許可を得ていたからで、姉様と出会ったのは、まったくの偶然でした」
「偶然というも運であろう。父とわしも駿河では苦労したでのう。今川様の御用商人で木綿の座[同業組合]の棟梁だった友野様の牙城に食い込むのは、えらく大変じゃった。したが今ではどうじゃ。肩を並べる程よ。今川の侍たちがうちから金を借りてくれたおかげだがな。こたび徳川様は駿府城を再建するおつもりがあり、城下の今宿の町割りをこの松木と友野様にご下命された。これから駿府は賑わうことじゃろう」
駿河国をわが物とした徳川家康は、すでに領国統治のために動き出しているようだ。
「ですから」
と、与左衛門宗清が須和に向き直る。
「駿府にお出でになったときには、ぜひ我が家にお申し付けくだされ。いかようなことも承りますぞ」
「そのときは、よしなに」
宗清の申し出に須和は微笑み、答えた。
これは顔見世か、と思いながら。商人は油断がならない。
須和が礼を述べると、話が終わったと理解した萩野は丁寧な言葉で松木五兵衛と与左衛門を部屋から追い出し、須和は湯あみをしたあと、湯漬けを摂ったのだった。




