第四十六話 恋香的血路
「ねえ、冥炎様。」
地底に入り、それぞれ神派で分かれしばらく歩いた先で主神である冥炎と二人っきりになったところで愛爛がぽつりと呟いた。御使の鷲の炉太は今は偵察として少し先を飛んで行ってもらっている。
「なあに?どうしたの、愛爛」
「翠河…本当に無事なんでしょうか」
穏やかな冥炎の声とは対象に、愛爛の声は硬いものだった。
紀清が綿密な計画を立てて提案した、全員で地底に乗り込み捜索し意地でも翠河を取り返すという下手すれば戦争を仕掛けることにもなりかねない計画を聞いて考える間も無く頷いた愛爛だったが、その実心の中は不安でいっぱいだった。いや、むしろ翠河がいなくなった時から常に心のどこかがずっと薄暗く曇っている。
「…貴方らしくないわね。いつだって彼の無事を一番信じていたのは貴方だったでしょう?」
「そうだけど…十年ですよ。十年、翠河や夢妖に関する噂が一つもないなんて…」
「地底にずっといたのなら噂が立たなくても仕方ないわ。あそこは全貌は掴めないほど広いもの。逢財様でさえ地底がどれだけ長く続いているかご存じないのよ。噂が流れてこないのも仕方ないわ」
「…そう、ですかね」
(…十年も経っちゃったんだよ翠河…)
十年。それは愛爛たち同期が翠河と過ごした時間よりも遥かに長い年月だった。たった数年共に切磋琢磨した仲間のことなんて、記憶を取り戻したとしてもすっかりこの長い年月の間に忘れてしまったのではないか。自分らしくない思考だとは分かっているが、愛爛は昔のように無条件に彼の無事を信じ続けることができなくなっていた。
きっと翠河を取り戻せる、彼は絶対に無事だ。もしかしたら勝手に記憶を取り戻して夢妖なんて倒して帰ってくるかも。そんなことを信じていられたのは初めの三年までだった。五年も経つ頃にはもう同期の間でも翠河が無事だという確信を持つことができなくなっていた。七年も経てば話題に出すことも辛くなり皆口をつぐんだ。
いつも些細なことで喧嘩しては翠河に宥められていた私や阿泥はあれから滅多に喧嘩をしなくなった。止めてくれる翠河がいなくなったからか、吽泥の敵への突撃癖もなくなった。霞ノ浦は常に憂いを帯びた目をするようになった。自分自身もあまり自覚はなかったが、最近元気がないと言われてしまう。みんななんだかんだ一番年下のはずの翠河に甘えていたのだ。ずっと永遠に変わりなくあんな楽しい生活が続くと思い込んでいた。
しかし、紀清が諦めずに探し続けるその姿を見て私たち同期が立ち上がらなくてどうするんだと今回わざわざこうして暗くて冷たい地底にやってきたのだ。
「紀清サンだけじゃなくて、私たちだって必死に探したのに全然見つからないなんて…」
「…そうね。でも、きっと大丈夫よ。私の言葉なんて慰めにもならないかもしれないけれど、貴方たちは決して自分の意思で仲違いをしたわけじゃないのだから。翠河に記憶さえ戻ればすぐ昔と同じように共に歩むこともできるでしょうし、万が一戻らなくても記憶を変えられているだけで根っこは変わっていないはずだからその時はいっそのこと一から友達になるのも手の内なんじゃあないの?二回目のはじめましてなんてなんかロマンチックじゃない?」
「…っふふ。そうですね!記憶を忘れたのなら、また最初から思い出を作っていけばいいんですもんね。」
茶化すように言った冥炎の発言に、愛爛がくすり、と笑顔を浮かべた。冥炎に励まされたことで元来前向きな性分だった愛爛はすぐに気を取り直した。頬を両手で叩いて気合いを入れ直す。冥炎がおかしそうに何かを思い出してくすくすと笑う。
「そうよ。神の一生は長いんだから。私なんて何百年もかけた兄弟喧嘩に巻き込まれたこともあるけど、そんな彼らだって今じゃすっかり仲直りしてるわ。たとえ今回取り戻せなくても、何百年かかってもいいから諦め続けなければきっと機会は来るのよ。」
「ええっ、そんなことがあったんですか!?何百年って…その神様たち、すごいですね。そんなに経っていたのにまた仲良くなれるなんて。」
なんでもないように言われた言葉に愛爛が驚き尋ねると、冥炎は余計に笑みを浮かべて「これは紀清と王林の話よ」と言った。
