第三十八話 演技的乃父
「……………誰?」
(嘘だろう、本当に全部忘れてしまったのか…!?)
伸ばした手の行き場をなくした紀清ははくはくと口を開閉させやがて翠河から何の反応もないことを悟ると諦めたように手を降ろした。妖気の圧力に耐えながらもぐうぅ…!と唸るように喉の奥を鳴らし歯を噛み締める。
誰もが呆然として動けない中、夢妖だけが颯爽と翠河の近くに歩み寄った。
「翠、目が覚めたかい?」
やけに親しげに翠河に語りかける夢妖のその様子を見ながら、その場を動くことができない紀清はその横顔に睨みを効かせた。
しかしそんな緊迫した空気の中、衝撃的な発言が翠河の口から放たれる。
「…父さん」
(((((父さん!?)))))
それまで地面で伏していた弟子達も、夢妖の言動に神経を尖らせていた紀清も不意打ちの発言から意図せず心が一つになり全員が驚きに目を見開いた。
(父さんって何だよ!?翠河の父親なんて原作には一ミリも登場しなかっただろ!?
氷雪丸だって原作で翠河の人間時代の過去の話は一切書いていないって言ってたのに…!)
この世界ではなぜ突然そんなことに。しかし紀清は同時に頭の隅で“よくできた話だ”とも思った。主人公を洗脳し連れ去ろうとしている謎の敵が実の父親だったなんて。そんな出来すぎた展開の作品なんていくらでもこの世に存在している。まあ、この夢妖が本当に翠河の実の父親だったらの話だが…
「父さん、この人は…」
ダメ押しのように続けられた“父さん”のセリフに、すかさず阿泥が噛み付くように叫んだ。
「おいっ!翠河お前今この夢妖とかいう妖のこと“父さん”って言ったのか!?お前は神でこいつは妖だろ、正気か!?洗脳でもされてんのか?」
ただでさえ今の翠河の脳内には記憶がないということなど忘れて、阿泥は翠河に声を荒げた。
それを見た夢妖はくつくつと笑いながら肩をすくめる。
「失礼だなあ、俺は正真正銘翠の父親だよ。その点に関しては一切嘘偽りのない真実さ、神に誓ってもいい」
(お前がその台詞を言うと一番信用できねえんだよなあ…)
紀清がそのお粗末なギャグというにもあんまりにブラックなそれを飲み下しきれないでいるうちに、阿泥は耳を伏せてにやにやと笑みを浮かべながら茶々を入れてきた夢妖をじっと観察していた。
しかしその糸のように細い双眼に眼鏡、短髪と全く翠河を思い起こさせる要素がないように思え、阿泥は余計に増した剣幕で大きく声を張り上げる。
「全然違うじゃないか!」
しかしそんな阿泥を尻目に愛爛は神妙な顔でぽつりと溢した。
「で、でも確かにちょっと似てる…かも」
「愛爛まで何言ってんだ!どこが似てるんだよこの男と翠河が!それに妖から神が生まれる訳ないだろ!」
「いやいや、阿泥だって思い出してよ!翠河って人上がりじゃん!夢妖が元人間ならほんとの親子の可能性もあるでしょっ」
「…はっ!確かに…」
愛爛にそう指摘され、阿泥は“その可能性は全く考えてなかった”と顎に手を当てて考え込むように口をつぐんだ。長き時を生きた付喪神である彼は人上がりの事情に人一倍疎いのだ。
阿泥は直情型に見えるものの、案外思慮深い一面もある。愛爛は彼のそう言う融通の聞くところを気に入っていた。もっとも今はそんな場合ではないのだが。
騒いでいたおかげか、翠河はやっと地面に伏す弟子達の存在に気がつきはっとしたように威圧を弱めた。体にかかる圧力が軽くなったのを感じ、全員がほっと息を吐く。
紀清はその手加減のようにも見える様子に(もしかしたら思い出したのか…?)と思い翠河の顔を見たもののそこに浮かぶ感情がただ“困惑”のみであったため、やはりそううまくいく訳ないかと心の中でため息を吐いた。
「あなた達は、いったい誰ですか…?」
「なっ…」
困惑した表情で見下ろされ、完全に忘れられていると言う事実に阿泥が絶句する隣で愛爛は「わ〜ん、翠河に忘れられちゃったよー!!」といまいち深刻さのない声音で嘆いた。
しかしその表情はいつも明るい彼女らしくなく、本気で泣きそうにその大きな目に涙を溜めている。
吽泥はずっと先ほどのショックから立ち直っていなかったのか、それとも忘れられていたことによりダブルでダメージがきてしまったのか硬直していたものの、やがて身を起こし静かに「……確かに、目元とか隠したら結構似てる…かも」と呟いた。
夢妖の目は常に細められており、それに加えて眼鏡があることと短髪の黒髪である事実から分かりにくくはあったが、確かによくよく見てみると鼻に口に耳、輪郭など一つ一つの顔のパーツは翠河とよく似通っている。
紀清は(通りでやけに顔がいいなと思った!そりゃ主人公サマと同じ血が通ってるのならイケメンなのは当たり前だし似てて当然だ…!)と今までの魚の小骨が刺さったような違和感の正体を突き止めたのと同時に内心頭を抱えた。これじゃ本当に父親だって事の裏付けになるだけじゃないか、実の父親がなんで妖になってる上に翠河を誘拐しようとしてるんだよ…!!
