その令嬢、コミュ障につき。
スフォルツァンド王立学園ーーそれは、ここスフォルツァンド王国中の貴族子女が集まる、由緒正しき学園である。数代前の王の時代から平民にも門戸を開いており、身分にとらわれない先進的な学園としても有名だ。
そんな学園のその中庭で、差し向かい言い合っている二人のご令嬢がいた。
「ひどいです、フィーネ様! ちょっとぶつかっちゃっただけなのに、そんなに睨まなくってもいいじゃないですかぁ!」
「……」
「なんで何も言わないんですか! 私みたいな平民とは口も聞きたくないってことですか!? 身分で差別するなんて、私、間違ってると思います!」
「……」
先ほどからキャンキャンと声高に叫んでいるのが、カノン・ドルチェ。平民でありながら、愛らしい相貌と性格で多くの男子生徒ーー特に見目のいい高位貴族ーーから人気のある女性だ。
それと相対するのが、フィーネ・カンツォーネ。カンツォーネ公爵がご令嬢であり、この国の第二王子の婚約者でもある、この学園の中でもダントツの身分と権力を持つお人だ。
この二人の令嬢は、学園の生徒たちに最も注目されている二人でもあった。なぜならーー
「フィーネ、貴様またカノンをいじめているのか!? 平等を謳うこの学園で権力を振りかざすとは、貴族の風上にも置けないやつだ!」
「まったく、アレグロ殿下のいう通りですね」
「チッ、これだから『人形姫』は……」
「フィーネ様ってばまただんまりー? ちょっとは喋ってよー」
「みんな、来てくれたのね……!」
ーーこのように、フィーネ公爵令嬢の婚約者であるアレグロ王子殿下をはじめ、複数人の男子生徒(全員見目のいい高位貴族)たちが、カノン嬢にたらし込まれているからである。
「怪我はないか、カノン?」
「ええ、大丈夫よ。でも、フィーネ様が許してくれなくて……うぅっ」
「ああカノン、かわいそうに……。フィーネ、貴様も何か言ったらどうだ!」
「……」
涙を抑えるように俯くカノン嬢と、それを支えるアレグロ王子。そしてそんな二人を黙って見つめるフィーネ様ーーまさしく、浮気現場に居合わせた正妻の図である。
それを他でもない一国の王子や、高位貴族たちがやっているのだ。一般生徒たちの噂にならないはずがなく、彼らは学園中の注目の的だった。
今も、「おいおい殿下たちまたやってるぞ!」「カノン嬢もよくやるよな、今だってわざとぶつかりに行ってたぞ」「『人形姫』も何か言えばいいのに。あんなんじゃ殿下にフられて当然だわ」……なんて声がそこかしこから聞こえてくる。
しかしーーざわざわとその恋模様を観察する生徒たちの中で、ただ一人ハラハラしながらその様子を眺める者がいた。それはーー
(ああああ、フィーネ様のあの顔、注目を集め過ぎて失神寸前の時の顔だ……! だ、大丈夫かなあ。助けに入りたいけど入れない……っ!)
ーーこの俺、コーダ・ムジカ。しがない平民の、一般生徒である。
◇◆◇
スフォルツァンド学園、別棟2F、音楽室ーー
誰もいないその教室の片隅に、一人膝を抱えうずくまる女生徒を見つけ、俺は声をかけた。
「こんにちは、フィーネ様。さっきは災難でしたね」
「……っ!」
女生徒はパッと顔を上げ、俺を視界に収めると、どこか安心したように頬を緩めた。
アッシュブロンドの髪に美しい緑の瞳、彫刻のように整った相貌ーー先ほどまで中庭で、婚約者と修羅場を演じていたその女性ーーフィーネ・カンツォーネ公爵令嬢だ。
俺は彼女に一度微笑むと、いつものようにピアノ椅子に腰掛け、なんとはなしに鍵盤を叩いた。ポロポロと鳴るピアノの音につられてか、フィーネ様は立ち上がりこちらに近づいてくる。
「大丈夫でしたか? あんなに注目を集めて、倒れそうな顔してたでしょう?」
『ええ、あのあとすぐに先生方が来てくださいましたから。心配してくれてありがとう、コーダ様』
フィーネ様は一冊のノートを取り出し、それに書き込む形で俺の問いかけに答えた。
紙に書いてのコミュニケーションは、俺たち二人が出会った時からの会話方法である。なぜならーー
『それに、誰かを目の前にすると声すら出なくなる、わたくしの方が悪いんですもの』
ーーなぜならフィーネ様は、他人と会話するのが苦手な、いわゆる『コミュ障』だからである。
『カノンさんは毎日話しかけてきてくださるのに、わたくしは挨拶のひとつもまともに返せなくて……本当に申し訳ないわ』
「いやあ、本来なら貴族様の許しなく平民が話しかけてる時点でアウトなんですけどね」
『それにまた『人形姫』と呼ばれてしまったし……』
「あれだって、あんな往来で未来の王子妃を貶めてるあっちの方がやばいんですけどね」
『人形姫』とは、フィーネ様のあだ名のようなものだ。それも愛称などではなく、彼女を裏で嘲るために生まれた、蔑称だった。
フィーネ・カンツォーネは、何も喋らない寡黙な令嬢として有名だ。
幼い頃から無口で、取り巻きのご令嬢方や婚約者であるアレグロ王子殿下すらその声を聞いたことがないと言われている。
おまけにゾッとするほど美しい顔が、いつでも無表情のままにこりともしないのだ。公爵家をよく思わない貴族たちから、好奇の目に晒されるのは時間の問題だった。
『自分がわざわざ言葉にせずとも、他人が察して当然だと思っているのだ。なんて高慢な令嬢だろう』
ーーそんな噂とともについたあだ名が『人形姫』。
人形のように美しく、人形のように言葉ひとつ発さない、公爵家のお姫さま……という意味だ。
(……その実態がただのコミュ障拗らせた女の子だなんて、誰も想像できないだろうけど)
俺は、ノートを抱き締めながらうんうん唸っているフィーネ様を眺め、そう思った。
ーーさて、それではなぜそんなコミュ障な彼女と、こうやって普通(?)に会話をしているのか……そもそもなぜ普通の平民である俺が、公爵令嬢と気安く話せているのか。
そのきっかけは、今から約1ヶ月前に遡る。
*
それは今から1ヶ月ほど前ーーよく晴れたある放課後のことだった。
(はあ、今日は父上のレッスンの日だっていうのに、忘れ物をするなんて……!)
