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悪役が挑む神話級自己救済  作者: のっけから大王
第四章 師心あれば弟子心《修行編》
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第三十五話・裏 恋する乙女の密かな決心


霞ノ浦は、走っていた。

水泉邸の廊下を音を立てながら駆け抜けていた。目指すは師である紀清の私室、江室である。


普段からお淑やかで何があっても慌てず騒がず、模範のような神として立ち回っていた霞ノ浦は、今ばかりはその全てを殴り捨て額に冷や汗を流しながら走っていた。

廊下を走る途中すれ違った鍛錬中の弟子達が「霞ノ浦様!?」「どうなさったんですか」と叫ぶのを聞いたが、それに構っている余裕はなかった。だって、それどころじゃないのだから。霞ノ浦は先程紀清に言われたことを脳内で思い返していた。


(翠河が…記憶を失った…!?)


霞ノ浦は、翠河のことを密かに好いていた。

誰にも言ったことはないし、その感情に気がついたのも随分と最近のことだ。初めはただの同期として、仲間として親しい感情があるだけだと思っていた。純正な神の生まれの自分にそんな人間のような感情があるはずはないと、思っていた。


しかし翠河が任務先で女性に告白されているのを見た時、気がついてしまったのだ。その女性に覚えた僅かな嫉妬…そして、告白を断られた時の安堵の感情。そして、翠河のことをそう言った目で見ている自分自身に。


しかし、思いを告げるつもりはなかった。この関係性を変えたくなかった。それに翠河はきっとそんな感情を自分には抱いていないだろう。ただの同期だと思っていた相手に、そう言われたところできっと気まずいだけだ。

だから、想いには厳重に蓋をしてその感情に気がついた後でもいつも通りに振る舞っていた。そもそも自分は翠河のそばにいられればそれでいいのだから、わざわざ思いを告げにいく必要なんてない。何もしなくとも、翠河が水泉派にいる限り自分たちは毎日会うことができるのだから。水泉派の唯一の同期として、愛し合わなくとも隣に立つことが私にはできるのだから。


(でも私は…翠河に異変が起きていたことに、何も気が付かなかった)


毎日会っていたのに。彼を愛する者として、決して少しの顔色の変化だって見過ごすつもりはなかったのに。

そして、翠河がそうして苦しんでいる間何も気が付かずただ彼のそばで笑っていただけの自分が許せない。


霞ノ浦は扉の前まで来て、息を整え未だ覚悟も整わないまま扉を開いた。


「…翠河」


そこには、思っていたほどの衝撃はなかった。翠河は見た目が大きく変わるということもなく、大怪我を負っているわけでもない。いつも通りの姿で手持ち無沙汰に視線を彷徨わせながらベッドの上に腰掛けていた。


翠河は霞ノ浦が中に入るとようやく気が付いたのかハッと視線をこちらへ向ける。


「あ、あなたは…」


そしてそのあまりにも他人行儀な口ぶりに、霞ノ浦は全身の血が凍ったのかという程急速に体が冷えていくのを感じた。


(私のことは…覚えて、いないのですか)


父のように慕っている師匠のことが翠河の記憶にあったという事実は霞ノ浦にとっても良いことだった。何も覚えていないわけではなく、距離の近い者の記憶はあったのだ。知っている者が一人いるだけでも、不安は和らぐだろうから。


…故に、少なくはない時間を過ごした自分も記憶の片隅くらいには残っているのではないだろうかと勝手に期待をしていた。しかしどうやらそううまくいくわけでもないようだ。冷たくなった手を握りしめる。


「…私は、霞ノ浦です。貴方と同じ年に水泉派に入った同期なのですよ」


霞ノ浦は冷える心をそのままに、努めて冷静にそう声をかけた。衝撃が大きかったせいか、一周回って思考は澄み渡っている。


「…霞、ノ浦…」


「はい。それに水泉派に入ったのは私だけですが、他にも三人同期はいるんですよ。…覚えていませんか」


話しやすくするため、ベッドの淵に腰掛けて隣り合うように座ると、翠河は少しギョッとしたように目を瞬かせた。もともとあまり人の体での距離感が分からず、人と接する時やけに距離が近いとよく阿泥などに言われていた霞ノ浦だったが、長年いるうちに翠河はとっくに慣れてこうした初心な反応を見せることは少なくなっていた。久しぶりに見られたそんな反応を少し可愛らしいと思うと同時に、霞ノ浦はツキンという胸の痛みを覚えた。それを押し殺して、安心させるように笑みを浮かべる。


