「少女は今も揺れている」著者:山岡 再起
ぷくぷくと透明な泡が視界を覆っていく。既に呼吸を忘れた私にとって、それは命より貴重なものだと知るが、既に水の泡?「面白い冗談だわ」と自省。沈降する私と湖中へ昇華する水泡。肺に辛うじて留めていた酸素も、悲しいかな、世界へとその姿を現す。必死に手元に残しておいたと言うのに、それはとても小さな一粒で、ゆらゆら境界を跨ぎ、暗い水面に溶けてゆく。冬の湖の中だというのに、寒さは全く感じない。いいえ、少し前までは本当に寒かった。寒くて、苦しくて、死んでしまいたいと願った。それが叶うのだわ?淡水を切り裂く私の身体。一糸も纏わぬ私の身体。どうせなら、あぁ一度でいいから素敵なドレスを着てみたかった。そうだわ。この前、町に出た時に見かけた真っ白なドレス。季節外れな薄絹の、フリルのたくさんついた素敵なドレス。私のお給金ではとても手が出せないけれど。あぁ、死ぬ前に一度でいいから。雪解けはまだ先。春が来るのはもっと後。夏の前にはお金もきっと貯まるはずね。そしたら。あのドレスを買いましょう。きっと素敵な夏になるはずだわ。夏になれば。華やぐ恋があって、ときめいて。素敵な殿方と歩く夏の夕暮れは、一生忘れられないはずなのだわ。でも、せっかくなら失恋もしてみたいわね。殿方には悪いけれども、乙女にはやらなくちゃいけないことがたくさんあるのだわ。あぁ、この夢が覚めたら…。明日はお洗濯をしなくっちゃ。
「ねぇ貴方、運命って信じる?」
そう問いかける少女の顔が醜く歪む。醜いというのは一種の比喩表現であった。事実、彼女は美しい。銀光、12月の月夜。青白い光に反射した真っ白な髪は、ゆらり弧を描く。その髪より尚白い絖肌、注す紅は紅く、瞳に萌える碧と対を成して、成程それは、宛ら芸術的である。それでも俺が彼女を醜く、そして恐ろしいと思ったのは、気の迷いではない。彼女をその目で、唯の一目でも見たのなら、誰もが口をそろえ言うだろう。
「それは正しく化け物である」と。
違和感だ。
少しの違和感があった。こちらを睨め付ける双の瞳の冷たさ、この寒空だと言うのに吐息が白く結晶しないこと。人間か?という当然の疑問は、常識を超えて尚語り掛けてくる。何より。そして何より恐怖させるのは、その容貌が、その美しい面が余りにも似ているのだ。
「怖がらなくてもいいじゃない?一度私を……しているのだから」
血の気が引く。
全身の毛が逆立つ。
死ぬのだ。
俺は今死ぬ。
だからこそ問おう。
「なぁ、あんた。どうして生きているんだ?」
まさか?と思う。しかし、それは愚問である。実に愚かだ。死人が生き返る訳はなし。他人の空似か、或いは。姉妹だろう。そう、彼女はよく似ている。あの女に。だからこそ、双子である事を切に祈る。祈りはすれど理解している。双子ではない。双子かと問うことが出来ぬ。少女は俺の心を見透かすかのように嗤う。
「分かっているでしょう?あの子は私…。私が…あの子なの。」
やはり俺は今日死ぬのだ。
死なねばならぬのなら、尚問おう。
「ならば、どうなるか分かっているな?」
「あなた次第ね」
そうだ俺次第だ。簡単な話なのだ。もう一度、唯もう一度だけ繰り返せば良いのだ。犯し続けてきた間違いを、倒錯したその習癖を。握り込んだ拳が震える。恐怖からではない。この両の手が間違いを犯したからだ。そしてもう一度。もう一度だけ間違いを犯すだろう。
「あんたにも沈んでもらうぜ。もう一度な」
今度は俺が嗤う番だ。笑わせてもらうおう。高らかに。犯してきた罪は、今や暗い湖の底だ。
一方的な蹂躙であった。男のか?それは違う。男はそれこそ手も足も出なかった。少女に掴みかかろうとした男は、瞬きもしない内に雪原に吹き飛ばされ、仰向けに倒れ込んでいた。よく目を凝らしていたとしても、何が起こったのか理解し得る者はいないだろう。それは厳密には何も起こってなどいないのだから。唯、少女の手に収まった血に赤く染まった両手斧が行使されたのは確かだった。少女は両手斧を重そうに引きずりながら男の元へと歩み寄る。少女がその斧を引き摺るのは、片手にピクニック用のバスケットを持っていたからだが、やはり誰も、それを何時手にしたのか知らぬだろう。あぁ、何と言うことだ。男は何も見えていなかった。見ようとしていなかった。十二月に入ったというのに少しも凍っていない湖を、ぐるりと囲む雪原の、そのまっさらな白に、唯の一つも少女の足跡が無いことを。氷点下をゆうに下回り、吐息すら結晶し、淡く散るというのに、薄いシルクのドレスを儚げに揺らしていることを。