その日の放課後、俺は父上からピアノのレッスンを受ける予定だった。
だというのに、学園からの帰宅途中に肝心の楽譜を忘れたことに気づき、急いで戻ってきたのである。
(一度おさらいしておこうと音楽室になんか持っていかなきゃよかった……絶対怒られるよなあ、これ)
そう気落ちしながら、しんと静まり返った学舎の中を歩く。
名家の集うこの学園では、放課後まで学舎に残っている生徒は少ない。カフェテリアで友人たちとの親交を深めているか、図書館で勉強に勤しんでいる者がほとんどだからである。
まして俺が今向かっているのは音楽室で、音楽室のある別棟は本校舎よりもさらに人の出入りがないのだ。
だからこそプライベートの少ない貴族子女たちの密会の場所になったりもするのだがーーそれは今は関係のない話か。
(とりあえず一刻も早く帰って父上の機嫌を取らなければーーーーーーん?)
そこで、音楽室へと急ぐ俺の耳に、微かな『音』が届いた。
常人より耳がいい自分だから気づいたのかもしれない。それほど小さな音だった。
(なんの音だ? 音楽室の方から聞こえてくる……)
その音は、俺が歩を進めるほど大きくなっていった。やっと意識に引っかかるほど微かだったものが、はっきりと聞き取れるほどに。
歌声だーーそう気づいた頃には、俺はもう音楽室の扉の前に来ていた。
美しい声だった。防音のための分厚い扉越しでもわかる。女性の声だ。だけど誰が? こんなに美しい歌声の持ち主が、この学園にいたのか……。
俺ははやる心を鎮め、ゆっくりと扉に手をかけた。
音楽室は、平民クラスの者でも許可なく入れる施設の一つだ。だが、中にいるのがもしも貴族令嬢だったなら、不敬だと切り捨てられてもおかしくはない。
だが、たとえそうであったとしても、扉を開くのをやめることはできなかった。この歌声の主が、知りたくて仕方なかった。
扉の隙間から流れ出たのは、圧倒的な『音』だった。
『音』が風のように頬を、全身を撫でていく。歌声が反響して、机が小さく震えていた。
低音は深く豊かで、高音はどこまでも澄んで美しい。時には小鳥の囀りのように繊細で、時には荒れ狂う海のように猛々しい。たった一人の歌声のはずなのに、背後にオーケストラでも背負っているかのように様々な色を持っていた。プロの歌い手と比べたら少々荒削りだが、その不安定さがむしろ声に魅力を足しているように思えた。
ただただ聞き入って、たちすくんでしまう。それほどに圧倒的な『声』だった。
と、そこで俺は気づいた。
(あれ、ちょっと待て、あの後ろ姿……フィーネ・カンツォーネ公爵令嬢じゃないか!?)
すらりとした背丈に、ふわりと広がる長いアッシュブロンド。美しい細工の髪飾りはアレグロ王子からの贈り物なのだろうか、彼女が常日頃から身につけているものだ。
家族以外の誰も声を聞いたことがないと噂の『人形姫』。その彼女が今、目の前で、歌を歌っているーー
そんなおかしな状況なのに、俺は我を忘れてその歌に聞き入った。この歌声の主が誰かなんて、もうどうだってよくなっていた。
胸が踊る。拳を握り込む。俺はたまらなくなって、扉を開け放ち音楽室に割り入った。
「……っ!」
突然の侵入者に驚き、歌声が一瞬止まる。
俺はそれも気にせず、無人のピアノ椅子に陣取り、思うままかき鳴らした。
「なんでやめちゃうんですか! ほら、歌って!」
「……ぇ…っ!?」
そうして俺が奏でたのは、今フィーネ様が歌っていた曲の伴奏だった。
このスフォルツァンド国の人間なら誰でも知っているだろう、この国で最も有名な歌劇の、その中でも代表的な歌だ。身分違いの恋に悩む女性の歌。叶わぬ恋に身を焦がし、ついには自ら命を絶ってしまう、切なく儚い恋の歌だ。
フィーネ様は最初は驚いて声も出ない様子だったが、俺が構わずピアノを弾き続けると、少しずつその旋律に合わせて歌いはじめた。
桃色の唇から小さな、愛らしい歌声が漏れ始める。
そして、爆発した。
フィーネ様の歌声に、ピアノの音色が絡まり、跳ね返る。どこまで出せる? どこまでついてこれる? そう挑発的に弾き方を変えれば、フィーネ様はすぐにそれに応えた。
(どうしよう、めちゃくちゃ気持ちいい……!)
伴奏としてのピアノはほとんど弾いたことがなかったが、歌い手と一つの音楽を作るというのが、これほど心躍るものだったとはーー
思わず頬が緩んだ。チラリと目線を向ければ、フィーネ様もまた『人形』のような表情を崩しているのが見えた。
ーーそうして曲が終わる頃には、お互いに息を切らしていた。俺は興奮を抑えきれないまま、フィーネ様に振り向いて話しかけた。
「す、すごいですねフィーネ様! まさかあの『人形姫』がこんなに美しい歌声の持ち主だなんて……! これ、あの有名な歌劇団の曲ですよね! もしかしてフィーネ様もお好きなのですか!? というか、なんでこんなに綺麗な声なのに普段は話さないんですか!? ハッ、まさか歌のために普段は喉を使わないようにしているとか……!?」
「……っ…!?」
矢継ぎ早に問いかけると、フィーネ様は一度目を丸くしたあと、キッとこちらを睨むように目をしかめた。
そして気づく。貴族の許しなく平民の方から話しかけるのは、大変無礼な行為だ。ここは平等を謳うスフォルツァンド学園ではあるが、それは表向きの話。実際は貴族と平民の身分差は学園内であっても存在する。
しかも俺は今、貴族令嬢が一人で歌っているところに突然押し入り、勝手にピアノを弾き鳴らし、あまつさえ歌を続けることを強要したのだ。
無礼を通り越して不敬である。しかも相手はカンツォーネ公爵家のご令嬢にして、アレグロ第二王子殿下の婚約者である、フィーネ様だ。己の声を婚約者にすら聞かせないと噂の、高慢な『人形姫』なのだ。
(しかも『フィーネ様』とか気安く呼んじゃったし! 本人に対して『人形姫』とか口走っちゃったし……!)
