第二十話 異種的対話◆
_______紀清が目を覚ます少し前のこと。
氷雪丸は、自身の顔に生暖かい風が規則的にあたるのを感じ、むずむずと目を瞬かせて浅い眠りから目を覚ました。
すると、途端目の前に現れた狐の顔に驚き、言葉にならない悲鳴をあげながら後ずさる。その動きでその狐は氷雪丸が目を覚ましたのを理解したのか、ペロリと鼻頭を舐めけぅん、と一声鳴いた。
何も状況が理解できず混乱した頭のまま口を開く。
「えっこれって一体…?」
「おや、目が覚めましたか。あんなにボロボロだったのに回復は早いんですね。あなたの主人はまだベットの住人ですよ」
「!?」
氷雪丸は、突然後方から降って来た穏やかながら少し意地の悪い響きが混ざった声に思わず身を跳ねさせた。
この時の氷雪丸の姿は、驚いて飛び跳ねたせいでしっぽが膨らみ瞳孔が丸くなっており、まるで背後にきゅうりを置かれた猫のような有様であった。もっとも、背後にいたのはきゅうりではなく扇を広げて目元にゆるりと笑みを浮かべた王林その人だったのだが。
「それにしてもあなた、しゃべれたんですね。驚きました。」
(しまった…!)
「…」
氷雪丸は、一体なんでこんなことになっているのだろうかと必死にぐるぐる考えた。
まず、なんで自分は木谷派の屋敷にいるんだ。予定では、自分は水泉邸に飛んでいるはずだったのに。
気を失う直前、王林の声が聞こえたような気がしたことを思い出し(あれは気のせいじゃなかったのか…)と項垂れる。
あの時は意識も朦朧としており、力の制御を誤ってしまったのかもしれない…いやおそらくそうだろう。
つまり、履歴を辿って過去の検索したものの場所へ飛ぶように、氷雪丸は少し前に拉致された際に連れてこられたここを縁の深いところだと勝手に体が誤認識して飛んできてしまったのだ。確かによく考えれば水泉邸から出ることの少ない自分が次に関わりがあるとしたらここだろう。氷雪丸は思わず頭を抱えそうになった。まさか王林のところに来るなんて…
「そう警戒しないでくださいよ。それとも少し前に貴方を連れ帰ったこと、気にしてるんですか?別にあなたには恨みなんてないですよ。現にあの時はすぐに返してあげようとしていたじゃないですか」
そう言いながらジリジリと距離を詰めてくる王林に、若干背中の毛を逆立たせながら氷雪丸はじっと様子を窺った。
と言うか、“あなたには”って…それつまり主人にはあるって言うこと…
氷雪丸は一旦考えるのをやめた。
「ねえ、ちょっと喋ってみてくださいよ。紀清が入っていた時も声は聞きましたがあなたの喋り声を聞いたのはあの時が初めてだったんですよ。せめてうんとかすんとかいったらどうです」
「…う、うん」
王林が何かを期待する子供のように頬を突いてくるので、ついその圧に耐えかねた氷雪丸は言葉を漏らしてしまった。言った後で(自分は何を馬鹿正直に言ってるんだろう)と思ったが、もう後の祭りだ。
「…!あはははっ本当にうんっていうやつがありますか!!あなた面白いですね。あんなに面白みのないやつの御使だとは思えないほどに面白い。」
しかしそんな氷雪丸の反応を王林はお気に召したらしく、普段の姿とは少し違った様子で無邪気な笑い声を上げて氷雪丸の頭を少し乱暴に撫で回す。いくら言葉がわかるとはいえ、この場には動物しかいないと言うことで気が緩んでいるのだろうか。
その意外なほどに元気な様子に少し氷雪丸は慄いたが、同時に言葉通り決して悪いことにするつもりはないようだと思い至り警戒を少し解いた。
「いやあ実に愉快だ。あなたちょっと暇つぶしに私の喋り相手になってくださいよ。見ての通り私の使いの狐は喋れないので。」
キュウン
狐と王林の瞳が氷雪丸を貫く。
「エッ」
結局、未だ治っていない怪我のせいで逃げることすらできない氷雪丸に拒否権があるわけもなく、それからずっと話に付き合わされることとなった。