ついに頭を抱え唸り始めたところで、紀清は霞ノ浦が今まで一言も喋っていないことに気が付きまさか何かあったのではないだろうなと後ろを振り返った。
紀清は背後にいた霞ノ浦の表情を見て紀清は思わずヒッという悲鳴を喉の奥で飲み込んだ。彼女の表情はまるで凍ってしまったかのようにキンッキンに冷えていたからだ。そこに浮かぶ感情はもちろん怒りのみ。何にって、その視線の先を辿れば一眼でわかる。霞ノ浦はじっと夢妖を睨んでいた。
「…あなたが本当に、翠河の父親だと言うのなら…なぜ息子である彼にこんなひどいことを」
その声音は怒りを抑えているためか僅かに語尾が震えている。
しかしそんな様子すら愉快だとでも言うように夢妖は口角を上げ、まるで演劇の役者のように仰々しく胸に手を当てた。
「何を言っているのかわからないな。俺はただ息子を迎えに来ただけだよ」
「馬鹿なことを言うな」
あまりにも清々しく吐かれた嘘に紀清は思わず声を上げた。
(お前は“迎えに来た”んじゃなくて“連れ去りに来た”んだろうが!)
そんな反応も意に介さず、夢妖はつらつらと耳を塞ぎたくなるほどのひどい嘘を並べ立てて語っていく。
「よぉく聞いておいで、翠。かわいそうに、お前は少し前に悪い神々に天上界に連れ去られてしまったんだよ。でももう安心していい、俺がやって来たからね」
「……ああ、そうだった。父さん、助けに来てくれてありがとうございます」
夢妖が目を細めて笑うと、次の瞬間翠河の瞳が一瞬光を失い赤く淀み、ぼうっと表情が抜け落ちたあと我に帰ったかのように笑顔を浮かべて夢妖に笑いかけた。その様子はとてもまともな様子ではない。洗脳されたと言うのはあながち間違いではないのだろう。むしろもっとも的確な言葉だとも言えた。獏の能力は記憶を奪うだけではなく、植え付けることもできるということだろうか。
翠河が父親に向けたその笑みは、紀清に笑いかける純粋な弟子の彼となんら変わらない花の咲くような笑みだった。しかし、今や紀清に向けられる視線はそれと反対に鋭く冷たい。まるで親の仇のような視線に紀清はグッと首を引いて目を逸らした。翠河の本来の意思ではないとはいえ、可愛がっていた弟子にそんな反応をされると流石に傷つく。
翠河は蔑むような目を伏す弟子達に向け、父に向かって話しかけた。
「……では、先ほどから私のことを“翠河”なんて妙な名前で呼ぶこの者達は皆神なのですか?」
「ああそうだよ。お前は忌々しき神に天上界に連れ去られていたのさ。それを俺が夢と空間をつなげることで助けに来てやったんだが…神のやつらはしつこくてねえ、お前を逃さないようにこんなところまで追ってきたのさ。お前は強いから、無意識のうちに威圧の技を使っていたようだ。無事でよかったよ」
(クソ野郎、どんだけ嘘をでっち上げるんだよ…!何一つあってないっつーの!)
紀清はそのあまりな捏造に紀清であることも忘れて叫び散らかしそうになったが、突如増した体にかかる圧力によりその口は音を出すことなく強制的に閉じられることになった。
翠河が先ほどまで弱まっていた威圧を強めたのだ。しかもそれは先ほどまでのより強く、紀清すら立っていられないほどだった。
「…神ならば話は別です。先ほどから私を連れ戻すなどと妙なことを言っていますが、それがもし天上界に行けと言うことならば私はお断りします。誰が憎き神の住まう土地などに行きたいと思うのでしょう。私には…地底を治める王になると言う、使命があるのですから」
そう表情を無くした顔で語る翠河の瞳は赤く暗く澱んでいた。