両の手脚を切断された男は身動き一つできず、出来ることと言えば、ゆっくりと近づく少女が踏みしめる雪の、その微かな悲鳴を聴くことだけだった。男は暗い夜空を眺める。間もなく視界が霞み、彼の世界は永遠の暗黒に包まれるだろう。男は眺める夜空に輝く星星に一つ一つ名前をつける。何故かそれが正しいと思えたからだった。意味など無くとも、男は残る寿命を無為に終えたくは無かった。男は想像する。あの名前も知らぬ星から見れば、どくどくと流れる血液が、雪原を染める様はさぞ美しいことだろう。
「可愛そうに、死ぬのね?」
男にとって、それは永遠の時が過ぎたかのようだった。実際には数分も経っていなくとも、見える限りの星に名前を付けた男は、時間を持て余していたのだ。男がこうも安らかであるのは、切断された手脚が不思議なことに少しも痛まないからだったが、少女の声には小さくなった身体をびくりと震わせた。男の側に屈み込み、耳元で囁く少女の声は、りんと響き、鈴の様であったが、男の身体には正教会の大釣鐘の様に響いた。それは死神の声に似通う。そうでなくとも男はとうに諦めていた。生きることを、この場を生き延びることをではない。男が諦めたのは、死神に抵抗することではない。思考し、現実を理解することを諦めたのだった。男は微睡みにも近い、波間に揺れる椰子の葉の様な気分を味わっていた。男は椰子の木など見たことも無かったが、何故かそんな気がしたのだ。
「酷いことしやがる」
言葉を吐き捨ててみたものの、さして意味が無いことは顔を見なくてもわかる。
少女は男を寸断した斧を放り出し、何やらバスケットを弄っている。男は少女を眺めている内に不思議な事に気がついた。このだだっ広い雪原に、見える限りでは二人きりのハズだというのに、聴こえるのだ。うめき声が。苦悶し、助けを乞うような、音にならない悲鳴が。しかし男は、直ぐにその正体を知ることとなった。
少女がバスケットの中から重そうに取り出したソレこそ、音の正体であり、男にとっては何よりも馴染み深いものだった。少女はソレを男の頭の側に置く。すると丁度男はソレと向き合う事になるわけだが、男は正直、何が起こったのか理解できなかった。少女がバスケットから取り出した物は人間の頭部で、男と同じ碧い目を持ち、金の巻き毛までそっくりだったのだ。男と違うところといえば、その頭部は隻眼で、口を縫い付けられ、大変血相の良い顔で男を睨みつけていることだけだった。男は口走った事を後悔した。酷いこと?そんな言葉、この瞬間のためにとっておくべきであった。即ち、男には唯、絶句することしか出来ない。
「素敵な御顔だと、思わない?誰かさんそっくりで。ねぇ?」
「でもね?あなたのその瞳もとっても素敵。きっと、よく似合うと思うわ」
「だからね?」
「頂戴?」
衣擦れと、はらりはらりと落ちるシルクのヴェール、その音。大理石の磨かれた床に無造作に捨て置かれる。一枚、また一枚と捨て去り、その身体を無防備にさらけ出した少女は、四脚の浴槽へと、滑り込む。雪のような白肌は血が通わぬ様であったが、徐々に血色を取り戻し、仄かに紅く染まった頬は、見事、人形を思わせる。
少女が居るのは、浴槽の他に何も無い部屋であり、延々と続く床には脱ぎ捨てたられた過剰とも言えるフリルに彩られたドレスが、そこかしこに打ち捨てられている。見方によっては、それは散った花弁のようであり、事実、それは幼い、齢十三にも満たぬ少女を包んでいた一片の花であった。
少女は浴槽で一人溜息をつく。
「あの人、やっぱり私の名前を呼んでは下さらなかったわ」
今までの男は唯の一人も少女の名前を知らなかった。
少女は肩を落とす。
「ねぇ?その時が来たら…貴方は私の名前をちゃんと呼ぶのよ?」
少女は浴槽の淵に置かれた頭部に話しかける。この部屋の中、命ある者は、少女と男の頭部、二つだけである。
「返事も出来ないなんて、退屈な人ね」
そう零してから少女は気がつく。男には饒舌たる舌が未だ無かった。少女は首を小さく振る。自分自身を納得させるように。
「まだだめ。先に貴方によく似合う素敵な身体を探すわ」
少女は指先で浴槽の淵をなぞる。何度も、何度も。そうしてその度、少女は思い出す。誰も居ない黑い水の中に堕ちてゆく気分を。心臓を貫かれ、一瞬の内に絶命する瞬間を。細い首を締め上げられ、肺が酸素を求め悶える様を。繰り返し、繰り返し。少女は知っている。死に際に天使は現れないことを、祝福の讃美歌は聴こえないことを。
そんな少女に怒りの眼差しを、見開いたその両の目を向ける男の生首。彼をおいて他に、少女がかつて其れは其れは美しい黒髪であった事を誰一人知らぬ。彼女を柊と呼んでいた者は彼女を一人捨て置き、皆死に、そうして何一つ知らぬものだけが生き残ったのだから。
だから、せめて、君達だけは、彼女の名を覚えておいて欲しい。