第四十四話 未然的風聞
「どうも、失礼しますよ。おや珍しい、貴方の主人は……」
まるで我が家に帰ってきたかのような自然な動作で紀清の私室である江室の扉を開けた王林は、いつものようにやや嫌そうな顔をしながらも出迎えてくれる紀清の姿がないことに驚き部屋を一周見渡した。するとベッドの上にこんもりと山ができていることに気がつき目を瞬かせる。
昔からなにかと隙を見せない紀清にしては珍しくぐっすりと寝入っているようだった。
氷雪丸がトテトテと寝床から王林の手前までやってくる。
「…まあ見ての通り寝不足だったようで、朝起こしても起きなかったのでそのままにしてます」
「そうでしたか…ここまでぐっすりと寝入っていると夢すらも見なさそうですね」
(それにしてもこんなに至近距離で話し声が聞こえるはずなのに起きないとは…本当に珍しい)
いつもきっちりとまとめられている長い髪は頭上で布団の上に投げ出されておりまるで扇のように広がっている。普段眉間に寄った皺も寝ているからかすっかり解れているようで、その姿はどこかいつもより幼い印象を抱かせた。
「寝不足とは…いったい何をやっていたんでしょうねえ。水泉派への願いは多少木谷派が引き受けているのでそこまで無理な量は行っていないはずですが…」
「エッ…うそでしょそんなことしてたんですか?確かになんだかいつもより少ない気がすると思ってたら貴方…」
「なんです、いいじゃないですか。傷心中の兄弟に無理をさせるわけには行かないでしょう?」
そう言ってうっそりと笑みを浮かべた王林は口元に広げていた扇を閉じて顎に当てた。
氷雪丸はそんな姿を見て(紀清の前では絶対兄弟とか言わないくせに他人の前ではあっさり言うんですね…そういうとこですよほんと。『紀清』だった時の僕はどちらかというと友人関係に近かったので兄弟なんて呼ばれている紀清の姿をこうして他人視点から見るのはなんだか新鮮な気分ですね…)なんて思い小さく息を吐いた。紀清と王林の距離は無事縮まり、今ではこうして王林が心配で二日に一回覗きに来るほどまで心を砕いているものの、それはきっと一切紀清には通じていないだろう。そして王林もそれでいいと思っているのだ。なんとも言えないすれ違いのような…逆にそれだからこそ保てている均衡のようなものをそこに感じた氷雪丸は下手に口を挟むこともできず微妙な表情を浮かべた。
「貴方たちって本当になんというか…面倒くさい」
「…本当に遠慮がないですよね貴方。いいんですよ私はこれで。紀清殿は私の目を見て会話をしてくれる。さらにお茶に茶菓子まで用意してくれる。数十年前からは考えられなかった進歩です。それもこれも翠河が来たからなんですかねえ…彼が来たあたりから随分と紀清殿は優しくなられた。今までも自分の神派の者には優しかったようですが、あいにく私はそれを向けられる機会がなかったモノでして」
「…自業自得でしょう」
「ははっ、それを言われてはどうしようもない。それにしても紀清殿…私の目の前で寝ている姿など久々に見ました。大昔に何度か冥炎殿と三人で雑魚寝をしたりしたことはありますが…やはり寝顔は雰囲気が幼くなりますよね。普段怖い顔をしている分余計になのかもしれませんが」
そうして本当に起きないことを確かめるかのように何度か紀清の頬を突いたり眉間の皺があるところを指でなぞったりしながら弄ぶ王林の姿に(今起きたら絶対パニックになるだろうな…)と思い氷雪丸はそっと冷や汗をかいた。
「本当に起きませんね。この人はどれだけ寝ていないんですか」
「ざっと五日ですね」
「五日!それは我々神でもそれなりに堪える日数では…?極限状態でもない限り自ら睡眠を怠りたいとは思いませんね…」
この時王林は水泉派の弟子達と同じように、きっと彼は仕事に没頭していなければ辛い感情に苛まれてしまうからそうしといるのだろうなといった想像をしたし、同時に夢をみるのがトラウマになってしまっているのではないかなんてことも考えた。なんせ夢の中で弟子を攫われたわけなのだから、それに関連する眠るという行為自体に忌避感が生まれても仕方がないのではないか。
…しかしそんなことはただの想像だ。目の前で素知らぬ顔をする氷雪丸に聞いても本当のところの理由は答えてくれないだろう。
