ヒロ
《我の言葉が分かるか、マナビトたちよ》
目の前でスフィンクスのように座る雄大な狼から声が聴こえた。
渋い男性のものに変換されて頭に直接響いたそれは、威圧感を少し残しつつも柔らかい感情を伴う。
驚きや賞賛、安らぎ、好奇心など、一言では言い表せない複雑な気持ちが伝わってきたことで、心の距離が一瞬で縮まったような気がした。
僕はまた、声に【伝心】の効果を乗せて伝える。
テレパシーでは、会話が周りに聴こえないからね。
「うん、分かるよ。気分はどう? 頭が痛いとか、ぼーっとするとか、何か体に異常はない?」
《ない。力が有り余ってるくらいだ》
穏やかな表情で余裕そうに答える父狼に、タツヒトたちはハハハッと少し乾いた笑みをこぼす。
「そっか! なら良かった。念の為、もうしばらく【遣直】が効く状態は維持しておくよ」
一方、ヤスラギは満面の笑みで声高に茜先生を呼んだ。
「先生ー! 成功です! 会話も成立しています!」
「うん! よく出来ました。そのまま通訳もお願いできるかしら?」
「もちろんです!」
狼の近くまで歩み寄ると、先生は一礼して質問を投げかけた。
「不躾な質問でゴメンなさいね。貴方がたは、どうしてここに?」
僕は間に入り、一字一句違わずに復唱して最後に「……と、言っています」と付け加える。
《……話せば長くなる。こちらが誤解していたこともある。原因も一つ二つではない。それでもいいか?》
「えぇ、お願いするわ」
僕はこくりと頷き、狼からの説明を待った。
《では、話すとしよう。我らの誇りと、我が宿命を》
――我が物心着いた頃には、すでにこの森には多くの生き物たちが住んでいた。
その多くは弱者であり、我の餌に過ぎなかった。
だが、我が父に連れられて深い洞窟に潜ったとき、我は我の慢心を知ることになる。
姿の見えない力だけの存在。
魔力と呼ばれる力の奔流に触れ、飲み込まれたもの達は、同じ姿でも強さが別物だった。
我が父はそれらをいとも簡単に喰らい、さらに強さを増した。
我はそれが誇らしくもあり、同時に恐ろしくもあった。
気づけば我も、父のような強さを追い求め、仲間とともに森を駆けていた。
群れで強大な魔物を仕留めたことも、仲間同士で殺し合いになりかけたこともあった。
餌や寝床に困ることもなく、不満もない。
そんな状況がまたしても、我を慢心させた。
少し前、世界が揺れた。
それから、森に奇妙な魔物が現れるようになった。
奇妙なことに鉱石の匂いがしたため、餌にはならないと判断した。
我らを襲う気配はない。
我らの餌を横取りする気配もない。
老いた父はそれらを見逃し、放置した。
だが、我はそんな奴が気に入らず、まだ若い仲間たちと共に、力を示さんと攻撃したのだ。
若気の至り、などという言葉では到底許されない行いになるとも知らずに、な。
そして、我らは敗北した。
我以外の仲間は息絶え、群れの幼子や若き母たちも住処ごと潰され、燃やされた。
気高き父は生命の燃やし方を我に伝え、最後には奴を倒して見せたが、その後すぐに力尽きた。
我は絶望の匂いを知った。
二度と奴に手出ししないことを誓った。
生き残った僅かな同族とともに、我らは今の住処に移ったのだ。
貴殿たちが来るまでに、我が愛は二度、身篭った。
一度目の子たちは立派に巣立った。
二度目の子たちはまだ親離れには少し早い。
此度が三度目になるが、まだまだ同族は少ない。
我の宿命は、我が父の率いた群れを越す群れをつくること。
我が奪った同族の分まで、次代に生命を繋ぐこと。
何者だろうと邪魔すれば、我が四肢と爪牙で喰い破る。
そう誓った矢先、奴が再び現れたのだ。
姿形は違えど、同じ絶望の匂いは変わらない。
我はようやく、老いた父の正しさが分かった。
生きることこそが勝利である。
生きるためなら、目先の争いの敗北など取るに足らないものである。
我は迷いなく、住処を捨てた。
たったそれだけで、戦わずして勝利を収められるのだから、憂いなどは一辺もない。
ただ、次の住処は限られていた。
巣立った我が子たちの縄張りに入るワケにはいかない。
我は、幼き日に潜ったあの洞窟を思い出し、山を降りた。
貴殿たちが住処としていることを知りながら、奪ってやろうと降りたのだ。
我が子たちの報告では、力の差は歴然。
そう思っていたのだが……、いやはや、やはり世界は広い。
我らにとって、死こそが敗北。
だが、貴殿はどうやら死を克服しているらしい。
元より生命を持たぬ骨と皮だけの魔物のように、何度も蘇る者を倒せはしない。
敗北を知らぬ者たちに勝利することなど、出来ようはずもない。
ならば、どうするか。
《――我らが軍門に下るか、貴殿らを同胞として迎えいれる。そのいずれかが最善であろう。
もっとも、襲おうとしたのは事実なのだから、調子のいい話ではあるのだがな。
もし、軍門に下らせたくば力を見せよ。そうでないなら、ここをそのまま住処として提供してほしい。如何かな?》
父狼は大胆不敵に笑った気がした。
僕は、無言のまま先生の方を見る。
「……そうね。この場所を預かる責任者として、侵入者を野放しにするわけにはいかないわ。
一つだけ条件を提示する。もしこれが嫌なら、力でも何でも示してちょうだい」
重苦しい空気の中、僕は通訳としての役目を果たす。
《よかろう。して、その条件とは?》
「貴方たちの呼称、つまり名前を決めさせて欲しいの。こちらからは、それ以上は要求しないわ」
狼たちに名前を付ける。
そう聞いてフジマサたちがピクリと反応し、なにやらザワザワと相談し始めた。
なんの話をしてるのかなと思いつつ、僕は父狼に伝える。
《なるほど。個としての名を授ける、か。変わった風習だが、面白い。条件を飲もう》
父狼が承諾したとき。
「うっひょぉおおー!」
「これは来るか、来ちゃうのか!?」
「まぁ待て、落ち着け。あくまでアレはフィクションなんだから、あまり期待しない方がショックは小さい!」
三人が奇妙な盛り上がりを見せたのだった。
……マジで、なにごと? まぁいいか。
「じゃあ、とりあえずお父さん狼が“ヒロ”で、お母さん狼が“ミワ”か“アキ”の好きな方ね」
僕はさっきからずっと考えていた名前をそのまま口にした。




