「断章:寒気」著者:疋田纏
「じれったいわね……」
まだ育ちきっていない身体の少女は、追いかけてくる男との距離を伺いながら走っていた。彼女の要望に合わせて誂えられた小さな黒のスカートのフリルが、彼女のセミロングの髪が、身体に合わせて揺れる。
「これでも受けてくださいまし!」
パニエの内側に手をやった彼女は男にバトンのようなものを投擲した。目の前の角で曲がって全力で耳と目を手で覆い、口を開けた状態でなおも走った。直後、掌を通じてでも十分大きい音が聞こえてきた。男は角の中央近くまで来ていたのだろう、彼女の身体が衝撃波で軽く押し進められる。
「おっと、フリアの方から来るとは幸運だな」
押し進められた先にはまた別の追っ手がいたのだった。男は首を掴んで彼女の頭を目の前まで持ち上げた。
「不愉快極まり……ないわねッ!」
まだ動きが取れるうちに、と判断した彼女は、即座に自らの頬を噛んだ。
直後、周りの風景の動きが止まる。
彼女は腕の力を振り絞って拘束を解く。拘束を解いてすぐ、彼女は袖を捲った。薄手の生地の下には貴重な香木の一本でも保管してあるかのように、包帯で余すことなく巻かれた細腕があった。彼女はそのうちの一巻きから、切り傷の痕の残る素肌を晒した。
「――ッ」
彼女はホルスターに改造したガーターから身頃相応の小さなナイフを取り出し、傷痕を思いきり切りつけた。そしてその場から走り去った。
隠れ家に辿りついて呼吸を整えていると、血が止まったらしい。ソファーでくつろいでいたらしい体勢の男がこちらに目を向けた。
「お、帰ってきてたか、柊」
「ええ、どうにか撒いてきたわ、ジャジー」
彼は彼女の傷を消毒するべく、救急箱を持ってきた。包帯を外すと、夥しい数の白い痕にはいくつか血色が混じっているものもあった。
「しかしまぁ……傷も深めになってきたな」
彼は消毒液を浸した脱脂綿で傷痕を拭いつつ観察する。
「力も強くなってきてるもの。おまけに傷痕の上からだと少し筋張って切りづらいのよ?」
「やっぱり能力を使わないに限るだろうがね……。いや、君の場合は癖になってないか?」
「大丈夫だから。こらえてるもの……」
柊――という名前であることにしている彼女、フリアはある時、能力を持った。それは「故意に血を流すと時間が止まる」という能力だった。それは初めてどうしようもない感情から自傷に走ったとき、周りの物音がすっと消えたことで気がついた。家で親の愛情を受けられなかった彼女にとって、自分の身体は既にどうでもいいものになりかけていた。それから12歳の今に至るまで、家を抜け出し、同じように能力を持つ人間たちのコミュニティに入り、何を考えているか知れない上層部の意向に従って行動していた。