第三十二話 懸念的狼狽
「…いま、何か声しませんでした?」
部屋の中でいつものようにのんびりとくつろいでいた氷雪丸がピクリと耳を動かす。
「さあ…オレには何も聞こえなかったけど」
そう言って紀清は筆を置き欠伸をこぼした。すでに時間帯は深夜に突入していたが、今日は何故か依頼に寄った願いが多く、より分けるのに時間がかかってしまい徹夜の覚悟でこうして職務室の明かりをつけて作業に勤しんでいたのだ。転生して主人公の様子をすぐそばで見れるのは楽しいが、なんで俺は異世界でもずっと書類仕事をしているんだろうと紀清は憂鬱な気持ちになった。
「いやなんか人の声みたいなのが…何言ってるかは聞き取れませんでしたけど。どうします?いってみます?」
「人の声…?本邸と別棟は離れてるし、するとしたら翠河くらいしかいないはずだけど…どっちの方向からした?それ」
「あー…翠河の部屋の方向から、ですかねぇ…。あ、今なんか扉が開いたような音が…」
「翠河の身に何かあったのか!?ほら、早くいくぞ氷雪丸!!」
そう言うと、紀清は慌てて氷雪丸を抱え上げて寝間着のまま扉の外へと駆け出した。
それに落ちないように爪を立ててしがみつきながら、氷雪丸は考える。
(なんか…ずいぶん入れ込むようになりましたねこの人も)
元々原作というか、氷雪丸に会った初期の頃から主人公のことを気に入っている節はあったが…懐かれるようになった当初は怯えていたのに、今はこうして心配までしてみせるとは。なんせ行動理由が主人公が危険になるとこの世界が云々とかではなくてただただ純粋に身の安全を心配したものなのだ。ある意味、この男も傍観者の立ち位置からすっかりこの世界に生きる人間臭くなったというべきか。
とにかく自分の耳に聞こえた悲痛な声が心配なのは氷雪丸も同じなので、物音のした方向である翠河の部屋へ一旦向かうことにした。
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そうして翠河の部屋に立ち寄ってみたものの、中に翠河はいなかった。代わりに中は動物が暴れたかのように荒れており、窓は空いている。先程の扉が開いたような音というのは、窓から外に出た音だったのか。
「これ、何があったんだ一体…襲われたとかでは、なさそうだけど…」
翠河が心配のあまり元々徹夜気味でそう良くなかった顔色を真っ青にさせて狼狽える紀清だったが、氷雪丸が「こっちです!」と足元から声をかけたことによって現実に引き戻された。
氷雪丸の耳と鼻を頼りにそのまま外に出て翠河を探すと、やがて庭の端の水源の側で項垂れながら頭を押さえた翠河が呆然と佇んでいるのが見えた。その尋常では無い様子に、紀清はすぐに駆け寄りたくなったが、氷雪丸が「とりあえず様子を見ましょう」と言ったことで一旦壁から顔を出すようにして覗き見ることにした。
翠河は先ほどと変わりなく佇んだままだが、降ろされたままの髪から覗くその顔色は土気色で口元でずっと何かを呟いている。その様子はとても正気とは思えない。
「あれは何をしてるんだ…?」
「さあ…随分フラフラですけど…」
しかし翠河はその不安定な足取りで突然より水の近くに歩みを進めた。紀清はそのまま水に落ちてしまうのでは無いかとハラハラとした気持ちで見守っていたが、なんとその予想通り、足をもつれさせて翠河は水に落ちてしまった。
それを見てしまった二人はそれぞれ「翠河!?」「えっ落ちた!?」と絶叫しながら慌てて駆け寄って紀清が手を掴み引っ張り上げた。
ようやく引き上げたその体は水に浸かったせいで冷たく、額には皺が寄ったままその端正な顔には苦悶の表情が浮かんでいる。水を飲んでしまったようなので体を横に向けさせて水を吐かせた。
そのまま放置するわけにはいかないため、体に負担をかけないように所詮お姫様抱っこというやつで抱え上げてそのまま紀清の部屋に連れてくる。抱えた翠河をそのままに、紀清は頭を抱えた。
「これ、服着替えさせたがいいよな…」
一応部屋に入る前に水気は落としてきたものの、やはりびしょ濡れのまま寝かせるのは忍びない。それに神とて風邪を引くことはあるのだ。不死なだけで、普段の体はただの人間とそう変わらない。
(しっかし、全部脱がせるのはな…)
いくら同性で今まで風呂で裸を見たことだってあるとはいえ、看病でこうして他人を着替えさせるのはなかなかハードルが高い。しかし、服を一枚脱がせたところで、そこまで中の服が濡れていないことに気がついた。なんと幸いな事に水に浸かった時間が少しの間だったためか、豊かな外衣の布に助けられて中までは濡れていないようなのだ。それにほ、と息を漏らした紀清は肌襦袢はそのままにして濡れていた外側の服を脱がせベットに横たわらせた。
(だがなあ…脱がせたはいいものの、翠河が着れる服とかここにないんだよな。身長は同じくらいでも紀清の方が体格がでかいから…翠河の部屋から勝手に持ってくるわけにもいかないし)
悩んだ挙句、仕方なく紀清は今自分が羽織っている羽織を一枚かけてやることにした。多少心許ないが、先ほどよりはマシだろう。ひと段落ついたところで、紀清はベッドの横の椅子に腰掛けた。そのまま眉を下げて不安げな表情のまま翠河の乱れた髪を整える。
「翠河がこんなことになるなんてただごとじゃ無い…何があったんだ、ほんとに。」
「さあ…しかし、何かが起こってるのは確かでしょう」
もしかして、この三年の平穏はただの嵐の前の静けさに過ぎず、これからまた何か物語が動き始めるということなのだろうか。氷雪丸は唸った。だとしたらなんてタイミングの悪い。原作で問題だった紀清の死因に関する事案が全部片付きそうな時に、新たな問題が起きるとは。
時折苦しそうに呻く翠河の額を撫でてやりながら、紀清はすぐに様子を見れるようにすぐ隣に机を移動させて仕事を続けることにした。
「物語が動く…ね。翠河の身に辛いことが起こるのは、正直嫌なんだがなあ…」
「主人公ですから、死にはしませんよきっと」
「そんなの、わかんないだろ」
紀清は瞳を揺らしながらほとんど無意識でそう呟いた。それに氷雪丸は目を大きく見開き、やがて「…そうですね」と静かに溢した。
紀清は、自分が大型犬のように懐いて回る翠河の姿にすっかり絆されてしまった自覚はあった。そして、同時に今まで通り客観視できなくなってきている自分にも気がついていた。今は主人公だなんだという法則を素直に信じることができない。もう彼は紙面越しに見ていた物語の主人公なんかでは無いのだ。自分も含め、この世界に生きるうちのただ一人でしかない…そして、翠河は紀清にとってかわいい弟子なのだ。
そんな大切な子が主人公だからなんて理由でこれから先苦しむのをみるのは、今の紀清には受け入れがたかった。




