第十九話・裏 ただの猫と神だった前世
そもそも、自分はこの小説の作者だが、なんでこんなことになったのかについてはとんと見当がついていなかった。
氷雪丸は猫だ。しかもただの猫ではない、この世界の天上界と言われる世界を管理する五柱の神々の一人である水泉派の紀清の御使の猫だ。御使の獣はそれぞれ五神に一人一匹、それぞれの気風を表した動物が与えられる。
そしてそれらの動物は主人と非常に深いところで繋がっており、同じ神力を有している。そのため戦闘の面でも重宝され、時には御使だけに戦わせる神だっている。そして自身の神力がなくなればその御使から貰うことで難を逃れたりすることがある。便利な戦える予備バッテリーみたいなもんだった。
そして、そんな特別な猫こと氷雪丸の中にいる人間は、以前はこの体の主人のはずの紀清であった。そして、その以前はさらにこの作品の作者であるだけのただの人間だった。
思い返せば、奇妙ことばかりだ。この王道ファンタジー小説を書き上げ、満足して眠りについたのがその日の夜。二度とその体で目を覚ますことはなかった。次の日の朝、自分は紀清として目を覚ました。
そりゃあもうその時の心情なんて焦ったなんてもんじゃなかった。なんてったってこの紀清は最終的に同期の運命を共にする五神の一人の手によって殺されてしまうのだから。そしてそれら全ての原因となる主人公が自分の目の前に現れるのが後数日っていうんだからもうどうしようもなかった。もうどうしようもなくなって、焦って、三日部屋に引きこもって考えて出した結論は、「そうだ、長生きしよう」であった。
それからは本当に頑張った。なんて言ったって紀清が長生きすることは至難の業だったのだから。なんでかって?そんなの、自分がそう言うキャラクターに作ったからに決まっている!紀清の死は主人公が乗り越えるべき苦難として当たり前のように目の前に横たわっているものなのだ!それがなくなってしまえばどうやったって原作の崩壊は免れない。しかも殺される相手…王林が厄介だった。
作者だからわかっていた。王林の辛い過去も、小説には書かなかった裏設定も、それゆえに出来上がってしまった歪んだ人格も、全部知っていた。そして個人的に一番思い入れのあるキャラクターも、実は悪役である王林なのだった。主人公の翠河のことが嫌いなわけじゃないが、ある意味王林は作者の分身のようなつもりで作っていたキャラクターだった。彼の性格の根底にあり続ける劣等感、嫉妬、妬み僻み、苦しみ…執着心。全部が全部、自身の深いところにあった人様には晒せないような感情を濃縮し、付与したのが彼だった。それゆえに彼は王林のことが一番気に入っていた。だから彼に殺されたくなかった。
だって、そもそも殺されるのは嫌だ。と言うかなんで紀清なんだ、其処は王林になるべきなんじゃないのか!?
紀清は今王林と仲違いしているんだ、会話することだってできやしない。
悩んでるうちに、この作品の主人公がやってきた。
自分は焦っていた。なぜなら、長生きしようと決意したはいいものの何一つ対策なんて考えられていなかったからだ。そして、思った。王林と同じところまで、この紀清の体で堕ちてしまえばいいじゃないか、と。
それからは早かった。紀清は翠河を虐め抜くことにした。師と呼ばれることを拒絶した、重傷を負うと分かっていながら任務を遂行させ、そのまま放置した。原作で書いたように師として愛しまなかったし、決して心を許さなかった。初めは期待と尊敬でキラキラと輝いていた翠河の瞳は、数年と立たないうちに光を失い希望を抱かなくなった。しかし、それでいい。自分で作った主人公がだんだんと陰っていく様子を見て何も思わなかったわけではないが、仕方がない事なのだ。しかし主人公はそれでも竹のように育っていき、立派に神力を扱えるようになった。師の教えなど初めからいらなかったのだ。なんせ、主人公はその素質を持っているのだから。
そしてその時が来た。王林が水泉邸へ闇討ちに来たのだ。無防備に晒された首に刃が迫る。
其処で自分は、目を開けた。王林の手首を掴み懇願するように“翠河が怖い”と告げた。彼は一言「面白い」と言って、一時休戦を告げた。自分の寿命は伸びたのだ。自分は運命を捻じ曲げ生きながらえたのだ。
その日の晩は一睡もできなかった。なんだ、こうすれば良かったのか。紀清は自分が所詮“悪役”と呼ばれる者になっていたことに気が付いていなかった。少なくともこの時は。
それから王林と距離を詰めるのに時間はかからなかった。なぜなら彼の方から寄ってきたのだ。
前からちょっかいをかけられることはあったが、どれも悪意に満ちたものだった。しかし彼はただ興味という感情だけで紀清に接触を繰り返した。紀清は、渡に船だと彼との会話を積極的に続けた。やがて、本当に居心地が良くなり、互いに信頼を置き、肩を組んで酒を飲み交わすようになるまで時間はかからなかった。
なんせ、自分に似せて作ったキャラなんだ。気が合わないわけがなかった。
