第二十五話 倒頭的帰還
一方、紀清はといえば王林と共に消えてしまった氷雪丸を取り戻しに行くべきか悩みながら暫く扉を眺め続けていた。
(いや…なんか無理やりってより氷雪丸もあんま抵抗してなさそうだったし…共心できなかったから何考えてるかわかんないし…)
そうして唸りながら考え込んでいると、前触れなく扉が音を立てて開いた。
翠河が戻ってきたのだろうかと思った紀清が先ほどまでの心細さから文句を言うため「遅いぞ」と口を開こうとしたところで、その向こうにいるのが翠河ではないことに気がついた。
「失礼…致し、ます」
そのまま扉を開けて御盆を手に部屋に入ってきたのは、黒い髪の間から片方だけの赤い瞳を覗かせた女の神…華女だった。
(うええええ華女!?何故!!アッそういや呼んでくるって言ってたもんなァ!しかし、やっぱ堕神ってなるとちょっと迫られると迫力がすごいんだが)
普通に歩くだけでも微かにその身から漏れ出ている華女の妖気に若干慄きつつも、紀清は(紀清は確か華女の事を大層嫌っていたはず)という記憶を掘り起こし、せめてそう振る舞うべきだろうと目を閉じて彼女の方から顔を背けた。でも流石に罵倒したりはしない。だって怖いから。
しかし華女といえばそんな態度を全く気にしていないのか、無言で持っていた茶碗を紀清の目の前にコトりと置いた。茶碗の中からほかほかと暖かな湯気が立ち登り美味しそうな匂いが漂ってくる。
「なんだ、これは」
「粥、です」
初めて聞く華女の声は感情が全くのっていないかのように平坦なものだったが、紀清はその多少ズレた答えに僅かに眉を吊り上げる。
(粥だってことは見ればわかる。俺はなんで今粥を突然目の前においたのかを聞きたいの!)
しかもほっかほかのなんか美味しそうなやつ!紀清は詳しい説明を求めて顔を見上げるも、華女はそれでもう説明は済んだと思ったのか軽く会釈をして後ろに下がった。これからどうすればいいのか分からない、これは食えってことなのか?いや食えってことなんだろうな…まさか毒とか入ってないよな!?
紀清が一杯の粥を前に一人で唸っていると、華女の後ろからひょっこりと顔を覗かせた翠河が補足するように説明を加えた。
「師匠!そちら、華女さんがお作りになられた粥だそうです。霊力の含まれた米で作ってあるため早くケガレを除く効果があるのだとか。私も最後の方に少しだけ手伝ったので、もし食欲があれば暖かいうちにどうぞ」
「…味見はしたのか」
「はい!美味しかったですよ」
この粥はケガレを取り除く手段…つまり治療の一環だと言うことを認識した紀清は、とりあえずなぜこれを今ここに差し出されたのかは理解した。…主人公が手をつけたのなら、多分毒はないんだろうな。うん。
とりあえず流れ的にこれは食わねばならぬのだということを理解した紀清は(これも早くこの屋敷から出るため…)と念じながら匙に手を伸ばした。
少し掬い、口に入れる。
(えっ、何これうまっ!)
しかし、ほんの僅かな量でも口の中に広がった旨味にその思わず目を瞬かせた紀清は、もう一口今度は多めに盛って食べてみる。
いや、本当に美味しい。なんだこれ。
(粥なんてただのドロドロした米だとばっかり思ってたけど…こんな美味しいもんだったっけ?)
紀清はそういえば自分は紀清になってからあまり食事をしていなかったのだということを思い出した。成り代わってから慣れないことにずっと追われていたというのもあるし、そもそも神にとって力の弱まる地上ではともかく天上界で食事を取るとすればそれはただの娯楽でしかない。元々キャラクターとしての紀清は食事はしない方ようだったので、食事を用意されることもなくそのまま今まで何も食べていなかったのだ。紀清としてはむしろ食事をわざわざしなくても生きていけるなんてラッキー、くらいに思っていたが…これは考えを改めたほうがいいのかもしれない。
久しぶりの美味しい食事と言うこともあり、紀清は瞬く間にその粥を米一粒残さず完食してしまった。 目の前にはニコニコと笑いながらその様子を見ていた翠河と変わらず表情の読めないままの華女が立っている。
そういえば食べるのに夢中で全く人の目を気にしていなかったことを思い出し、紀清は誤魔化すように咳払いをした。
(師匠としての威厳はまだ無事か…?)
