鈴木康良義9
これは時間にして約20秒の出来事だ。
巨大な狼が目の前で涎らしき液体を撒き散らしながら、吠える。
グルルルルル……ガァォッ!!
僕は咄嗟に自分の体に魔法の保険をかけた。
「や、【遣直】……!」
そう言うが早いか、右の大狼が僕に飛び掛る。
狙いは右腕。咄嗟に左へと転ぶように回避する。
大狼が横を通り過ぎることで、車が高速で通ったときのような風が僕の顔に吹き付ける。
「うっ……!」
呻き声とともに、ドッと嫌な汗が吹き出た。
本能的な死の恐怖は消えたりはしないのだと、嫌という程理解らされたのだ。
ガウッ!!!
右側から襲いかかった狼に意識が向けば、当然、左側は死角となる。
狙いは左腕。体勢を崩している僕には、咄嗟に腕を引っこめることしか、もうできることはない。
目を瞑ったのと、痛みを感じたのは、ほぼ同時だった。
「ぐっ……がぁぁあああああああ、アァッ!!!」
骨と肉に響くメキメキという不快な音は、ヤスラギの耳には届かない。
何も聴こえないくらい絶叫し、渾身の力を込めて狼の脳天に左膝と右肘を打ちつけ、無理やり牙から弾き剥がす。
ズキズキと蝕む痛みと痺れ、目眩がするほどの血が抜ける脱力感と嫌悪感。
それらが一斉に脳へと伝わって、額には脂汗が吹き出した。
よろよろと起き上がり、左肩を強く圧迫して左腕に流れ込む血を止めながら、ヤスラギは歯を食いしばって叫ぶ。
「【遣直】、解放……!」
先ほどの保険。脳以外にかけた魔法のベールによって、地面や牙から血を吸い上げて身体の時間は一瞬で巻き戻る。
しかし、奇妙なことに良い意味で元には戻らなかった。
「……魔力がある!?」
先ほど身体に【遣直】をかけたとき、間違いなくほとんどの魔力を使い切っていた。
なので、その状態まで身体が戻ったのであれば、魔力は枯渇したままのはずなのだ。
だが、ヤスラギの体には平常のときの魔力が満ちていた。
その原因に心当たりは……ある。
増えた魔力の代わりに失ったものを己の感覚が示しているため、推測は容易だった。
それは長時間正座したあとの脚のような。
あるいは貧血気味のときの脱力感が。
それらの信号がヤスラギの体からいくらかの血が消えたことを告げていた。
興味深い現象だが、今のヤスラギには残念ながらそれ以上のことを考える暇は無い。
復活した魔力をどう使うかによって、窮地に立つヤスラギの状況は大きく変わろうとしていた。
「【遣直】、【伝心】」
ヤスラギの身体に再びの青。
そして口元に、仄かな桜色の光が灯る。
(止まれ! 攻撃しても無駄だ!)
二頭の狼を前に、今のヤスラギは少しも怯んではいない。
それもそのはず。つい先ほど死から復活したばかりの彼に、死の恐怖はない。あるのは痛みに対する恐怖だけ。
だが、先ほどの攻防でそれにも慣れた。
魔法の力で、言葉は通じている。
狼たちは意外にも表情豊かに驚いた顔をしてみせた。
彼女たちからすれば、目の前にいる下等な生物だと思っていた相手が、アンデッドのように肉体を再生し、自分たちと同族の言葉を発したようなもの。
当然といえば当然なのだが、結果的にそれはヤスラギが親しみを覚えるには十分な変化だった。
(分かってくれたようで嬉しいよ。なんで、君たちはこんなところに来たんだい?)
この問いかけに、右から攻めてきた方の狼が鼻先をもう一頭のほうにクイッとやって答えた。
ヤスラギはまるで診察するように、その狼の全身をじっくりと観察する。
もう一頭に比べると、どことなく丸みを帯びた体格。
雨に濡れて艶やかな黒の強い灰色の毛並み。
鋭い犬歯。鋭い狼爪。
怯えを感じさせる下方向に丸まりかけた尻尾。
虚勢を微かに感じる威圧感のある瞳。
至る所を目で追いつつ、最後に目に付いたその答え。
長い毛で隠れて分かりにくいが、その腹部は大きく膨らんでいた。
「まさか……」
僕がそう呟いたとき。
ズドンッ!!!!!
狼たちの背後から、一際大きく聴こえる銃声が。
「ヤスラギッ! 逃げろッ!!!」
「こっちだ、狼ども!!」
聴こえるのとほぼ同時に。
凶弾が母狼の腹部を貫通し、崩れ落ちた身体の下には真っ赤な水溜まりが広がった。




