第三十話・裏 嵐の前の賑やかな平和
「翠河さん!今回なかなか良い瓜が地元で実ったんだ。どうだい、お師匠様の今晩の食事にでも使っておくれよ」
「良いですね。いただけるのでしたら是非」
「翠河さまー!短刀が難しくて扱えないんです!こういう構えの時ってどう振るえば良いんですか」
「ちょっと待ってくださいね、えっとこれは左に重心を…」
「あっ!翠河さーん」
「翠河様、この報告書の件でお話が…」
「翠兄ちゃん、前に作ったお菓子の作り方もう一回教えてー!」
「翠河さん、これは…」
「ちょっとちょっと、待ってください。私の体は一つしかないんですから!」
翠河はただ修行場に様子を見にきただけだったのだが、あっという間に人だかりに囲まれてしまった。
一番弟子に名を連ねてから暫く経ったが毎日師匠のお世話をさせていただいてるおかげか、お忙しい師匠にはできないような個人的な相談や軽いお願い事なんかを水泉派のみんなから多く任されるようになってしまった。
みんなにいろいろ頼られるのは勿論嬉しいけれど、これでは体がいくらあっても足りない。
翠河は思わず苦笑いを浮かべながらも一つ一つの要件に丁寧に相手をしていった。
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〈厨房〉
「ねぇ翠ちゃん、こんな感じでいいのかな?お耳取れちゃったりしないかな?」
「付け根もしっかりしているし、きっと大丈夫ですよ。可愛いですね、猫ですか?」
「うん!御使の雪ちゃんをモデルにしたの」
今日は翠河は水泉派の数人の女神達と一緒に食堂でお菓子作りをしていた。
元々水泉派には食事を取らない神の方が多かったが、紀清が翠河の作った食事を取るようになってから皆真似して食べるようになったのだ。しかし、神生まれの者は料理を供えられることはあるとすれど作り方を知らないものが多かった。初めは翠河が強請られるようにして始まったこの料理教室だったが、何度も回を重ねていくうちに習慣となり、たまにこうして翠河から声をかけてお菓子の作り方を教えるなんてことも行うようになっていた。
(よしっ、これとこれはうまくできたぞ)
翠河は紀清に後で持っていくために特にうまくできたものをいくつか選分ける。そこまでの量は必要なかったため、残ったものはいつものようにその場にいる女神達に振舞うことにした。
「皆さん、良ければこれ食べていってください。あ、もし他の神に見つかって強請られては皆さんが困ると思うのでお食べになるのならここで食べてから出ていくようにお願いします」
「やったぁ!翠ちゃんの料理本当に美味しいんだから」
「ありがとねえ翠河くん」
「アタシはもはやこのおこぼれのためにここにきてると言っても過言ではない!うまー!」
翠河が声をかけると、盆の上に乗った菓子が次々と消えていく。翠河はみんながはしゃいで各々好きな形の菓子を手に取っていく姿を見ながら「みんなに喜んでもらえてよかった」と微笑んだ。
(これなら師匠に出してもきっと喜んでいただけるだろう)
そもそも紀清が翠河の作った料理に文句を言ったことなど一度もないのだが、翠河としてはどうせならやはり完璧なものを食べていただきたい。その点ではこうやって料理を教わるという名目で集まってきてくれたものの、同時に翠河の料理の研究にも協力してくれるこの神達の存在はとてもありがたかった。
「翠兄ちゃん、それ紀清様のところに持っていくの?」
「はい。綺麗に作ることができたものをいくつか持っていこうかと。」
「あら綺麗な色。きっとお師匠様も喜んでくださるわ。いつも翠河くんの作るご飯、幸せそうにお食べになっていらっしゃるもの」
「あはは、そうでしょうか…」
翠河としても紀清が自分の作った料理を喜んで食べてくれていることは理解しており、それはとてもありがたいし光栄なことだとは思っているのだが、そうして客観的に人に言われるとやはり気恥ずかしいもので翠河はわずかに頬を染め頭を掻いた。
「うんうん!じゃあほら、片付けとかは私たちがやっておくから翠ちゃんははやく紀清様のところにそれを持っていこう!出来立ての方が美味しいし、多分今から丁度お仕事の休憩の時間だからね」
「でも、全部任せてしまうのは申し訳ないです。せめてお皿くらいは洗…」