膳を下げにそばに寄ってきた華女が手を動かしながら紀清へ話しかける。
「如何、でしたか。」
「美味かった。………翠河に聞いたが…貴殿が私の治療をしてくれたらしいな。礼を言う」
突然の声掛けに思わず肩を揺らしそうになった紀清だったが、流石にここまでやって治療してくれた相手には礼くらい言うべきだよな…と思い、紀清として違和感のない対応を心がけながら礼を述べることにした。
しかしまさか紀清から感謝の言葉を述べられるとは微塵も思ってなかったのか、華女は驚いたように目を瞬かせ、感情の乗らないままの声音で「ありがとう、ございます」と言葉を返す。その瞳は僅かに揺れているようにも見える。紀清には彼女が今何に動揺しているのはわからなかったが、あまり突っ込んでもきっと藪蛇になるだけだろうとあまり触れないでおくことにした。
その後、華女が食器を返しに行き、紀清は翠河と部屋に二人っきりとなる。紀清は徐に瞳を閉じ、神力の巡りを確認することにした。翠河がそわそわとした様子で紀清の姿を窺う。
「どうですか、師匠。神力はお戻りになられましたか」
「…ああ。本調子とはいかないが、ある程度は戻ってきたようだ」
「そうですか!よかったです。それでは師匠、いつ水泉にお帰りになられますか?」
「…日が落ちるまでには出る。」
紀清としては早めにこの王林の居る木谷邸を出たくて仕方がなかったので、勝手に今日中にここを出ることを決めた。というか手負いの他派の主神なんて木谷派としても長く置いておきたくはないだろうし、そもそも仕事が滞っている水泉派が今頃どうなっているかは想像にかたくない。書類の山がどれだけ積み重なっていることだろうか…想像するだけで恐ろしい。
どちらにせよ、紀清は早めに水泉邸に戻らなければならないのだ。
それから翠河と共に王林に今日中に帰ることを伝えにいけばやけにあっさりと「わかりました」と言われ逆に何か思惑があるんじゃないかなんて疑ったりもしたが、特に何が仕掛けられるなんてことはなかった。ただ結局最後まで氷雪丸が王林の部屋から帰ってこなかったのだけ気になったが…
(と言うかあいつずっと腕に抱かれてなかった?何?もしかして主鞍替えされた?)
若干の不安に苛まれたが、流石にそれはないことを信じたいと紀清は一旦氷雪丸のことについては何も考えないことにした。そもそも木谷派に保護される原因になったのあいつだし。むしろ俺が鞍替えするべきなのでは?
紀清はもし氷雪丸と誰かを取り替えるのなら王林のあの緑色の狐がいいな、と思った。王林の狐は表情がくるくる変わる上に王林に振り回されたりする姿がよく見られる原作でも唯一の癒し系マスコットだった。有事の際には術で巨大化してゴリッゴリに戦闘を行うことを除けば。いや全然癒し系じゃなかった前言撤回。やっぱ俺には氷雪丸(作者入り)しかいない。
その後翠河が荷造りするのを(暇だったため)見守ったり、修練に励む木谷派の弟子達の声を聞いたりなんかしてるうちに、そろそろ日が暮れるのではないかと言う時間になった。門の前に華女と王林が見送りに出てくる。
王林が扇で口元を隠しながら笑みを浮かべる。そのまま嫌味な口調で言葉を紡いだ。
「まあ、今後もしこういうことになってもここまで手厚く看病してもらえると思わないことですね」
「ふん、別にお前にこうして世話になるつもりなどなかった。…しかし、助かったのは事実。感謝する」
ここにきたのは事故みたいなものとはいえ、一応本当に助かったのは事実なのでお礼を言うと王林は目を丸くした後小さく笑い声を溢し、腕の中の氷雪丸に楽しげに何かを告げると惜しむ様子を見せながら腕の中から解き放った。
「華女も先程礼を言ってもらえたのだと嬉しそうに話していましたよ。紀清殿…貴方本当に変わりましたね。いったいどういう心境の変化なのでしょう。少し前までだったら、華女の姿を見ただけで刀を構えてもおかしくはなかったというのに」
「…ただ少し、最近考えることがあっただけだ」
これに対して何か言うとボロが出てしまうと思った紀清は、深く詮索されぬうちに会話を切り上げてしまおうと鼻を鳴らして腕を組んだ。考えることも何も実際はただ中身が変わっただけだ。やっぱり昔馴染みに演技で誤魔化すのは無理があったらしい。紀清は密かに背中に汗をかいたが、王林はそれ以上言及するつもりはないようだった。
その後「変えの、包帯です」と華女に治療の道具を翠河が預かっていたり(なんで翠河が預かってるんだ)王林に「今後たまにあなたのところに行きますから」なんて正直やめてほしい宣言をされたりなんてしながら意外に呆気なく木谷邸を後にすることができた。ちなみに氷雪丸を帰り道で質問攻めにしたのは言うまでもない。
そしてその後、門を開けた途端に時雨率いる大量の弟子達にすっかり囲まれてしまい、心配の言葉をかけられたり無事を確認されたり泣かれたりなんてしながら普段の水泉の様子とは真逆なほどに騒がしく紀清の帰還は迎えられた。
「師匠!包帯を変えるの手伝います!」
「あ、ああ…頼む」
(ところで帰ってきてから翠河がやたら世話焼こうとしてくるんだけどこれって一体何 !?)