王林は目を細め、労るようにそっと布団の上を撫でた。
「…紀清兄…。どうか無理をしないで。僕は貴方が今にも消えてしまうんじゃないかと心配なんだ」
昔の口調のまま小さく口の中で呟いた言葉は、音になる前に部屋の空気に溶けて消えた。
(ほんと、絶対弟子達よりこっちの方がすごい誤解してるんですって…気づいてくださいよ)
そんな姿を遠目から見ていた氷雪丸は遠い目をして深い眠りに落ちている紀清に心の中で訴えた。弟子達なんて可愛いものじゃないか…一番厄介なのはこういう行動力のある立場の近いやつなんだ。
しかし、平気そうに振る舞ってるからと言って氷雪丸は決して本当の紀清の心のうちを完全に理解しているわけではない。そう考えると、こうして心を砕いてくれている存在が周りにたくさんいるのはきっと幸運なことなのだろう。もし本当に彼が無理をしているだけだった場合はその周りの存在が力になってくれることだろうから。
(僕が紀清だった時は全く心休まる暇とかなかったですし、真に心を許してたのなんてまさに王林くらいなモノでしたからねえ…寂しい神生を送ってしまいましたよ全く。)
そしてこうして猫になってしまった今でさえも紀清以外に友人として会話できる存在は王林なのだ。(そもそも人間の言葉が喋れると彼以外に知られていないので当然なのだが)もしかして自分は王林と世界を跨ぐ腐れ縁でも繋がっているのだろうか。悪くはないが、決して“紀清である”という前提を失った以上前世ほど親密になることはないのだろうと思うと少し寂しい思いがあるのも事実なのだった。
「…それで、今日はどうするんです。主神は寝てますよ、することもないでしょう。僕はご覧の通りただの四足歩行の獣ゆえお茶も茶菓子も出してやれません。そろそろ自邸に帰ってはいかがです」
「何か早く追い出したいような圧を感じますが…まあそうですね、そうしましょう。流石に無理に叩き起すわけにもいきませんし。
…おや、この冊子は一体」
「あっ!ちょっと見ないでください!」
王林が帰ろうと身を翻したところで、なんと運の悪いことに紀清と氷雪丸がこの五日間かけて書いた闇堕ち翠河の傾向と対策ノートが見つかってしまったのだ。慌てて氷雪丸は自身が上に覆い被さることでその視線から冊子を隠す。
しかし時はもう遅く、王林の興味の対象は完全にそちらに移ったようだった。
目を爛々と輝かせて「それはなんです。なぜ隠すんですか。ちょっと見せてくださいよ」とぐいぐい迫ってくる。氷雪丸は必死に抱き抱えるようにしてそれを見せないようにしていた。
(ちょっとなんでこんな目に入るとこに放置してたんですかーー!もし弟子とかに見つかったらまたなんか変な誤解されるかもしくは変な人だと思われるでしょー!!)
だって内容はこれから先翠河をどう助けるか、翠河がどういう行動を取ってくるかのパターンを大量に予測してまとめただけのノートなのだ。そんなの弟子を必死に取り戻す方法を考える師匠の御涙頂戴話として噂されるに決まっている!娯楽の少ない神々は噂話が大好きなのだ。
「こ、これは主人の了解がないと見せられませんーー!貴方だって極秘の書類とかあるでしょ!見せないでしょうそういうの!それと同じです」
「む…そう言われると何も言えませんね…では紀清殿が起きている時に訪ねて見せてもらいましょう。それなら文句はないですね」
「文句はないですけど…」
(流石にこの人も考えなしに見せたりしないですよね…?頼む王林に対する警戒心よ残っていてくれ…!)
氷雪丸が紙束を腹に敷いたまま必死の形相で王林を追い出すと、王林は渋々と言った様子で部屋を出て行った。…ふう、危なかった。
(ちょっと、僕は貴方の変な勘違いが巻き起こるのを防ぎましたよ。感謝してくださいよ!)
すやすや寝息を立てる紀清の顔を睨みながら氷雪丸はその冊子を他の本とともに本棚に並べてカモフラージュするためにぐいぐいと隙間に押し込む。
(これでいいでしょう)
猫の体ではこんなことでさえなかなかな重労働だ。ふう、と息を吐いた氷雪丸はこれだけうるさくしても一切目を覚ますことのなかった紀清の頭上に飛び乗り枕元でくるりと一回転するとそのまま丸くなって目を閉じた。
(まあ今くらいはゆっくり眠っててくださいよ。どうせ物事が動き始めたらそんな暇もなくなるんですから。)




