旅立ち
結局、須和が甲府府中の飯田屋敷へ戻れたのは、三月二十九日の論功行賞と国掟が発表されて、事態が少し落ち着いてからだった。
武田勝頼が自刃したとき、織田信長は信濃の国境を越えるどころか、まだ美濃の岩村城に滞在していた。駿河の田中城の依田信蕃だけはまだ抵抗していたが、穴山信君の説得で開城し、これで武田氏との戦闘は終焉した。
このあと、甲府にいる織田信忠は武田家の一門とその譜代衆を追討し、惨殺する。そして織田軍は武田方の有力武将の首に報奨金をかけたので、地元の人びとは名ある者たちを探し出して殺し、その首を差し出した。
武田勝頼を裏切った小山田信茂はこの後、本領安堵そして恩賞にあずかるつもりで甲府の善光寺を本陣としていた信長を訪れたが、信長は土壇場で主家を裏切った小山田の不実をなじり、その場で斬殺し、老母と妻子も殺させた。三月二十四日のことだという。
それより前、天正十年(一五八二)三月二十一日、織田信長は諏訪に到着し、北条氏政の使者から戦勝祝いを受けた。その後、三月二十三日と二十九日に発表された論功行賞で、武田勝頼を追い詰めた滝川一益に上野一国と小県郡、佐久郡。河尻秀隆には、穴山信君の本貫地を除く甲斐一国と諏訪郡が与えられた。
徳川家康には、駿河一国。これによって、家康はかつての今川氏と同じ、駿河・遠江・三河を領有することになった。
他に、木曽義昌は本領安堵と筑摩郡・安曇郡。森長可、毛利長秀、森成利、団忠正がそれぞれ領地を与えられ、穴山信君は甲斐河内の本領安堵、そして嫡子・勝千代に武田氏の名跡を継がせ、当主とすることが認められた。
このとき、勝頼に献策して受け入れられなかった真田昌幸は旧領の一部を与えられ、信長の重臣・滝川一益の与力武将とされ、人質として次男の信繁を一益に差し出したのだった。
一方、土地の人びとに対する国掟では、「関所で税を徴収してはならない」等の高田勝頼が課した重税の撤廃のこと、「所領の境目が入り組んでいて争いになっても、憎しみあってはならない」など、公事[裁判]に関することなど十一カ条を定め、「右の定めの他にもし不都合な事があったら、参上してじかに訴訟を申し上げよ」とした。武田氏が支配していたときより、税と公事が軽くなった。
そして四月十日に織田信長の一行は甲府を出発し、東海道を経由して安土城へ向かった。
織田軍の軍律は厳しくて略奪・乱暴もなく、戦のあとだというのに、関税がなくなったことで他国の行商人が往来し、辻にはもう市が立つようになった。良い頃合いだろう、ということで、飯田昌在が従者をつけて、須和と五兵衛を甲府府中へ送り出してくれた。
石和と甲府はごく近く、歩いても甲府のはずれにある半兵衛の屋敷に着いたときには午の時[午前十一時から午後一時]にもなっていなかった。
甲府の飯田屋敷にはみなが戻っていて、主の部屋に通された須和はまず本家のおばの千代女に叱られ、主の半兵衛の横にいる息子の清右衛門から「無事で良かった」と言われ、嫁の志津は袂で涙を拭いていて、四人に対して須和はひたすら頭を下げて心配かけたことを謝罪した。
そして五兵衛と一緒に離れへ行けば、梅がいきなり抱きついてきて、わんわん泣く。
「オカタさま。久左衛門様がおいでにならぬ今、我らが頼りとするは、あなた様しかおりませぬ。直訴なさるのなら、我らも共に連れて行っていただきとうございマシタ」
梅の亭主の加兵衛に怖い顔で告げられ、小夜が「情けのうございます」と袖で顔を覆って泣く。その娘の幸も母親につられてぐずぐずと泣いていた。
「うら、ひいさまから離れねえ」
梅が叫んだ。
父が討ち死にし、母も病で亡くなり、半兵衛に引き取られて育ったけれど、実際に側にいて須和と久左衛門の姉弟の世話をしてくれたのは、使用人の加兵衛と梅の夫婦だった。二人には肉親に近い情があり、不幸せな目に遭ってほしくない。
「今度、徳川様のところにご奉公することが決まったの。五兵衛は連れて来てもいい、って言われているけど、みなはどうじゃろか」
「うらもだめですか」
小夜が訊く。
「私は、端女みたいだからねえ。使用人まで連れて行くのは」
だめだろう。と、そこで須和は考える。
「松木様に相談してみる」
あの義弟には頼ってばかりだ。しかし、他に当てもない。
もし小夜たちをここに残していくのなら、支度金の半分を半兵衛に渡し、向こうで一生懸命働いて給金を貯め、ボロ屋でもいいから浜松の城下に家を借りて住んでもらおう、と須和は決めた。幸いなことに身体は丈夫で、御殿奉公は経験しているから嫌いではない。
その考えを加兵衛一家に話し、なんとか納得してもらった。
それから須和は、息子と自分の荷物をまとめ始めた。そのための帰宅で、半兵衛の屋敷で数日過ごしてから、また石和へ戻って迎えを待つのだ。半兵衛にも総本家から、そう話が通っていた。
翌日、銭を差し出して半兵衛に加兵衛一家のことを頼んだ須和は、五兵衛を梅にあずけて、供に小夜と加兵衛を連れ、さすがに市女笠は無いし、そんな身分でもないので、普通の笠を被り、面布をつけて外出した。
市へ行って、布袋に寄進用の米を少しばかりと苧の布を一反買って、円光院の方角に向かって歩き出した。
円光院は武田信玄の正室、御裏様が葬られている。そのそば近くに、淡路局が出家して庵を編んでいるのだ。