やばい、もしかしなくても、やってしまった。
俺は顔を真っ青にして、フィーネ様に向かって深く頭を下げた。
「し、失礼しました! 俺、じゃなくて私は、しがないピアノ弾きでございまして! 音楽家の端くれとして、あまりの美しい歌声に黙っていられず、つい乱入してしまいました!」
地面に頭を擦り付ける勢いで頭を下げる。しかし、いつまで経ってもフィーネ様からの反応はない。
さすが『人形姫』、こんな時でもダンマリか……そう思い目線だけで様子を伺うと、彼女は美しい相貌を歪めたまま、
「……ぁ…」
「あ?」
赤くなって、
「……ゎ…」
「わ?」
青くなって、
「……た…」
「た?」
土色になって、
「…………」
「フィ、フィーネさまあああああああ!?!?!?!?」
ふらりと後ろに倒れたのだった。
「だ、大丈夫ですか……?」
「……」
倒れたフィーネ様を抱き起こし、力の入っていない体を壁にもたれさせる。
支えた体は俺が思っていたよりずっと細く、軽かった。貴族のお嬢様とはこんなに頼りないものなのか……少しドキドキしてしまった。
多少落ち着いた様子のフィーネ様だが、やはり言葉は何も発さない。沈黙に耐えかねて、俺は自分から声をかけることにした。
「え、えーと……。自己紹介が遅れました、俺はコーダ・ムジカ。第4学年の平民クラスに所属しています。平民の身分ではありますが、曽祖父の代から続く音楽一家で貴族様の家に呼ばれることも多く、その縁あってこの学園に通わせてもらっています」
「……、ぁ…」
俺が名を名乗ると、フィーネ様はやっと小さく声を漏らした。堂々とした歌声とは正反対の、か細くか弱い声だった。
そしてまた雪のように白い肌が青く染まっていく。ここまでくると、俺も不審に思わざるを得ない。
(もしかして彼女は、『話さない』のではなく、『話せない』のではないか?)
まさか、未来の王子妃ともあろうお方が、そんなことあるはずがないーーそう思いつつ、俺はこの音楽室に忘れていた楽譜と、胸ポケットに入れていたペンを差し出し、言った。
「よかったら、この楽譜の裏、使っていいので……。何かおっしゃりたいことがあるのなら、ここに記してみてはいかがでしょうか……?」
「……」
俺がそう言うと、フィーネ様は驚いたように目をパチクリと開いた。「その手があったか」とでも言いたげな目だ。次いで「本当にいいの?」と気遣わしげな顔をしたが、俺が微笑んだまま楽譜を差し出すものだから、諦めたようにそれを受け取った。
『先ほどは支えてくださってありがとうございます。わたくしはフィーネ・カンツォーネ。第3学年の貴族クラスに所属しております』
思わず苦笑いした。知ってますよ、この学園の生徒なら誰でも。
そうは思ったが、口には出さない。フィーネ様がまだ何か文章を書き続けていたからだ。
『それから、せっかく話しかけていただいたのに、何も返せなくてごめんなさい。わたくし、誰かが目の前にいると』
そこで手が止まった。フィーネ様が窺うようにこちらを見やった。何も言わずに続きを待っていると、意を決したように続きを記した。
『わたくし、誰かが目の前にいると、緊張して声が出なくなってしまうのです』
ーー予想はしていた。たかだか平民に話しかけられたくらいで、怒るのならともかく倒れるだなんてどう考えてもおかしい。それに、彼女は先ほども今も口を開いたり、喉から声のようなものを漏らしたりしていた。あれは何かを言おうとして、だけど声が出なくて、必死になっていたのだ。
なんてことだ。『人形姫』の正体がーーいわゆる『コミュ障』だったなんて。
驚く俺を尻目に、フィーネ様は続きを書き記していた。
『幼少期はむしろ、お喋りで活発な性格だったのです。だけど、アレグロ殿下と婚約し、王子妃教育が始まりーー『話す』ことに教育係から厳しい指導が入るようになりました。淑女たるもの『お喋りであってはいけない』『そんな言葉づかいではいけない』『声色も気にしなくてはいけない』……何をどう話してもそんなことの繰り返しで、わたくし、すっかり『話すこと』が怖くなってしまいましたの。それ以来、誰かが目の前にいると、何を話していいのか、どう話せば怒られないのかと怖くなってしまって……声も出せなくなるのです。こんなの失礼だ、何か話さなければと思えば思うほど、頭が真っ白になってしまって……』
フィーネ様はそのまま、使用人や友人たちは自分が何か言わずともすぐに察してくれるため克服されることなくここまできてしまったこと、両親や兄弟たちは忙しく滅多に会話もできないことなどを紙に書き綴った。
すべて読んで、絶句した。コミュ障というよりむしろ対人恐怖症、もはやトラウマとなっているのだ。
王子妃教育が厳しいものだとは聞いてはいたが、他人との会話がトラウマになるほどのものだとは……。俺はフィーネ様に心から同情し、そして今まで友人たちと『人形姫』の噂話に興じていた自分を恥じた。
顔を青くした俺の様子に気づいたのか、フィーネ様はハッとして『だけど』と書き足した。
『だけど、歌う時だけは、自由に声が出せるのです』
「歌?」
『ええ。幼いころ、お父様に連れて行ってもらった歌劇に感銘を受けて、真似してよく歌っていたんです。人と話せなくなってからも、歌うことだけはずっと続けてきました。といっても、こうしてこっそり一人で歌うばかりですけれど』
フィーネ様は、そう書いて小さく笑った。どこか諦めたような、寂しげな笑顔だった。
「こっそりって、今までもこの音楽室に来て一人で歌っていたんですか?」
『ええ。放課後の別棟は滅多に人が来ませんから』
「それじゃあ……それじゃあ俺もまた、ここに来ちゃダメですか!? 俺、また貴女の歌声が聴きたいです。貴女の歌に合わせて、またピアノを弾きたいです……!」
俺がそう言うと、フィーネ様は目を丸くしてこちらを向いた。エメラルドの瞳に俺の平凡な顔が映って、少し恥ずかしくなる。
「……っ…!?」
そして、真っ赤になった。
いつも澄ました顔をしているーー今思えばあれは混乱している時の表情なのだろうーーフィーネ様の、実に少女らしいその表情に、俺はついついニヤけそうになってしまった。
そうして何度か瞬きをし、口をパクパクと開閉したあと、震える手で何かを書き記した紙を俺の方に差し出した。
『こちらこそ、もう一度、貴方のピアノで歌いたいです』
それが俺たちの、出会いの話である。
*
ーーそれから1ヶ月。俺たちは放課後や昼の休憩時間に、こっそりとここを訪れては共に音楽を奏でた。
お互い王子妃教育にピアノのレッスンにと忙しいため、回数としてはそれほど多くはない。だが、今では(紙越しであれば)コミュニケーションもたやすくとれるようになった。怯えられ失神までされたあの日とは大違いだ。(余談だが、父上のピアノレッスンには遅れるわ、楽譜に何か大量の書き込みがされているわで大変怒られたが、カンツォーネ家の名前を出したら大人しくなった)
そんな出会いのエピソードを思い出しニヤけていると、フィーネ様が不思議そうな顔でこちらを見上げてきた。
「すみません、ついフィーネ様と出会った日のことを思い出していて」
『やだ、恥ずかしいわ。あの時は本当に失礼しました』
「いえ、こちらこそ不敬な真似を……。でも実際、冷や冷やしてましたよ。あの時はフィーネ様のことを何も知りませんでしたから。いつ『平民ごときが気安く話しかけるな』と叱られるか、ビクビクしていました」
冗談めかしてそう言うと、フィーネ様は口元に手を添えてクスクスと笑った。
彼女の笑った顔は、いつもより少し幼く見えて可愛らしい。美しい『お人形』が愛らしい普通の少女へと変わる、めずらしい瞬間だ。
フィーネ様は、実際に話してみるととても優しい人だ。そして意外にも表情がコロコロ変わる、わかりやすい人もである。
彼女に少しでも関われば、『人形姫』の噂なんて嘘っぱちだとすぐにわかる。それはコミュ障だということだけではない。こうして平民である俺との口約束を守って音楽室に足を運んでくれたり、紙越しだとしても気取ることなく話してくれたり……。そんなことをできるフィーネ様が、人々が噂するような高慢な令嬢であるわけがないのだ。
『ここは平等を謳うスフォルツァンド学園ですもの。平民の方に話しかけられたからといって、それで叱るなんてあるはずがありませんわ』
いやあ、『平等』なんて表向きの文句、守っている人の方が少ないですけどね。
『アレグロ殿下も、昔は選民思想じみたところがあって心配していましたが、今では平民の生徒と親しくされていて安心しましたわ。王子自ら動くだなんて、婚約者としてとても誇らしいですわ』
いやあ、アレグロ殿下が親しくしてる平民なんて例のカノン嬢くらいですけどね。というかあのイチャコラ浮気現場がフィーネ様にはそんな風に見えてるの? もしかして天然?
