第三十七話・裏 記憶の挿げ替と造られた堕神
少年の名は青柳翠。彼は自然豊かな田舎の村に生まれ、父と母に愛されて育った。
裕福と言うには少し足りない村ではあったが、それでも村人みんなで協力して家を建て食料を分け合い、生活で特に不自由もすることなく幼少期を過ごした。
そんな中、ある日突然村に妖が現れた。お札や御守りと言った高価な代物はこの村にはない。やがて村人が次々妖の被害に遭うようになった。次々と倒れる仲間たちをこれ以上増やしたくない。しかし、人間の力では妖を退治することも封印することも不可能。どうしたものか悩んだ末、村人達は小さな社を建て皆で神に祈りを捧げて助けを待つことにした。いつかその願いが神に届くのだと信じて。だがどんなに待っても、どれだけ祈りを捧げても神はやってこない。
数年が経った。村人たちは次々に減っていき、若者は皆隣の村に逃げ出してしまい村に住むのは移動が困難な老人ばかりになってしまった。翠達一家は家も家族も此処にあり、今まで世話になった村を逃げ出すわけにもいかず、出歩けない老人達の世話を引き受けて過ごした。
ある日、ついに翠の母親が妖に取り憑かれた。その妖は人間を宿主にして潜伏し、体を乗っ取り生命力を奪うと言う悪質な妖だった。もともと病気がちだった母は抵抗する力がそれほどなかったのだろう、そのまま乗っ取られてしまい呆気なく命を落とした。その骸は妖が被り続けているため母を墓に弔ってやることはできなかった。
しかしそんな悲劇の中にやっと救いの手がやってきた。神が祈りを聞き届けてこの村にやってきてくれたのだ。
それは同時に悪いことでもあった。その神は山奥に住まう疫病神であり正当な天上界に住む神などではなかったのだから。
その神は妖に乗っ取られた母を亡骸ごと両断して退治し、礼と称して残ったわずかな村人を抵抗できないのをいいことに次々と喰らっていった。
そんな惨劇の最中、父は腰が抜けてしまった翠を両手に抱え上げ神に襲われないようになんとか無事山奥へと逃げおおせたのだ。
その時は疫病神なんて存在は知らなかった上、母が死んだというショックと、信頼していた神の裏切りにより村が滅びたと言う事実を飲み込むことができなかった。二人は常に先のことを憂いながら生きていた。
神という存在に失望した彼等は本格的に頼る当てもなく、ふらふらと野宿をしながら身を隠して生活した。
しかしそんな二人はある日不思議な妖と出会う。その妖は珍しく自我をしっかり持っており、警戒する親子の手を引いて自分の住処へと案内をしてくれた。そしてその上食事や寝床までくれて匿ってくれたのだ。そうして始まった心優しい彼との穏やかな生活はだんだんと翠に笑顔を取り戻させ、彼等の心の傷をゆっくりと癒していった。妖にもいい奴と悪い奴はいる、もしかするとあの時の神は悪い奴だっただけで、本来の神は違うのかもしれない。彼等にはそんな考えを抱くほどの余裕さえ出てきていた。
しかしそんな暮らしは長く続かなかった。どこでかぎつけたのか、五大神派から神々がその妖を退治するためにやってきたのだ。
何度も父と翠は神々に「彼は悪い妖ではない」「私たちを助けてくれた」と必死に訴えたが、神は聞く耳を持たず戸惑うことなく無抵抗の彼を翠たちの目の前で斬り殺した。
助けれてくれた妖の血を頬に浴びながら、翠は思う。やはり神にいい奴なんていない。いい妖と悪い妖の区別もつかないなんて、神は信用ならない。翠と父親は大切な友を失い、また神を恨むようになった。
父はそれから翠以上に神をひどく憎むようになった。ある時地底へと翠を連れて旅立ち、こう言った。
「これ以上俺たちのように神の被害に遭う悲しい人間を増やすわけにはいかないだろう。神共はきっと弱い人間には抗議すらできないと舐めきっているんだ。神の横行を許すわけにはいかない、俺たちが立ち上がらなければ」
「…はい、父さん。私たちで悪しき神を滅ぼしましょう」
翠は地底の妖と協力して天上界の神を倒すという父の案に迷いなく頷いた。
そこで待っていたのは神に対抗する力がないという問題だった。翠とその父親はただの人間であり、神のような不思議な力を持っているわけでも人間の中で特別強いわけでもない。そんな状態では妖達も協力してくれることはないだろう。一体どうしたものかと二人は頭を悩ませた。
やってきた地底はほとんど無法地帯のようなもので、飢えた妖が涎を垂らしながら這い回り、死体を啄む烏がそこらに蔓延っていた。しかし奥に進んでみると、自我のある妖達が神の目につかないようにひっそり息を潜めて暮らしている村のようなものがあることがわかった。
