第四十二話 継続的雨空
まるで魂が抜けてしまったようだ。
時雨は机に向かう師匠の背中を見つめながらそう思った。
(翠ちゃんの件以来、紀清様は随分と落ち込んでいらっしゃる…)
時雨自身、集会に呼ばれ事の顛末を聞いた時はそれは驚いたしショックだった。まさか翠河がそんなことに巻き込まれているなんて何一つ知らなかったし、紀清様の世話役として親睦を深めていた身としては大事な友人がそんな目にあっているなんて知ってとても冷静ではいられなかった。しかも敵に連れ去られてしまったと言うのだからつい師匠に“私が捜索しに行きます”なんて言ってしまいそうになったが、それ以上に何かを考えている様子でずっと上の空な師匠の姿を見てすぐにその口を閉じた。そうだ、師匠が一番探しに行きたいに決まっているのに。
事件の翌日開かれた五神が集まりその一番弟子達も集結した報告会。しかしそこに、いつも紀清の隣でにこにこと微笑んでいる水泉派の一番弟子の姿だけが存在しなかった。代わりにと呼ばれた時雨だったがなんだか自分がここにいるのは場違いなように感じ、翠河と違って一番弟子でもなんでもない自分が何か口を挟むわけにはいかないといつもより数段重い空気の会合を終始無言で過ごした。同じく一番弟子が今存在していない王林様も代わりにと黒い女性を連れてきていたが、すぐに姿を消してしまったためその女性が一体誰なのかは分からなかった。
集会については時雨が予想したより随分と短く済んだ。夢渡りの中で何が起こったかについては他の弟子達が口を挟む間も無く紀清が全て淀みなく話し、翠河の話になってもまるで他人事かのような口ぶりで語っていたためその様子はまるで何事もなかったかのように見えた。そんな普段通りの様子に幾人かが安堵した様子を見せる中、王林だけがなんとも言えない目線で紀清を扇の隙間から眺め見ており、時雨はその様子をしかとその目で確認していた。
(今思えば、王林様のあの視線は何もかもを見抜いた上でのものだったのかな…)
あれ以来師匠は数日間は普段通り、ともすればいつも以上に仕事に精を出し、一週間分はあっただろう仕事の選分けを一瞬で片付けてしまった。きっと、何かに熱中していなければならないほどの精神状態であったのだろうと時雨は推測してため息を吐いた。
無心で書類に向き合う背中に声をかける。
「紀清様、この妖退治の依頼はどこの神に任せれば良いのでしょうか。他のはなんとかなったんですけど、これだけ分からなくて…」
「…ああ。それは…とりあえず一旦翠河に預け……………あ」
紀清はぼうっとしたままうっかりその名を口に出し、すぐに自分の失言に気がついて“しまった“とでも言うように表情を固めた。眉間に皺を寄せながら咳払いをして仕切り直す。もちろんそんなことをしても先程の発言がなくなるわけではないのだが、紀清はしっかりと自分がやらかしたことを理解していた。
「…その妖は寒さに弱い。北の神にまかせるといい」
「…わかりました。手間をかけてすみません」
そんな紀清の姿を案の定重い方向で捉えてしまった時雨は、今にもその大きな瞳から零れてしまいそうなほどに目に涙を溜めた。しかしなんとかギリギリのところで堪えてそのまま部屋を出る。紀清は先程うっかり口を滑らしたことで勝手に気まずくなり目を合わせないようにしていたためそんな時雨の表情を見ることはなく、それは時雨にとっては幸いだった。
(紀清様、やはりお辛いんだ…)
時雨は扉の向こうで書類を胸に抱きしめ、ぐすんと鼻を鳴らした。
紀清は自分の知らないところで随分な勘違いが起こっていることはなんとなく察していたが、それで下手に弁明すると余計にひどいことになるだろうと言う氷雪丸からのありがたい助言のおかげで変に手を出すこともできず、ただ一人残った部屋で額を抑えて呻いていたのだがその姿は誰も知らない。