「師匠の…紀清様のことは覚えていたのだと聞いています。会話することができたということは、常識や神としての知識が全て抜けたわけではないようですね」


「は、はい…その…言語や知識としての記憶は残っているのです。しかし、思い出やその時の感情といったものがあまりはっきり思い出せなくて…靄がかかったようにぼんやりとしか…」


「そう、ですか…」


ならば、きっと自分のこともすっかり消えてしまっているのだろう。

悪いのは全てその記憶を奪った相手だというのに、霞ノ浦はどうしても胸の苦しさを抑えることができなかった。好きな相手に忘れられたということが、こんなにも辛いなんて。悲しみを堪えるように静かに瞼を下ろすと、翠河がしかし…と言葉を吐いた。


「貴方のことは、少し覚えています」


「え…?」


思わず閉じた瞼を開く。彼は覚えている、と言ったのか。


「昔…種から蔓を育てて、木の間を潜らせた寝床を作ってくれたことありましたよね」


「……ええ。」


「あの時見た星空があまりにも綺麗だったので…はっきりと思い出しました。…その前後の記憶は、朧げですが…」


思い出せないことを申し訳なく思いつつ、懐かしむように昔の思い出を話され霞ノ浦はたまらない気持ちになった。思わず翠河の手を包むようにして掴む。


(覚えて、くれていた…何年も前のことを、覚えてくれていた…)


嬉しい。濃い最近の3年間に比べればあんなことほんの小さな思い出でしかないだろうに、覚えていてくれたのだ。突然手を握られた翠河は驚き目を見開いた。


「あ、あの霞ノ浦…」


「…ごめんなさい、突然。でも、嬉しかったんです。そんな昔のことを、覚えてくれていて…」


そのまま堪えられず大粒の涙を零し始めた霞ノ浦の姿に翠河があわてている気配を感じたものの、申し訳ないと思いつつもう少しこのままでいさせてほしいと霞ノ浦は握った手に力を込めた。

すると、それに返すように手を握り返される感覚が伝わってくる。思わず目を見開くと、目の前にいつものように花が咲いたように笑う翠河の姿があった。


「すみません、貴方がそうして泣いているのは私が記憶を失ってしまっているせい、ですよね。…霞ノ浦のことははっきりとはいかないまでも、ちゃんと覚えています…だから、泣かないで。私はあなたが笑っている姿が見たい」


慰めるようにそう言われてしまい、霞ノ浦はなんで自分が此処にいるのかわからなくなってしまった。

自分は記憶を無くして不安であろう翠河の助けになるために此処にきたのに、泣いた挙句自分の方が慰められてしまってどうする。立場が逆転してしまった。記憶をなくしていても、彼はこんなにも優しい。その善性は神の中でも珍しいくらいのものだった。

慰めに来たはずなのに慰められてしまうとは。霞ノ浦はいっそ面白くなってしまい、段々涙と共に流れ出ていた嗚咽はくすくすという笑い声に変わっていった。


突然泣いたかと思えば笑い始めた霞ノ浦に翠河は(なかなか忙しい人だ)と困ったように笑みを浮かべたが、泣いている姿の時のような胸のざわつきがなくなったことに気づき、やはり笑顔の方が似合っていると霞ノ浦の目尻に溜まっていた涙を指で掬い取った。


「ふ、ふふ…すみません。なんだか面白くなってしまって。」


「いえ、やはりあなたには笑顔が似合っています」


霞ノ浦は意中の相手になんの裏もない顔でそんなことを言われてしまい、思わず照れから頬を赤く染める。


「…記憶が靄がかかったようになっているというのなら、私のように何か記憶に強く残る思い出があれば思い出せるものもあるはずです。今から師匠が帰ってくるのを待っている間、私があなたの周りの方々を教えて差し上げましょう」


「本当ですか!助かります」


「…では先ず、五神のことからでしょうか」


翠河は明るい笑みを浮かべてそのまま霞ノ浦の話に耳を傾ける。そんな翠河を優しく見つめつつ、霞ノ浦は心の中でとあることを決心した。


(翠河…必ず、貴方の記憶は私が取り戻しますから…)


どうか全てが解決した暁には、この想いをあなたに伝えることを許してください


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