「いいからいいから!ほらはやくいきなさぁーい」
そう言って時雨に背を叩かれたことでたたらを踏むが、好機とばかりにそのまま押されて扉から外に出される。ぱちんとウィンクをして中に戻っていった時雨からの気遣いに翠河は思わずありがたいやら恥ずかしいやらで苦笑したが、そこまで言うのならありがたくそうさせてもらおうと体を翻して紀清の部屋へと足を向けた。
「師匠!入ってもよろしいでしょうか」
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(師匠、喜んでくださっていたな。良かった)
元々ただ差し入れるつもりで行ったのだが、紀清の誘いで思いがけず共にお茶をすることができた翠河は上機嫌で廊下を歩いていた。撫でられた頭にそっと手を当ててみる。
大人になった今になっても未だ子供っぽいことを求めている自覚はあるのだが、どうにもあの美しく強い師匠に特別に目をかけてもらえているというのが嬉しくて舞い上がってしまう。師匠はいつも仕方なさそうな顔をして頭を撫でてくださるため昔は「呆れさせてしまっただろうか」と不安になることもあったが、最近では翠河にはその掌には確かに愛情が篭っているのがわかっていた。それを手放すことが惜しいばかりに翠河はこの習慣を止めることができないでいる。
今は弟子達の鍛錬の時間ももう終わり、皆別棟に帰っているため本邸の廊下には誰の姿も無い。先ほど厨房を覗いてみたが、すっかり綺麗に片付けられて人っ子一人いなかった。
(なんだか、こうしてみるとこの本邸は少し寂しい気もするな)
大きな屋敷に住んでいるのは、異例で住むことになった翠河を除けば紀清ただ一人。本邸がこうなのは元々静かな様子を好む水泉派らしいといえばそうなのだが、どうにも弟子の神達は賑やかな方が多いためか誰もいないとその空間が一層寂しく感じられるように思った。
(しかし、この後師匠と久々に手合わせができるんだ…!新しく覚えた剣技、見ていただけるだろうか…)
翠河はこの後の予定を思い出し、顔に笑みを浮かべる。師匠に直々に指導してもらえるその時間は二人きりになることができるので、翠河は手合わせの時間が紀清のお世話をするときと同じくらい好きなのだ。
(そういえば、この間は新しく覚えた技を披露したらすごく褒めてもらえて………)
「…ッ、あれ…?」
(何て、言ってもらったんだっけ。あの時自分は何の技を披露したのだったっけ)
記憶に不自然に空いた穴に動揺し、思わず足を止める。必死に思い出そうと記憶を巡らせるものの、どうしても一部の記憶だけ思い出すことができない。それに焦りを感じ始めたその途端、突然視界が白く染まり立ちくらみのように足元からよろけたため壁へともたれかかった。
(……ああ、いつものやつか)
なら、暫くこうしていれば治るだろう。
翠河は誰にも言っていないが、最近こう言ったことが増えてきていた。体の不調や精神の乱れを感じると、次の瞬間から頭が真っ白になりまるで貧血のように全身の血の気が引いて立ち眩みが起きてしまうのだ。
しかし、三年前から悩まされ続けていたとなればもう慣れてしまったもので、暫く蹲って耐えていればすぐに何事もなかったかのように気分が良くなることを翠河は理解していた。
しかも神の体は丈夫なので、特にそれで任務に支障があるわけでもない。逆に言ってしまえばそれしきのことで解決する問題をわざわざ大ごとにして紀清の手を焼かせるわけにもいかないため誰にも相談することができないでいるのだ。
(睡眠が足りてない、とかではないよなきっと…)
暫くしゃがんで休んでいると、やがて頭の揺れるような感覚もだんだんと引いてきて立ち上がることができるようになっていた。最近、やけにこうなる頻度が多い気もする。何週間に一回あるかないかだった昔に比べれば、こうして一日に何度も起こるのはやはり自分の中の何かが異常なのだろうか。
霞ノ浦に相談するにしても、そうなれば確実に師匠の元へ話は流れるだろう。
(師匠に無闇に心配をおかけするのは忍びない…)
そうしてふらつく足取りのまま、翠河は壁に手を当てながら自室のある方向へと足を進めた。
紀清へ迷惑をかけまいとするその心から、まさかあのような悲劇に繋がることになるなんてこの時の翠河は全く考えもしていなかった。