『ですから、カノンさんに話しかけて頂けるのもとても嬉しいのですが……やはりうまく受け答えできなくて、申し訳ないばかりです』
フィーネ様は、シュンとした様子でそう紙に記した。
フィーネ様と会話するようになって気づいたことだが、彼女はコミュ障ではあるが人嫌いではないのだ。むしろ誰かと会話したり、同じ時間を共有するのは好きな方なのだと思う。
だから、アレグロ殿下や取り巻きの令嬢たち、果てはカノン嬢相手でさえ、「また会話ができなかった」とこんな風に落ち込むのだ。
「……フィーネ様は、やっぱりどうにかしたいと思ってるんですか? その、会話が苦手なところ」
「……」
俺が問いかけると、フィーネ様は驚いたように目をパチクリとさせ、そのあと逡巡するような表情になった。
そして、ノートの上でペンを何度か上下させ、書き込んだ。
『できることならば』
教科書みたいに美しい文字列が、少しだけ震えて見えた。俯いた横顔は、どこか諦めの色が混じっていた。
『何も話さずとも周りの方々が察してくれるこの状況に、甘えていたという自覚はあるんです。そのせいでわたくし、アレグロ殿下とも、いつもそばにいてくれるご友人たちとも、まともに会話をしたことがないの。ーー彼らとお話をしてみたいんです。普通の学生たちのように、なんでもない会話に、わたくしも混じってみたいのです』
ノートに書き込まれたのは、悲しいほど小さな願いだった。普通の少年少女であれば、願わずとも叶うようなことだ。
胸がきゅっと締め付けられるような感覚がした。悲しかったのだ。フィーネ様が、こんな些細なことを必死に願っていることが。
そして同時に悔しかった。『人形姫』の噂のことだ。こんなに優しくて、悲しい人が、学園では『高慢な姫君』だと裏で嘲られているーー
アレグロ王子とカノン嬢のことは、本来なら二人の方が問題視されるべきことだ。王命によって決められた婚約者がいるというのに、その婚約者の前で堂々と不貞を行なっているようなものなのだから。
だが、学生の間では、アレグロ王子やカノン嬢に同情的な意見もある。なぜならその婚約者がフィーネ様ーー『人形姫』だからだ。
婚約者にすら声を聞かせないような令嬢なのだ、他人に奪われてもしかたないだろう……そう言ってフィーネ様を責める者も、少なくない。
(こんなに優しい人が、裏で悪口を言われているなんてーー)
先ほどの中庭でも、口さがなく言う者もいた。それを思い出して、俺はまた胸が苦しくなるのを感じた。
「それならーーそれなら俺、協力します。フィーネ様が、声を出せるように」
思っていたよりもすんなりと言葉になった。フィーネ様は、呆けたような目でこちらを見ている。
「どうにかしたいと思っているんでしょう? なら、一緒に頑張ってみませんか? 俺、いくらでも協力します。声を出せるように、人前でも緊張しないでいられるように」
「……」
「だって、会話はまだ無理ですけど、歌は歌えるじゃないですか! ノートに書いてなら、問題なくコミュニケーションも取れているし。だからきっと、慣れだと思うんです。事情を知っている俺なら、いくらだって会話の練習台になれるでしょう?」
同情もある。フィーネ様との関係を繋ぎ止めたいという下心も。だけど何より、彼女のために何かがしたかった。目の前の少女の小さな願いを、俺が叶えてあげたかった。
と、そこまで言って、フィーネ様がぽかんとこちらを見上げていることに気づいた。途端に恥ずかしくなって、しどろもどろに言う。
「も、もちろん、フィーネ様が嫌なら、無理強いはできませんが……」
バツが悪そうな俺の様子に、フィーネ様はブンブンと大きく首を振った。そうして焦ったようにペンを走らせ、
『よろしくお願いします、コーダ様』
差し出されたノートには、そう書かれていた。
◇◆◇
「要は慣れだと思うんですよ。紙越しとはいえ、俺相手の会話はすぐに慣れたじゃないですか」
いつもの音楽室の片隅で、俺はピアノ椅子に腰掛けながらそう言う。フィーネ様もまた席につき、まるで講義でも聞くようにコクコクと頷いた。
「ですから、少しずつでも声を出す練習をしてみましょう! ではまず、自己紹介をしてみてください。どうぞ!」
「ぁ……」
俺が合図を出すと、フィーネ様は一度赤くなって、
「ゎ……」
青くなって、
「……っ…」
「フィッ、フィーネ様あああああああ!?!?」
ふらりと後ろに倒れた。……またこのパターンかい!