翠と父はそこに行き、長きに渡って生きてきた長老の妖に「神に恨みがある」「どうにか神をも殺せるような力を手に入れることはできないか」と何度もしつこく聞きに訪れた。やがてその執念と熱意に負けたのか、妖は気が進まないと言った様子で長い髭を撫でながら伝承上の存在として伝わる『鬼術』について教えてくれたのだ。これを使いこなすことができれば、五神すら倒すことも可能だという最強の術。幸運なことに翠と父はその鬼術の才があったらしく、文献を読んだだけですぐに扱うことができるようになった。鬼術を学ぶとともにその身は人の道を外れたが、それでもよかった。彼等の目的はただ神を滅ぼすことだけなのだから。
しかし修行を重ねていくうちは平和だったものの、ある日見回りの神が何かに感づいたのか地底へと乗り込んできて父の元から翠を奪い天上界へ攫って行った。攫われた翠は神に拷問を受け、ボロボロになりながらも鬼術の秘密を守り通した。人ではなくなった故に翠とその父親は神にとってはただの敵。神に囲まれた翠は抵抗することもできず何とか夢の中に逃げ込んだがそこに父が助けに来てくれて……………____________
__________なんて、こんなところかな。」
暗闇に佇む男は翠河の頭に両手を翳しながら満足げに頷いた。その両手の内からは怪しげな赤い光が放たれ、その光は収束するように翠河の頭の中へと入り込んでいく。
「いやあ偽の記憶を作るのもなかなか大変だなあ。記憶を改竄するのとは訳が違って、一から全部練り上げないといけない訳だからね。嘘をつく時は真実に混ぜながらするといいっていうけれど…っははは、こんな記憶幼少期の故郷と父の存在くらいしか何も正しい情報なんてないじゃないか。傑作だね」
一通り偽の記憶を入れ終わった男は手を降ろし、考え込むように自身の顎を撫でた。
「俺、もしかすると脚本家の才能でもあったみたいだ。なあ、獏ちゃんもそう思うだろう?」
背後に控えていた獏はその呼びかけにぴょんと飛び跳ね一回転し、目をゆるりと細め笑った。
「空っぽな状態で偽の記憶を入れたから少し記憶の定着には時間がかかりそうだな…ふむ。この記憶を封じた指輪を翠に身に付けさせたほうがきっと早く馴染ませることができるだろうが…しかし本人に身に付けさせれば何かの拍子で壊れて記憶が戻ってしまうかもしれない。」
男は悩むように黒い硝子でできた指輪を懐から取り出し眺めたが、一つ息を吐くと「まあ、いいか」と言いながら翠河の指にそっと差し込んだ。
「母の形見だとでもいう設定をつけて翠自身に守らせればいいんだもんな。翠の力は既に一番弟子の中でもトップなんだから、攻撃を喰らって壊すなんてヘマをやらかすこともないだろう」
今は時間がないのだから定着を早める必要があるが、やがて記憶が完全に定着した時に指輪は回収すれば良い。
できれば師匠である紀清に生まれ変わった翠の姿を見せてやりたいところだが、そううまくいくのだろうか。
…いや、あの男は地底に噂が届くほどこの翠河を可愛がっていたのだから、絶対に助けにやってくるはず。
夢妖は意地の悪い笑みを浮かべ、足元にすり寄ってきた獏の頭を撫でた。
「闇に堕ちた愛する弟子の姿を見て、彼はどんな顔をするのかな?…その場で殺せれば一番いいんだが、きっとそう簡単にもいかないだろうなあ…」
せめて、絶望に歪んだ顔でも見れればそれで満足だ。
ずれた眼鏡を指で元の位置に戻すと、その瞬間夢の中の空気が何かに抵抗するように揺れ動く気配を感じた。
「おっと、お出ましのようだ。獏ちゃんは早く紙に戻りな。」
そう呼びかけるが早いか手の内に飛び込んできた獏がそのまま紙製の札に姿を変える。それを懐にしまい直し、夢妖は翠河の夢の中に入ってきた神達の位置を気配を辿って捜し、闇に紛れるように身を隠した。
「……やはり助けに来た、か。何がいるかわからない夢の中に五神で協力して術を使ってまで入り込むなんて正気じゃない。神は本当にイイヤツばかりなんだなあ…反吐が出そうだ。」
夢妖は少し考えるように頬を掻くと、腕のみを空間に出して翠の緑がかった青色の髪をゆっくりと撫でながら語りかけるようにひとりごちた。
「なあ翠…お前、天上界では随分と楽しそうだったなあ。でも残念ながら大好きな師匠やお友達とは此処でお別れだ。…お前自身の拒絶によって、な。」
舞台は整った。
あとは哀れな五匹の蝶が蜘蛛の巣にかかるのを待つだけだ。
その中心に構える蜘蛛はこれからやってくる彼等の予想とは違い、夢妖でなくこの翠河であるのだが。