それに愛爛は(えっ!あんなに王林サンとか紀清サンよくお茶しててとても仲良さそうなのに数百年も喧嘩していたの…!?というか兄弟だったの!?どっちが弟なんだろう…)と衝撃的な事実に驚き目を見開いた。紀清も王林もどちらも兄弟として接している姿なんて想像ができない…
「まあ実際に兄弟だったわけではないけれどね。彼らは兄弟のように仲が良かったわ、本当に。」
「じゃあ、なんで冥炎様はそれに巻き込まれたんですか?」
「あら知らなかった?私、彼らと同期なのよ。貴方たちと同じようにね」
それにまた愛爛は驚いて「ええええっ」と叫び声を上げた。全くそんな接点があるとは思わなかった。先ほどからずっと初耳のことに驚きっぱなしだ。
「えっじゃあ五神のうちの三柱が同期ってことですよね!?逢財様は大昔からいらっしゃるって聞いたことあるけど…まさか凡陸さんは同期じゃないですよね?」
「違うわねえ。感覚としては少し上の先輩みたいな感じかしら。私たちから数えて五百年ほど前の神よ。昔ただの弟子の一人だった敵は同じ武神として憧れていたのよねえ。あんな風になりたい!ってね」
冥炎は昔を思い出し、懐かしむように目を細めて笑った。
その時、冥炎の周りをふわりと淡い花のような香りが漂った気がして愛爛は目を瞬かせた。
(…ほんの少しだけど甘い匂いがする。これって…)
その後すぐに愛爛は気づいてはいけないことに気が付いたかのようにハッと口に手を当てた。
愛爛は恋の女神であり、霞ノ浦が“種子からすべての植物を育てることができる“という特性を持っているように愛爛の個人としての特性は“人の恋心がわかる”というものだった。そしてそれは誰にも言っていないが神にも通用する。霞ノ浦の恋心を誰よりも早く察知することができたのはこういう特性があったからだ。
具体的には、恋をしている者が相手を想っている時周りには花のような甘い香りが漂うのだ。もちろんそれを知覚できるのは愛爛だけであり、この判別方法は愛爛以外誰も知らない。
そして今なんと冥炎の周りに淡かったものの確実に甘い花の香りが漂ったのを愛爛はしっかりと確認したのだ。
(これは…気づかないことにしといた方が良さそうだね。うん)
この事実を胸にそっとしまうことにし、愛爛は話題を逸らすことにした。
確かに恋バナは大好きだが、大人の恋愛は複雑なのだ。おせっかいなことをして下手に踏み込んでかき回すよりも、自分は空気となり壁となり恋愛模様をこっそり後ろから見て楽しむ方が性に合っている。これは愛爛なりの不干渉の証でもあった。それに尊敬する主神にいつのまにか訪れていた春を一番弟子が応援しないわけがなかった。
「…もうっ、翠河は早く霞ノ浦を迎えにきてあげないといけないのに何をやってるんだろう。女の子を悲しませるのはダメなんだからね…!」
「うふふ、そうね。確かにそれはいけないわ。」
うふふ、あははと師弟が楽しく会話をしてそこはまるで平和にお茶でもしながら世間話をしているような雰囲気が漂っていた。しかし知っての通りここは地底。もちろん妖はこの会話中にも遠慮なく襲ってきていたし、今も足元にうじゃうじゃ小物の妖は警戒したように二人の方を向いて攻撃の意を示している。
しかしそれら全て会話中に二人が片手間で手を振り払うだけで全て炭と化していた。今もまた一つ可哀想な妖が火に包まれた塊として地面に叩きつけられる。そんなことを繰り返した道はまるで赤い絨毯でも引いたかのように凄惨な光景になっていた。
『オウイ、二時先ノ方向ニ休メソウナ岩陰ガ…ッテ、ウワッナンダコレ。血ノ海ジャナイカ…』
それから暫くして、先には何もなかったということを報告しに御使の炉太が翼を翻して戻ってきたところ、ドン引きした様子で二人の歩んできた道を見た。笑顔で会話しながら次々と妖を切り倒して行く姿は天晴れとしか言いようがない。
『ホント、愛爛サマは冥炎サマにダンダン似テキテイル気ガスルナ…』
段々主神のように強かに育って行っている一番弟子の姿を見て、炉太はそっと両の翼で頭を抱えた。