『申し訳ございません、コーダ様……』
「いや、俺の方こそすみません……いきなり声を出せなんて、ハードル高すぎましたね」
倒れたフィーネ様を介抱していると、青い顔のままそう書かれたノートを差し出してきた。震えた文字列にこっちの方が申し訳なくなる。
それにしても、最初から話させようとするのはさすがに急ぎすぎたようだ。となると、まずは言葉を使わないコミュニケーションから慣れさせるのがいいだろうか……。
よし、と心の中でつぶやいて、俺はまだ青いままのフィーネ様を振り返り、言った。
「フィーネ様、作戦変更です! 次からは『ノンバーバルコミュニケーション大作戦』でいきましょう!」
「……?」
はりきってそう言う俺にフィーネ様は、『何を言ってるんだコイツは』とでも言いたげな目をよこした。
*
「聞いてくださいな! あの平民女、今日もまたアレグロ殿下につきまとっていましたのよ!」
「まあなんてふしだらなこと……! 婚約者のいる殿方に色目を使うなんて、信じられませんわ!」
「殿下も殿下ですわ。民を導く立場でありながら、自らの不貞を隠しもしないなんて……! そう思いませんこと、フィーネ様!?」
「……」
ーーところ変わって、ここは学園内のカフェテリア。学生たちがランチやお茶を楽しむ場所である。
規則正しく並ぶ円卓の中、カフェテリアでもっとも景観が良い場所の一つーー暗黙の了解で高位貴族専用のテーブルとなっているーーで、噂話に興じる者たちがいた。フィーネ様と、その取り巻きの三人のご令嬢たちである。
「この間なんて、休日に城下で二人でいるところを多くの学生が見たそうですわ!」
「まあ、平等を謳うこの学園内ならまだしも、外でまで殿下に付き纏っているということ!?」
「殿下も殿下ですわ。婚約者のいる身ながら他の女性と堂々とデートをするなんて……! 許せませんわよね、フィーネ様!?」
「……」
ただでさえ高位貴族のご令嬢方の集まり、しかも内容が内容であるため、先ほどから学生たちの注目の的となっている。
そしてその中でも、まったく別の意味で彼女らに注目している生徒が一人ーー
(よし! そこですフィーネ様! 今こそ作戦を実行に移すときです!)
ーーこの俺、コーダ・ムジカである。
俺は今、フィーネ様たちのテーブルから少し離れた席に座り、他の学生たち同様こっそりと彼女らの話に聞き耳を立てていた。もちろんアレグロ王子やカノン嬢に対する愚痴を聞きたいからではない。フィーネ様のコミュ障克服作戦のためである。
あのあと、とにかくハードルを下げた状態から少しずつ他人とのコミュニケーションに慣れていこう、とフィーネ様と話をした。
そのために、相手は知り合って1ヶ月程度の俺ではなく、フィーネ様の取り巻きーーではなく、ご友人方の方がふさわしいだろうと考えた。
何も話さない『人形姫』とはいえ、公爵令嬢は公爵令嬢。フィーネ様の取り巻きは数多くいる。その中でも『友人』と呼べるほど親しい間柄なのは、三人だけだ。
カペラ・ヴィヴァーチェ侯爵令嬢、マイナ・セレナーデ伯爵令嬢、そして大商人の娘であるピウ・モッソ嬢。
彼女らは皆、カンツォーネ公爵家と親しくしている家の令嬢たちで、この学園に入学する前から付き合いのある、いわゆる幼馴染というやつらしい。
『慣れ』という点なら、実の家族や実家の使用人たちの次に慣れている者たちのはずだ。紙でのコミュニケーションにもすぐに慣れたのだから、声を出せるようになるまで言葉以外の方法で他人に慣れていけばいいのだ。先ほどからチラチラとこちらを気にしている様子のフィーネ様に、バチリとウインクをして合図を送った。
(さあ今ですよフィーネ様! ノンバーバルコミュニケーション大作戦、その1です!)
俺の合図を受け取ったフィーネ様は、小さく頷いて取り巻きの令嬢たちを振り返った。何か決意した様子のフィーネ様の表情に、令嬢方は不思議そうな顔を返す。
そして三人の令嬢たちとそれぞれ目を合わせたあとーーにっこりと、笑った。
(そう、それですよフィーネ様! コミュニケーションの基本は表情……題して『笑顔でみんなと打ち解けよう大作戦』です!)
俺はフィーネ様の笑顔を遠目に見つめ、心の中でガッツポーズをした。
フィーネ様は他人と接するとき、言葉を発さないだけでなく表情もほとんど変えない。基本無表情であることも、『人形姫』の噂の一因となっている。
そんな彼女が、ほころぶような優しい笑顔で笑いかけてくれたら? 誰もが驚いて、フィーネ様に夢中になるに決まってる。フィーネ様の本質は、冷たい『人形姫』なんかじゃないのだから。
ーーそう、思っていたのだけれど。
「ヒィッ!? フィ、フィーネ様が氷のような笑みを浮かべてらっしゃる!?」
「も、申し訳ございません! フィーネ様の前でアレグロ殿下を貶めるような真似をして……!」
「この笑みはあの平民女への怒りの表れなのかしら、それとも平民なんて放っておけという余裕の笑みなのかしら……」
取り巻きの令嬢たちは、それぞれ怖がるようなリアクションを返した。
……あれ、おかしいな。思ってた反応と違うぞ。
「……」
「ヒョエェッ!? フィ、フィーネ様、どうかお怒りを鎮めてください!」
「も、申し訳ございません! 申し訳ございません!」
「あのカノンとかいう平民女にお怒りなら、わたくしたちが代わりに言って聞かせておきますから!」
俺と同じことを思ったのか、フィーネ様はダメ押し気味に笑顔を深めた。が、返ってくる反応はさらに悪くなるばかりだ。終いにはカノン嬢のところまで駆け出していきそうな勢いに、フィーネ様は慌てて首を振った。
(……あれ、おかしいな。そこまで取り乱すほど、フィーネ様の笑顔は恐ろしかったか?)
そう思い周りを見回すと、他の学生たちの反応も似たようなものだった。まじか。
たしかによく見れば、気負っていたせいか口の端は引き攣り目は笑っていない。こんな笑顔をあんな話の最中に向けられたら、何か勘違いしてしまっても仕方ないのかもしれない……。
「……」
思っていたのとは真逆の反応に、フィーネ様が困ったようにこちらを見ている。
……失敗してしまったのなら仕方ない。それなら作戦第2弾だ! 俺は再びフィーネ様に合図を送った。
「……」
俺の合図を確認したフィーネ様は、ひとつ頷いたあと侍女に目線を送り、令嬢たちの前にそれぞれ美しく包装された箱を差し出した。
「……? これ、もしかして、わたくしたちへのプレゼントですか?」
取り巻きの一人であるカペラ様がそう尋ねる。フィーネ様は無言でコクリと頷いた。
令嬢たちはお互い目を合わせ、おずおずとした様子でその包装を丁寧に剥いていく。
(よしよし、いいぞフィーネ様! これが作戦第2弾、『プレゼントで懐柔しよう大作戦』だ!)