彼は初めは以前の紀清と少しずつズレている違和感に首を捻っていたが、やがて紀清が自分と同じところまで堕ちてきたのだと知ると、それからはとても機嫌良さそうに話しかけてきた。わざわざ仕事を早く片付けて、同じ感情を共有できる者との会話を楽しもうと水泉邸に通い詰めた。いっそそれは友情を通り越したなんらかの感情に近かった。しかし、彼は友情も愛情も何もかもをとうの昔に捨て去っていたので、その感情はきっと執着だった。
やがて自分たちは、お互いなしでは生きられない程に互いの存在に依存していた。だって、何を言ったって自分の望んだ答えが返ってくるのだ。しかも、同じ価値観でモノを見れる唯一の仲間なのだ。この二人にとって、天上界はいささか綺麗すぎた。ドブで育った魚は、綺麗な水では生きていけない。だから汚いところを受け入れ合える互いに執着した。冥炎はそれに気づいていたようだが、結局は同期が仲良くしていると言う現状を良いものだと見做したらしい。何も言ってくる事はなかった。
作者であることなんて忘れて、紀清はただ一人の“王林”という存在を愛した。彼は昔の自分の体がもはや必要ないとさえ感じていた。そもそも、惰性で生きていただけの人生の暇つぶしに小説を書き始めただけだったのだ。こんなことになるなんて想像もしていなかったが、現実世界に戻って理解のない人間たちと上っ面だけの言葉を交わす生き方なんてもうこの心地よさを知った紀清には無理なことだった。王林と過ごす日々は青春の焼き直しのようで全てが輝いていた。たとえそれが血の道を敷くような行為であったとしても。
そして、例の満月の次の日の夜。主人公を地獄に落とした。
地底は、まさしく地獄だ。いくら主人公といっても、そう易々と抜けれるはずがない。なんせ、神の力を全て奪ったのだから。この自分が、作者である自分が、主人公を自らの手で闇に葬った。自分の手で命を奪わなかったのは、やはり正しい道を歩ませてあげられなかった罪悪感からくるものだったのか、ただ自分が弱いだけだったのかもしれない。
しかし主人公が居なくなって、周りには悲しんでいるフリをしながら王林と束の間の平和を楽しんだ。酒も飲んだし、ふらっと旅に出たりなんかして、野宿したり、地上に降りて海を見に行ったりした。
その頃にはもう王林の敬語だってお粗末なものになっていたし、互いの寝相が最悪なことも、酒癖が悪いことだってなんだって知っていた。親友であったのだ。本当に、その犠牲の元に成り立った楽しい時間は一瞬だったのだが。
数十年が経った。主人公が帰ってきた。その禍々しい力は到底彼だとは思えないものであったが、彼は正しく復讐のために帰ってきた。元々原作の復讐相手であった王林よりも、自分の方によりドス黒い感情を抱きながら。
その時自分は思った。「ああ、報いだな」と。もうその時にはこの世界は自分にとって小説の中の世界ではなくなっていた。現実だった。そしてそれを実感するたびに、翠河への仕打ちを後悔する日々もあった。しかし、取り返しがつかないことも知っていた。だから大人しく受け入れた。神の力を剥奪される時も抵抗らしい抵抗はしなかった。そうしたら、王林が庇った。元々主人公に強く憎しみを抱かれていたのは主に紀清であったため、王林への罰はひとまず保留のような形で捨て置かれていたのに。わざわざ紀清と同じ罰を受けたがった。
そして二人で地獄に落ちた。
妖に身体中の肉を食いちぎられながら、二人で耐え続けた。一、十…数百年経った。王林はもとより力が強くなかったので、紀清より早くに限界を迎えた。紀清はだんだん消えゆく友の命の灯火を眺めながら、ふと脳内に何かが流れ込んでくるのを感じた。
それは、まるで走馬灯のようで…しかし、違うものだった。
今までの自分たちの人生が、小説になっている世界の記憶だった。まさか、紀清として生きた日々が物語になっているなんて。自分が大元の作者であることなんて棚にあげて、紀清は感嘆した。こんな小説何が面白くて見ているんだ。ヒロインなんて、翠河が攻め入った時に死んでしまったと言うのに。
しかし、脳裏を過ぎ去るコメントは全て賞賛の声ばかりだった。なんでだ、こんなクソ面白くない話、どこがいいんだ。そうやって走馬灯がわりに脳裏を流れゆく分の羅列を見ていたとき、とある一人のコメントがやけに目についた。この一人の人間だけが、先ほどからずっと文句を言っているのだ。
やれあの伏線はどうなっただ、ヒロインをなんで殺したんだ、あの時の力は…云々。とにかく大量に送ってきていた。どう見てもファンだろと突っ込みたくなるような細かいところまでずっと指摘してあった。
紀清はこの時、とある方法を本能的に理解していた。それは、あちらの世界の人間をこちらの世界に招き入れる方法だ。
そうして元々作者であった紀清は、氷雪丸になった。
目の前では、自分と酒を酌み交わした者とは違う“王林”が、ニコニコとこちらを見下げ笑っている。
氷雪丸には、その笑みがどこか懐かしいもののように思えた。




