第三十七話 忘却的一切
「何もんだお前!怪しいやつ」
「翠河に気安く触らないでよ」
「翠河…」
「しっかりして!目を覚ましてよ翠河!!」
「おや、どんなに声をかけたって無駄だよ。もう君たちの呼びかけに翠河が応えることはない」
にやにやと嫌な笑みを浮かべながらこちらを見据えるその男に紀清たちは皆言いようもない嫌悪感を覚えた。それは彼の纏う濃密な妖気の所為でもあり、翠河をこんな状態にした犯人であると言われずとも分かったからでもあった。
「貴様は……夢妖か?」
「その通り。俺は“夢“の欲を核に持つ妖、夢妖。…ああ勿論この名は真名ではないよ。しかし神と違って妖に名なんて無意味なものだろう?俺はただの夢の妖に過ぎず、名は無用の代物…だから“夢妖”。なかなか洒落ていると思わないか?自分でも気に入ってるんだ」
男はふふふ、と何が面白いのか笑いながらまるで世間話をするように軽いトーンの声で言葉を紡ぐ。そんな緊迫した場にそぐわない態度は、紀清たちには得体が知れずとても不気味なように思えた。紀清達は警戒を強め、それぞれ武器に手を掛け構える。
「おや警戒させてしまったか。しかしねえ、いくら神サマと言っても夢の中ではこんなに無防備だとはなあ。簡単にこんな風になってしまった。いやまあ、俺が三年かけてこうしたんだけどね」
「…その子に触るな」
こちらが結界に入れないのをいいことに、夢妖は翠河の顎を掴んでその虚な目をニヤニヤと眺め見る。大事な弟子が目の前で好き勝手されているもののそれに手を出せないことが悔しくて紀清は歯軋りをした。
「なんでだい?いいだろう別に減るわけじゃないんだから。それとも大事な一番弟子が手籠にされて嫌なのかな?…ああ、貴方にとっては残念なことかもしれないが、どうやらこれから先の水泉派の一番弟子はこの子ではない他の神から選んでもらうことになりそうだから、今のうちに候補を決めておくといい。これは俺からのアドバイスだ」
「…なんだと?」
「この子はこれから俺が引き取るのさ。きっと二度とそちら側には帰らないと断言できるよ。」
「何言ってんだよテメェ!」
「翠河はずっと一番弟子だし私たちの同期なの!」
「勝手にそっちに引き込まないでもらえる?迷惑。」
「断言すると言ったところで、そこに翠河の意思があるとは思えません」
弟子達が噛み付くが、なんのそのと言わんばかりに男は口に笑みを浮かべたまま軽い調子で言った。
「ふふふ、果たして本当にそうかな。翠河が自分の意思でこちらに来た場合は何も言えないだろう」
「それは貴方が翠河の記憶を…!」
「……いい、霞ノ浦。相手をするな」
(まじでこいつ、いったいなんなんだ…何が目的だ?)
翠河に被害が及んでいると知った時は、てっきり主人公を弱らせて殺すような算段なのかと思っていた。しかし、様子を見るにどうやら目的は違うらしい。じゃなければ此処まで追い込んでおいて生かしておく理由がない。
男の姿は齢は四十は過ぎているであろうと言ったところだが、顔立ちは美しく整っておりシワひとつなく、その細められた目からはより人外じみた不気味さが漏れ出ていた。
紀清の記憶にある限り、こんなキャラクターは原作には存在しない。やはり、新しく生み出された敵役なのだろう。しかし先ほどから紀清はその顔を見た時から妙な既視感が存在するような気がし、心の中で首を傾げた。
(…誰かに、似ている)
それもたまに見るような顔ではなく、毎日顔を合わせるくらいには慣れ親しんだような既視感…それとも気のせいなのだろうか。その正体があと一歩でわかりそうなところまで来たものの、そう易々と物事は動くはずもなく夢妖が突然行動を起こしたことにより思考は中断された。
夢妖は翠河の頭に片手を乗せ、耳元に口を寄せる。その不審な動きに紀清は腰の刀に手をかけて警戒の体制を取った。
「何を…!」
「ほら、翠…目を開けなさい。君の大好きな師匠とお友達が来ているよ。…まあ、もう何も覚えていないだろうけど」
その後男は翠河に呪文のようなものを囁き、身を離した。すると突然場の空気が一段と重くなる。
「なっ…!これはなんだ、体が動かねえ…!」
「う、重い…」
阿吽兄弟が耳をペタリと伏せて耐えていたものの、やがてバランスを崩した愛爛や霞ノ浦と共に崩れ落ち、最後には紀清以外の弟子達は皆地面に縫い付けられるようにして妖気の圧力に押しつぶされていた。紀清は大人の体格を持っていたのと神格が強かったおかげでなんとか耐えられ、無様に地に伏すなんて展開は回避することができた。
(と言ってもまじでギリギリなんだが…!これ、何処からこんな膨大な妖気が……)
「まさか…これは、翠河から出ているのか…!?」
その妖気の中に見知った気配を僅かに感じ取り、紀清は意識を集中させ妖気の出どころを探った。するとてっきり目の前の夢妖から放たれていた物だとばかり思っていた妖気は翠河から放たれていると言うことがわかり、思わず声を上げる。
(そんな馬鹿な、嘘だろ!?)
「翠河は清らかな陽の気を扱う神だ、このような陰気を放てるはずがない…!」
「はっはっは、それは如何だろうね。いやあなんて愉快なんだ。名高い神々がこうもあっさりと…!ふふふ、やはり翠河は鬼術の才能がある…」
紀清は放たれる膨大な妖気に負けないように地を踏み締めながら、なんとか翠河を結界を破ってこちらに連れ戻せないかと前に立つ翠河へと手を伸ばした。しかし、結界に触れる寸前のところで翠河がその目を紀清の方に向ける。虚な瞳と目が合い、紀清はその中に何の色も感情もないことを見抜き思わず息を呑んだ。
「………………誰?」
「なっ…!」
そしてその口から放たれた無感情な声音は、紀清のわずかに残っていた“翠河が我にかえればすぐに記憶を思い出してこの気味の悪い敵を倒すことができるのではないか”という淡い希望を打ち砕いた。
元は青い色を携えていた翠河の瞳は、今は爛々と赤く輝いている。
「はっはっはっは!!これは傑作だ!!」
その予想外の台詞に全員が凍ったように固まってしまう中、唯一全てを謀った男の高笑いだけがその場にずっと響いていた。