人は何かを施されたら返したくなる生き物なのだ。それも、今贈ったプレゼントは、令嬢たちがそれぞれ欲しがっていたものなのだ。公爵家の情報網を駆使して調べさせてもらった。
そんなものをサプライズでもらったら、気分が良くなって当然だろう。こうしてフィーネ様の好感度を上げることによって、親交を深めようという作戦なのである。
「……ッ! これ、隣国でしかとれない特殊なピンクパールのネックレスではありませんか! とても希少で、隣国の貴族ですら滅多にお目にかかれないと噂なのに、どうして……!」
「こっちはもう廃盤になってしまった幻の推理小説の初版ですわ! プレミアがついて今の値段は天井知らずのはず……!」
「わあ、お菓子の有名ブランド『ガディバ』の限定ケーキです! 要予約で3年先まで埋まっていると噂だったのに……!」
よしよし、こっちの反応は上々なようだ。心なしか、周りで聞き耳を立てている学生たちもそわそわとして見える。
思った以上に好感触だ。これは『プレゼントで懐柔しよう大作戦』は成功と言っていいのでは……!?
……そう思った矢先、
「これはつまり賄賂……! つまり、財務大臣を務める我が父にこの状況を知らせ、国庫を握り国王陛下を脅せということですね……!?」
どうしてそうなった!? 思わず椅子から転げ落ちそうになる。フィーネ様も焦ったように首を大きく横に振った。
「ではスフォルツァンド王国の食糧庫といわれる我が領地の作物を、王都へは卸さないぞと国王陛下を脅せということですか!?」
それも違う! というかなぜ国王陛下を脅す方向でみんな考えているんだ!?
「まあお二人とも、陛下にまで話を持っていくのは流石にやりすぎですわ。カノンさんがアレグロ殿下におねだりしているドレスの値段を法外に釣り上げてアレグロ殿下にダメージを負わせろ、ということですわよね?」
やっと国王陛下から離れてくれた……けどそれも違う!
フィーネ様もまた首を大きく振って否定する。そんなフィーネ様の様子を見て、「では何をして欲しくて賄賂なんて送ったんですの?」と令嬢たちは首をかしげた。
いや、だからなんで素直に受け取らず、賄賂だと思われるんだ!? フィーネ様、みんなにどんな悪いイメージを持たれているんだよ……。
ーー結局、「これは賄賂ではない」と令嬢たちの誤解を解くのに必死で、その日は好感度を上げるどころの話ではなかった。
*
『………………うまくいきませんでした』
「え、えっと……こ、こんなときもありますよ! 次、次頑張りましょう!」
音楽室の片隅でうずくまり、そうノートに書き記すフィーネ様に、俺はそう答えることしかできなかった。
まさか笑っただけであそこまで怖がられるとは……。全く会話はしないとはいえ、一応友人関係なんだよね……?
フィーネ様はあからさまに落ち込んだ様子だ。今までまともな友情を築いてこなかったことをあらためて突きつけられたようで、ショックなのだろう。
(歌ってる時はあんなに堂々としてかっこいいのになあ)
丸まった背中を見つめて思う。初めて見たときも、それから何度かここで落ち合ったときも、心から歌を楽しんでいる姿は見ていてとても気持ちがいい。
それに、取り巻きの令嬢方から攻略するというのは、悪くない作戦だと思うのだ。
あの三人の家はカンツォーネ公爵家とつながりが深い。今までまともに話したことがなくとも、幼馴染としてずっとそばにいたのはそれが大きい。今更フィーネ様がちょっとおかしな行動をしたところで、そう簡単にフィーネ様の『友人』という立場を捨てるとは思えないのだ。
(あれ、そういえばあの三人……)
そこまで考えて、あることを思い出す。
ふむ、と少し考えたあと、俺はフィーネ様を振り返り言った。
「あの、フィーネ様。今週の週末って、空いてますか?」
俺が問うと、フィーネ様は一瞬考えるように首をかしげたあと、こくりと頷いた。
「それじゃあ、息抜きしに行きません? 落ち込んでても仕方ないし、俺、フィーネ様をぜひ連れて行きたいところがあるんです」
ニンマリと笑って言う。含んだような笑みに少し怯んだフィーネ様だったが、しばし考えた後、小さく頷いたのだった。
*
週末、城下、平民街ーースフォルツァンド学園から降りたすぐそこは、王都でも屈指の賑わいを見せる商店街となっている。
大通りには馬車が行き交い、道を挟んで多くの店が立ち並ぶ。レストラン、宝石店、テーラーショップに帽子屋、本屋……学園に近いため並ぶ店々はどこか若者向けだ。
そんな商店街を裏道に入り、少し奥。古ぼけた外観の建物の中に、俺とフィーネ様はいた。
『コーダ様。何なんですか、ここは』
やけに震えた文字を目の前に押し付けられる。フィーネ様はあからさまに戸惑った様子で、ガタガタと震えながら両手にノートを抱えていた。
城下に降りるということで、今日のフィーネ様はいつもより落ち着いた服装をしている。平民と変わらない姿のフィーネ様が怯えているのが面白くて、俺はにんまりと笑って答えた。
「ご覧の通り、ミュージックホールですよ」
『そんなことを聞いてるんじゃありません。わたくしたちがいるここは、そのホールの舞台袖ですよね!?』
「はい、そうですね」
『〜〜〜〜〜〜!?!?!?』
俺が言うと、フィーネ様は意味のなさない文字列を書き記した。
そう、ここは市井の小さなミュージックホール。音楽や演劇などを鑑賞するための場所である。
といっても、このホールは貴族や富裕層が来るような格式高いものではなく、庶民向けの小さなものだ。元は飲食店をしていたところを改装したらしく、軽食と飲み物も提供している。ミュージックホールというよりも、ミュージックパブを少し大きくしたもの、と言った方が正しいかもしれない。
そんな場所だから、上演しているものも有名どころの音楽家や劇団ではない。その分安価で楽しめると、庶民や学生たちには人気のようだが。
「このホール、俺の叔父が経営しているんですよ。それで、ここでたまにピアノを弾かせてもらってるんです。アルバイトみたいなものですね。でも俺、今年で学園を卒業するじゃないですか? そうなるとこの街からも離れるし、アルバイトも続けられなくなる……それで、卒業までに俺の代わりになるような音楽家を探していてくれって、叔父に頼まれていたんです」
俺がそう説明すると、フィーネ様は何かを察したようにサアッと顔を青くした。
『まさか、その、代わりって』
「もちろん、フィーネ様に決まってるじゃないですか」
バサリとノートが落ちる。フィーネ様の表情は完全に固まっていた。
「おお、コーダ、来ていたのか。今日も景気いいの頼むぞ! ……って、あれ? 誰だいそのお嬢ちゃんは」
