第二十五話・裏 物語の悪役とその右腕が思う事
「王林様、お茶を、どうぞ」
「ありがとう華女。」
紀清が意識を取り戻していない間、翠河は随分と根明だったようで木谷派にしては珍しくそこかしこから楽しそうな話し声が漏れ聞こえており、滞在している間は木谷邸にも随分と賑やかな雰囲気が漂っていた。そのせいか紀清達が帰ってからはどこか彼らがくる前よりもしんと静まったように感じられる。
王林は料理上手な右腕の入れた茶の香りを楽しみながら、ゆっくりと口に含んだ。
「はあ、貴方が入れるお茶はいつも美味しい。しかし華女、先ほどから随分と嬉しそうですね」
「いえ、あの、」
「別に怒ってませんよ。たしかに驚きましたよねぇ、あの紀清殿が素直に礼を言ってきたんですから」
「…はい」
「前回会った時はなんでしたっけ?私は変わらず視界にすら入れてもらえませんでしたが…ああそうだ、貴方の腕が落とされたんでしたね」
王林は「流石にあの時は私も焦りましたよ」と閉じた扇を顎に当てながら目を細め、華女の服で隠された縫い目のある方の腕を見る。華女はそれに対して何も言葉を返すことはなく、ただ俯いていた。
しかし王林にはそれが自己嫌悪に陥っている時の華女の仕草だと理解していたので、一つため息を吐くと「おいで」と声をかけた。
華女は紀清と王林の仲違いの原因は全て自分のせいだと考えており、その話題が出るたびにこうして酷く落ち込んだ様子を見せるのだ。実際、たしかにあの事件が決定打であったのは事実だが…別にあの時の事件がなくとも既に自分たちの決裂は決定付けられたものであったのだろうと思っている王林からすればその反省は的外れに等しかった。
王林は隣に立つ華女を見ながら、昔は自分の方がどちらかと言うと慰められる側だったと言うのに、部下として側においてからはすっかり逆転してしまったなあと思った。女性にしては高い身長の華女が横に立つと座っている王林では頭まで手が届かない。自身の座る椅子の隣の椅子を指差し、肩に手をかけ腰掛けるように示した。
「そこにかけなさい。頭に手が届かないでしょう」
「え、あ、…王林、様…」
王林はそのまま大人しく隣に腰掛けた華女の頭を掻き混ぜるように撫でる。その撫で方は些か乱暴で、もし見た目に気を使う女神にでもやった場合“髪が乱れる”と文句を言われても仕方ないようなものではあるのだが…仕方がない。末っ子として育ってきた王林はいつも自分が頭を撫でられる側であったため撫でるのが大層下手なのだ。しかしそれを主に受ける相手である狐の木ノ助や華女は当然それに文句を言うわけがないため、その撫で方は未だに矯正されないままでいる。
突然撫でられた華女は乱れた髪のまましばし茫然としたものの、すぐに恥ずかしがるように頬を染めて顔を俯かせた。それに王林はふふと笑い声をあげる。
「仕方がありません。あの時は貴方を私がこっそりと地底から連れ戻した事をまだ彼が知らない時でしたから。まさか彼が突然ここに来た上に貴女と廊下で出くわすことになるなんてねぇ…」
そこで言葉を区切ると、納得したように拳で手のひらを叩いた王林はくるりと華女の方に顔を向けた。
「なるほど、それがあったからまだ紀清殿には許されていないのだと思っていて先程礼を言われた時驚いたんですね?」
「はい」
「まあ、彼は帰り際に何やら考えることがあったなんて言っていましたけど…これも時間が解決した、ってやつなんですかねえ」
数十年前、王林の自室から出てきた華女を見てすぐに刀を抜き彼女の左腕を切り落としたあの時から…まさか今のように華女の存在を受け入れるようになるとは。もしかして、看病されたことで何か考えが変わりでもしたのだろうか。
昔の記憶を遡っているうちに、その時の紀清が華女から庇うようにして自分の目の前に立っていた事まで思い出した王林は、頭を降ってその記憶を掻き消した。今更戻れるはずがないと言うのに。期待をしてもきっと無駄だ。
「しかし…もしかしたら、なんて思ってしまうんですよねぇ。今の紀清殿を見ていると」
数年前までこちらからなんと話しかけようともう口喧嘩すらしてくれなくなっていた彼が…言葉を交わしてくれた。自分に助けを求めてくれた、感謝の言葉をくれた…私をまた、見てくれた。そんな事をされると考えてしまう。もしかしたら、またこれからあの時のように兄弟として___
「まあ、きっと無理でしょうね」
全く、神でありながらこうも欲深い我が身はどれだけ愚かなのだろうか。堕ちていないのは見た目だけで、実は内側はとっくの昔に真っ黒に染まっていたりしているんじゃないか。
王林は徐に椅子から立ち上がると、扇を顔の前で広げていつものようにゆっくりと仰いだ。この仕草だって、わざと偉ぶって見せるために身につけたものの一つだった。今となってはすっかり癖になってしまったのだが。
王林は華女が何か言いたげにこちらを見上げていることに気がついたが、彼女の口が不自由なのをいいことにそれを黙殺することにした。
「さあ、仕事ですよ華女。今日の分の民の願いを持ってきてください。最近何やら妖が地上に多く出没しているようで助けを呼ぶ声が多いんですよねぇ。願いの選分けがどれだけ大変になったことか。」
「少々、お待ちください。」
そう言って華女が書類を取りに出て行ってしまったため、王林は一人静かな部屋に取り残されることになった。
木ノ助が自身の寝床で背を丸めるのを後目に小さくため息を吐く。
このとき王林は数日前に血濡れの氷雪丸から助けを求められ、紀清の命が危ないのだと焦り思わず身の着のまま屋敷を飛び出して助けに向かってしまった時のことを思い出していた。
(そういえばあの時の妙な妖…確か“溶弟鬼”という名が付けられたんでしたっけ。
願欲から発生した妖にしては色々と不自然だったので、あの時いた霞ノ浦さんには色々と頼んでしまいましたが…無事に報告は行ったのですかね。)
王林はあの場において妖を生み出した少女に願われた本人でもなく、事後ただ救援に向かっただけの全くの部外者であるため状況が正しく理解できていたとは言い難い。紀清を翠河に任せたところで、手の空いていたもう一人に金岳派本邸への報告を頼んだのは当然の判断ともいえたが…
そこまで考えて、王林はそこまでご丁寧にこちらが手を出してやる必要はないだろうと思い直し肩をすくめた
「いやしかし霞ノ浦さん…やはりうちに欲しかったですねぇ。」
状況を的確に判断し、自身にできる仕事を理解し紀清を心配しつつも一人屋敷に帰っていった時の彼女を思い出し、王林は“もっと神選の時に時食い下がればよかったかもしれない”と思った。