(霞ちゃんも辛そうだったけど…私にかけてあげられる言葉なんて、本当になんにもないんだなあ)
時雨は長い廊下を歩きながら自身のあまりの無力さにため息を吐いた。霞ノ浦は翠河にきっと好意を抱いているのだと、時雨は本人が自覚する前からずっと理解していた。仮にも死後担当とはいえ結婚の神なのでそこらへんの感情には決して疎いわけじゃないのだ。(いつかぜひ火峰派の恋神ちゃんとはお話をしたいと思っている。)
そんな意中の相手が洗脳され連れ去られ自分のことも忘れられたなんてことになればそれは傷つくに決まっている。しかしやはり彼女は儚げな見た目に反して随分と強かった。すぐに自分の中で何が踏ん切りがついたのか、今では師匠の自室にて自分以上に傷心した様子の師匠の世話を焼く姿がよく見られるようになっている。つまり今まで翠河が一人でやっていたことを時雨と一緒にするようになったと言うわけだ。
この時紀清としては正直見た目だけとはいえ年頃の女の子二人に野郎の世話をさせるの大変申し訳ないと言う気持ちでいっぱいだったわけだが、しかし残念なことにそんな切実な想いがこの二人に伝わることはなかった。
紀清とて二人が自分のことを心配してこうしてくれていることは分かっていたため、善意を無碍にするわけにもいかなかったのだ。
時雨は自分が出てきた部屋を振り向き、眉を下げる。
(紀清様は、今日もお食事はお取りにならないのかな…)
師匠はあれ以降食事を自ら望まなくなった。もちろん、厨房担当の女神達が作ったものを差し出せば残してはもったいないからと食べてはくれるものの、そのままでは無理をさせてしまっているようで申し訳なくなってしまい結局望まない限りは出さないようになった。
と言うか、紀清は翠河が飯を作ってくれるようになるまでは何一つ食事は取っていなかったわけだし、そもそも食文化が水泉派に根付いたのは翠河が来てからなのだ。食べなくても全く支障はなかった。もっとも、この時弟子達に予測されていたような「食事を取る気力もない」「翠河を思い出す行為をしたくない」と言った薄暗い憶測とは裏腹に、本当のところはただ単に「翠河の作った食事以外が味気なく感じる」なんて言うだけの単純な理由なのだが。
一応他の弟子達には事情は掻い摘んで説明されてあり、翠河が闇に堕とされて地底に連れ去られたと言うことは天上界の全員が把握している。水泉派はその静かな空気に対して賑やかな神が多かったものだが、今やその活気もすっかり失せてしまっていた。しんと静まり返った屋敷の様子に、時雨は昔自分が叶えた死者と生者の婚礼を思い出していた。あの時は婚礼なのにまるで葬式のような冷たく凍った空気が流れていた。その時の空気に少し似ている、と時雨は窓の外を眺めた。天気はここ連日ずっと雨だ。
(みんな、本当に翠ちゃんのことが大好きだったんだよ)
紀清の口から語られた「もう二度と戻ってこないかもしれない」「戦うことになる可能性が高い」と言うセリフを聞いた瞬間の皆の動揺は凄まじかった。しかし一番辛いはずの紀清様が仕事を放棄するでもなくただ機を見計らって動き続けるその姿を見た弟子達は、皆落ち込んでばかりじゃいられないとそれぞれ自身に喝を入れて一層修行に励んでいた。
そんな水泉派の様子を見て、他の派の神々は口々に「きっと水泉派はもう二度と一番弟子を取らないだろう」「いいやどうだ、元々霞ノ浦は一番弟子になれる可能性があったと言うじゃないか。次の一番弟子は彼女なのでは?」などと勝手な噂を吹聴するようになっていた。もちろん時雨は霞ノ浦にそんな気がないのを知っていたし、師匠も決して翠河の居場所を奪うような真似はしないと確信していた。
(勝手なこと言っちゃって…!それにしても、紀清様が無理をしすぎていつか倒れないか心配だなあ…)
時雨は夜中にもずっとついている部屋の明かりを思い出し溜め息を吐くと、いつしか授かった青色の御守りをそっと服の上から抱きしめた。