「叔父さん!」
そんなやり取りをしていると、やたらと恰幅のいい中年の男が声をかけてきた。俺の叔父さん兼、このホールの支配人である。
「叔父さん、紹介しますね。こちらフィーネ嬢。同じ学園の生徒で、一つ下の後輩です。とても歌がうまくて、ぜひここで歌ってほしくてつれてきたんです。誰か新しい音楽家を呼びたいと言っていたじゃないですか」
「ああ、そうか! ありがとう、人手不足で困っていたんだ」
叔父さんには、フィーネ様の身分を隠して紹介する。ここで公爵令嬢だなんて言ったら、ひっくり返ってしまう。
「フィーネさんと言ったかな? 見ての通り小さな劇場ですが、謝礼はもちろんありますし、ここに来るのは気のいい客ばかりですから、どうか気負わないで楽しんでください」
叔父さんは人好きのする笑顔でフィーネ様を向きそう言った。フィーネ様は、突然現れた知らない男性と、勝手に進んでいく話に困惑しきっている。
気づけば客席はもう人でいっぱいで、ざわざわと騒がしい。俺たちは舞台用のちょっとしたドレスに着替えさせられ、袖で出番を待っていた。
フィーネ様は、もうこれ以上ないというくらい顔を青くして立ち竦んでいた。
言葉を出せないものだから、やれないともやりたくないとも誰に言うこともできない。同時に、真面目で責任感の強い人だから、ここまで来て今更降りるとも言えないのだろうけど。
そりゃあ、人前で声も出せないコミュ障に、いきなり人前で歌えだなんて無茶振り以外の何物でもない。一応考えがあってやったことではあるけれど……自分が巻き込んだことながら、さすがに可哀想になってくる。
一度苦笑いをこぼした後、フィーネ様に向き直り声をかけた。
「大丈夫ですよ」
その声に、フィーネ様はやっと顔を上げた。緑の瞳にうっすらと膜が張っているのがわかって、少しだけ良心が痛む。
だけど、
「俺と初めて会ったときのこと、覚えていますか? あのとき、貴女は戸惑いながらも、俺が『歌って』と言ったらちゃんと歌えていたじゃないですか。あの時と何が違うんですか? 俺がピアノを弾いて、それに合わせて貴女が歌う。これからするのは、ただ、それだけのことですよ。いつも俺たちが二人で、音楽室でしていることと何も変わりません」
その言葉に、フィーネ様はハッと息を呑んだ。
フィーネ様は、相手が誰であろうが、何人であろうが、関係なく『声が出せない』。それはもちろん、俺の前でも。
だけど、歌うことはできる。それは俺に慣れたからじゃない。だって、初めて会った時から歌えていたのだから。
だからーーこれは半分願望なのだがーーここでも、フィーネ様は歌えると思うんだ。そう確信して、俺は彼女をここに連れてきた。
「……それでは、先に行っていますね」
まだ呆けたように目を見開いているフィーネ様に、そう言って先に舞台に上がる。俺にはもう慣れた舞台だ、俺の姿が見えると同時に、拍手と歓声が上がる。最前列に座るおじいさんが「よっ、コーダ! 今日も楽しみしてるぞ!」などと、ジントニック片手に声をかけてきた。彼は俺がここに通う前からの常連なのだ。
彼に片手をあげて答えると、いつものようにピアノ椅子に腰掛ける。チラリと袖を確認すると、フィーネ様はまだそこで小さく震えていた。そのまた後ろで、叔父さんが戸惑ったようにキョロキョロとしている。
(フィーネ様はーー来れないかな。それならそれで、仕方ないけど)
少しの間待ってみたが、フィーネ様はその場から動く気配はない。演奏が始まらないのを不思議に思ったのか、客がまたざわめきだす。
(……これ以上は待てない、か。無理矢理壇上にあげることもできるけどーーいや、今日はこの場所に連れてこれただけよしとするか)
仕方ない、今日のところはいつも通り弾こうーーそう思い、鍵盤に指を置いた瞬間、
ーーコツ、と、舞台にヒールの音が響いた。フィーネ様が、壇上に上がってきたのだ。
「フィーネ様……!」
口元だけで名前を呼ぶと、フィーネ様は硬い表情のまま俺を見据えた。そしてすぐに客席へ向き直り、歌うための体勢を作った。
突然の乱入者に、観客たちはざわつく。「誰だ、あの女の子?」「初めて見る顔だな」「なんだ、今日のコーダはコラボ演奏でもするのか?」口々に呟かれる言葉にも怯まず、フィーネ様はただ真っ直ぐに前を見つめている。
その姿を視界に収めながら、俺はピアノを奏で始めた。
この国でも有名な歌劇のメインテーマ、俺とフィーネ様が音楽室で何度も奏でたその曲の前奏だ。聞き慣れたメロディに聴衆がまたざわめく。このホールの常連ピアニストである俺が今回は伴奏で、彼女が主役の歌い手だと気づいたのだろう。
そして、圧倒的な『音』が、困惑する観客たちを切り裂いた。
「ーーーーーー」
突き抜ける高音。空気を震わす声に、ざわめいていた客席が一気に静まり返る。
遠くまで伸びるビブラート、跳ねるようなスタッカート。囁くような小さな歌声すら、会場の端まで響く。
緊張のせいか少し硬かった声は、曲がすすむに連れ柔く優しくなっていく。深みを増した声に俺まで楽しくなってきて、フィーネ様を試すようにタッチを変えてみる。すぐに気づいたフィーネ様も、音の戯れを楽しむようにそれに応えた。
誰もが舞台に釘付けだった。こんな小さなホールでの演奏なんてと期待していなかった音楽愛好家も、音楽なんて酒の肴くらいにしか思っていなかったアルコール中毒者も、今ここにいる誰もが、我を忘れてその歌声に聞き入っていた。
「ーーーーーー」
ーー曲が終わる。
最後の一音が完全に切れ、フィーネ様が深く息を吸う音が響いても、会場はびくともしなかった。歌の余韻の残る中、「すげえ、」と一言、誰かが漏らした。
瞬間、割れんばかりの拍手が俺たちに注がれた。まるでシャワーのようなそれに、俺も合わせて拍手をする。
「すごい、こんな歌姫がこの街に眠っていたなんて……!」
「おい姉ちゃん、名前はなんて言うんだ!?」
「他にも歌える曲はあるかい? リクエストがあるんだけど、昔流行った曲でね、今の若い子が知っているかしら」
と、観客たちがワッと舞台に群がり話しかけてきた。小さな箱だ、客と演奏者の距離が近いのは元からだが、だがここまで酒も料理も忘れたように声をかけられたのは、初めてかもしれない。
多くの人に話しかけられ、フィーネ様は壇上でワタワタと慌てる。そんな後ろ姿を微笑み混じりに眺めていると、
「フィ、フィーネ様……ですわよね?」
訝しげな声色で、名前を呼ばれた。
「……ぁ」
声の方向に目を向けると、フィーネ様は驚いたように小さく声を漏らした。なぜなら声の主は、フィーネ様の取り巻きのご令嬢の一人、カペラ・ヴィヴァーチェ侯爵令嬢だったからだ。