(お別れしてから、十一年経つだろうか)
これまで文一つ寄越さず、というか、生きていくのに必死で文も書けなかった。石和の飯田屋敷を出るとき、文使いを遣って、近く訪れることを報せてあった。
目的の草庵はすぐに分かった。淡路局の小間使いをしていた顔見知りの女がやはり出家して尼姿となり、庵の前に立っていたのだった。
「須和どの……ですか」
問われて、須和は駆け寄った。会ってすぐに互いが分かり、別れてからのことを泣き笑いながら話し、ひと段落ついてから、尼は須和たちを中へ招じ入れた。
加兵衛が持ってきた米と布を尼に渡し、須和が笠と面布を取り、小夜に渡す。
淡路局の待つ部屋には、須和だけが通された。
板の間の上座に、円座に座った尼御前がいた。部屋に入った須和は、その前で平伏した。
「須和、よう参った」
淡路局が穏やかに言った。
福々しかった御方が、ずいぶんとお痩せになられた。声にも張りがない。
十一年の歳月が流れたことを須和は改めて実感した。向こうも、老けたことだと思っていることだろう、と察した。
「お屋敷を退いてから、嫁にいったそうじゃな」
「はい」
と、須和は神尾孫左衛門との暮らしと死別したことを伝え、このたび、徳川家で屋敷奉公をするために甲府を出ることになり、ひと目会って挨拶をしたかったのだと伝えた。淡路局は御裏様のお屋敷の上役だったけれど、須和にとっては同時に師匠でもあった。
「今度は、徳川様にお仕えするか」
と、息を吐いた淡路局が鋭く次に言った。
「土地の言葉と京言葉が混じって、聞き苦しい。直さっしゃれ。話すなら、時と場合によって使い分けるようにな。それに、その立ち居振る舞い。徒士侍に連れ添うておったせいか、粗雑になったの。入って来るところから、やり直し」
「はいっ」
昔に戻ったように言葉遣いや振る舞いについて指導を受けた。
「徳川様といえば、今川家に付属しておった土豪の時代と違ごうて、今や三国を統べる大名と聞く。奥仕えになるなら、端女といえども、品ようせねばな。それから」
と、淡路局は脇に置いてあった文箱から紙の束を取り出した。
「年中行事を思い出せる限り書き出しておいた。公家のものじゃが、武家もそう変わりあるまい。何かの役に立つじゃろ」
前に置いたそれを、須和はにじり寄って受け取り、一礼した。
「御裏様は、ご夫君より先に儚のうなられましたが、武田が滅びるのを見ずに済んで、良かったのかもしれぬ。わたくしも早う向こうへ行って再びお仕えしたいものじゃ」
その悲しみを含んだ言葉に返答できず、須和は涙目になりながら顔を上げ、「そういえば」と御裏様と信玄公の仲睦まじい様子の思い出話をし、淡路局も亡き主の思い出を語って、二人して偲び、話が尽きた頃、須和はそこを辞去した。
お局様とはもうこれで会えんじゃろうなあ、と予感がした。その通りに、浜松で訃報を聞いたのは、この五か月後だった。
甲府の半兵衛一家にこれまでの礼を述べ、また加兵衛たちのことを頼み、須和は息子の五兵衛を連れて石和の飯田屋敷へ戻った。栄が五兵衛用に紺色の麻布をくれたので、それで小袖と袴を縫い上げた頃、四月十六日に徳川家から迎えがやってきた。阿部という奥に仕える初老の役人で、従者を二人連れていた。それに加えて、松木家の萩野と伊助が家人を五人伴っている。そして驚いたことに、甲府の半兵衛の許へ残して来た加兵衛一家が旅装束をして一緒にいる。
「どうしたことですか。何故、小夜たちが」
これを見た須和は、主人の昌在が阿部と挨拶を交わしている隙に萩野を物陰へ呼んで訊いた。
「あなたを『端女にする』なんて、誰が言ったんですか。須和様はお世継ぎのご生母様の侍女になるのですよ。徳川様から、親代わりの飯田半兵衛様へ、お酒を一荷持ってきて聞いたら、話が違って伝わっていることに驚きました。半兵衛様は、須和様から渡されたお金を返してきましたよ」
と、布袋に入った銭を萩野は須和へ手渡した。
「奉公人も一緒に住めるかは、行ってみないと分からないけど、駄目だったら、松木家の浜松での宿で引き取ります。だから安心してください」
須和は啞然とした。
どこかで行き違いがあったようだ。ともあれ、良かった。そう胸を撫でおろした須和だが、次の萩野の言葉でさらに驚く。
「申し遅れました。わたくし、松木五郎右衛門の姪ですの。五兵衛様とは義理の従妹になります。商家に嫁いだのですが、なかなか子に恵まれず、亭主はそれでもかまわないと言ってくれましたが、出戻って家業を手伝っております。このたび松木から、私と従者の伊助が須和様のお側につくことになりました。どうぞ、よろしくお願いいたします、主様」
と、悪戯っぽく萩野が微笑んだ。
どういうことだろう。義弟が何を考えているか、一度聞いてみないといかんなあ、と思いながら、須和は自分と五兵衛の支度を急いでした。
そして須和は飯田家の主夫妻にこれまでのお礼を言って、手甲・脚絆、笠に面布という旅装束をし、伊助が曳いて来た馬に乗った。五兵衛は別の馬に伊助と一緒だ。萩野は幼い幸を一緒に馬に乗せていた。他に、阿部老人と従者が馬に乗り、あとは徒歩。一行は笛吹川に沿って南に下った。
今年は温度差と乾燥でつらい冬です。体調は戻りましたが、週二更新はやっぱり無理そうなので、週一(なるべく木曜)を目標に頑張りたいと思います。