初めこそ紀清の容体や霞ノ浦や翠河のこと、救援に向かった時のことなどを状況判断のためにこちらから恐る恐る質問していたのだが、相手が動物だからなのか多少油断しきってへラリと笑いながら質問に答えていく様子にあまりにも前回の“王林”と似たものを感じてしまい(似ているも何も同一人物ではあるのだが)つい途中から氷雪丸の態度も砕けたものになっていった。
王林は特にそれを気にした様子もなく、駄弁るようにくだらない会話を交わし合う。
やがて話の内容は共通の話題…紀清のものへとなっていった。
「いやあ、本当に最近紀清殿はなんだか柔らかくなったというか…まあ、率直に言うと変ですよねえ」
「そうですかね。と言うか、そんなこと自分に言われても困るんですけど。」
「なんでですか、彼を一番近くで見ていたのはあなたでしょう?」
王林が“こちらの方が話しやすいので”と言い包め膝に乗せた氷雪丸の肉球を弄びながら覗き込む。
「御使が主人のことを全部知っていると思ったら大間違いですからね!…あなた主とは仲悪いのになぜそんなに興味を示すんです」
「だって気になるでしょう。少し前まで自分のことを視界にすら入れないようにしていた男が、こちらの目を見て一言二言とはいえ突然会話する気になったようなんですよ。ねえほんと、彼何があったんですか?」
確かに、原作ではこの時期の紀清は王林のことを徹底的に無視している時期だった気がする。なるほど、会話を交わすと言う行為だけでも王林なら違和感を持つはずだ。
「知りません。本人に聞いたらいかがですか」
「ふふ、あなた以外とドライですね。でも…わざわざ本人に聞く必要あります?……やっとこっちを見てくれるようになったのに」
「…」
「それに…今私が興味を示しているのはあの男ではなくあなたなんですから、そうつれなくされると困ります」
「…そーですか」
「ええ、あなたはなんだか不思議だ。少し前まではただの猫だと気にも留めていませんでしたが…一体いつから話せるようになったんですか?前回会った時は全くそんな素振りなかったのに」
「…最近ですよ」
横に目を逸らしながら答えた。まあ、嘘はついてない。
「あなたと会話していると、なんだか話しやすくていいですね。どうです、うちに転派しません?この子と交換でもいいですよ」
そう言って足元で丸くなっていた狐を指さすと、全部の会話を理解していた狐は目を丸々にして潤ませ、キューンと縋るように鳴き声を上げた。そのまま王林の裾に噛み付いたので、王林が笑い声を上げながら頭を撫でる。
「ごめんなさい嘘ですよ。そんなに泣かないで。…それじゃあどうです?いっそこちらに貰われるなんて言うのは」
「…お断りします。」
「まあ、でしょうね」
わかっていたと言わんばかりに眉を上げて肩をすくめる。王林は皮肉にさえ慣れてしまえばとっつきやすい部類に入ると氷雪丸は思っていたのだが、たまにこうしてわかった上で質の悪い冗談を言ってくるところは割と苦手としている部分であった。
そして氷雪丸には、気になっていることが一つある。
「…主に治療する時、変なことしてないでしょうね」
それは、先ほどから紀清のいる部屋の辺りを出入りしている黒髪の女の存在だった。
氷雪丸の記憶が正しければ、今この立場で出会う彼女にあまりいい印象はないのだが…
「するわけないじゃないですか。華女だって今は治療のために出入りしてるだけです。………消すにしても、今はまだその時じゃない」
そう言って目を細める王林に、思わず警戒して身を固める。
しかし背を撫でていた王林はそれに気がついたのか、「まあまあ警戒しないでくださいよ」なんて言いながら扇を仰いだ。
「ふふ、しかしあいつを消せばいずれあなたも消えてしまうんですよねえ…困りますね、せっかくいい話し相手を見つけたのに」
「…じゃあ、いつでも話しには付き合いますから…どうか主人にはお手を出さぬよう」
「おや良いのですか?ではそれは縛りなしの約束、と言うことで。じゃあもう少しお話しましょう。」
そう言って機嫌良さそうに顔を上げた王林は、遠くを見つめながらどこか懐かしむような口調で口を開いた。
「そうですね…くだらない、昔話なんてどうでしょう」