その後ろに、これまた驚愕に満ちた表情で、マイナ・セレナーデ伯爵令嬢とピウ・モッソ嬢が控えている。お忍びで市井に降りられたのだろう、ご令嬢方は皆、いつもからは考えられないほど地味で質素な格好をしていた。
「……っ、…!?」
フィーネ様は、驚きに喉を引き攣らせた。それを察したのか、カペラ様が説明するように話してくれる。
「実は今学園の生徒の間で、平民に紛れて遊びに出るのが流行っているのですよ。親元を離れて、自由に歩けるのは学生である今だけですから。それに、この辺りは学園が近く治安も良いので、わたくしたち女性だけでも安心して入れる店が多いのです。このホールも、安価な上に音楽も出される料理の味もいいと、学園では有名な店なのですよ」
説明を聞き終わると同時に、フィーネ様は「そんなの聞いてないよ!?」とばかりに俺を振り返った。それに俺は無言の笑顔で答える。
そう、このミュージックホールは学園の生徒間ではそこそこ有名な店なのだ。学園からほど近い立地と、学生だけでも入りやすい値段と見た目。極め付けに演奏者に学園の生徒がいるということで、普段から学園の生徒や教師陣の客は多い。そしてそのなかに、フィーネ様の取り巻きの令嬢たちがいることにも、気づいていた。ほとんど毎週末、休憩がてらこのホールに立ち寄ってくれていたことも。
「それにしても。驚きました……。フィーネ様がこんなに歌がお上手なんて、わたくし、知りませんでしたわ……」
カペラ様は、驚き以上に戸惑った様子でそう言った。マイナ様とピウ嬢もまた、同意するように頷く
。
周りでコクコクと首を動かしている者たちも、おそらく学園の生徒なのだろう。見知った顔がちらほらいるのがわかる。
フィーネ様もやっとそれに気づいたのか、今更になって血の気を失っていた。さっきまでは緊張で客の顔を見る余裕もなかったのだろう。
「あ、あの……」
真っ青になったフィーネ様に、一人の女性が話しかけてきた。
彼女も学園の生徒だ。名前までは覚えていないが、おそらく下級貴族の令嬢のはずだ。彼女もまた、以前からここに通い詰めていた生徒の一人だった。
「フィ、フィーネ様。こちらから話しかける無礼をお許しください。わたくし、あまりにもフィーネ様の歌声に感動してしまって……! まさかあの人形姫、じゃなくて、あの有名なカンツォーネ家の令嬢が、こんなに美しい歌声の持ち主だったなんて……!」
興奮したように頬を上気させ、震えた声で彼女はそう言った。
「わたくし、誤解していましたわ。フィーネ様は、みんなが噂するような、冷たく傲慢な方なんだと思っていました。だけどフィーネ様の歌を聴いて、違うとわかりました。ずっと誤解して、勝手に怖がって……本当にごめんなさい!」
少女が深く頭を下げる。それに感化されたのか、その場にいた学園の生徒たちも口々に謝った。「それで、もしよかったら、」少女は続ける。
「もしよかったら、わたくしと……お友達になってくれませんか!? フィーネ様のこと、もっと知りたいんです。そして……もっと、貴女の歌声が聞きたい。お友達は無理でも、また、このお店で歌ってもらえませんか!?」
彼女の言葉に、フィーネ様は緑の瞳を大きく見開いた。どう言うこともできないでおろおろとしていると、
「わたくしも、またフィーネ様の歌が聞きたいですわ! またここで歌うご予定はあるんですの?」
「ええ、わたくしも、是非とも!」
「なんなら、ここ以上に大きなホールをフィーネ様のために用意させますわ!」
そんな声が取り巻きの令嬢たちからも出てくる。さらに驚いてワタワタと焦るフィーネ様に、俺は小さなメモ帳とペンを渡した。こんなこともあろうかと、ポケットに忍ばせておいたのである。
フィーネ様はそれを受け取ると、急くように書き込む。
『こちらこそ、お願いします』
そう書かれた文字は、あちこち震えて読めたものではなかった。
*
「よかったですね」
騒ぐ観客を書き分け、舞台袖にやっと戻ったあと、俺はフィーネ様にそう声をかけた。
『ありがとうございます、コーダ様』
フィーネ様は、先ほど渡したメモ帳にそう書き記し、柔らかく笑った。
騙すようにしてここに連れてきて、半ば無理矢理舞台に立たせたと言うのに、相変わらず寛大な人である。
「お礼を言うのはむしろこっちですよ。フィーネ様を連れてきたことで、ボーナスを出してやるってさっき叔父に言われましたから」
冗談めかして言う俺に、フィーネ様は首を横に振る。『いいえ、それでも』とメモに文字が走る。
『それでも、わたくしが、嬉しかったから。こんな大きなところで歌えて、それを多くの人に喜んでもらえてーーまるで憧れの歌劇団になったみたいでした。その上、こんなわたくしとお友達になりたいと言ってくれる方まで現れたのです。これもすべてコーダ様、あなたがここに連れてきてくれたから……。本当にありがとう』
差し出された文章に、なんだか胸の端がくすぐったくなる。誤魔化すように頬を掻いたあと、俺は言った。
「……フィーネ様。俺、思うんです。貴女は優しすぎる。だから何かを言おうとするとき、考えすぎて言葉につまってしまうんだと思います」
これは前から思っていたことだ。紙に書けば会話ができるのは、一度思考を整理できるからではないだろうか。書く前に言葉を選ぶことができるから、紙越しのコミュニケーションはできるのだ。
「でも、貴女が怯えるほど、貴女の周りの人は怖くないし、弱くもないですよ。今のみんなの表情を見たでしょう? 貴女の声を聞きたがっている人はたくさんいます。だからーー歌をうたうみたいに、誰かに何かを伝えてもいいんですよ」
「……」
そう言う俺に、フィーネ様は何も言わなかった。少しだけ呆けたような顔をしていた。
小さなホールには、アンコールの声が響いていた。
◇◆◇
フィーネ様をミュージックホールに連れて行ってから、3ヶ月程が経った。
あれから何度もフィーネ様と共に舞台に立った。フィーネ様の人気は凄まじく、今ではフィーネ様目当ての常連客までいるほどだ。
また、あれ以来学園からの客も増えている。
あの『人形姫』が歌っている店がある、という噂はあっという間に広まり、面白半分で顔を出す生徒が増えたのだ。はじめは冷やかし目的だった者たちも、一度フィーネ様の歌を聞けばすぐに虜となってしまった。平民街へ足を運ぶなんて、と渋っていた貴族子女たちまで常連になっているのだから、フィーネ様はやっぱりすごい。
あの日以来変わったことといえば、フィーネ様の交友関係もである。
あれからフィーネ様は、取り巻きーーではなく、ご友人の令嬢方に自身が重度のコミュ障であることを(紙越しに)伝えた。はじめこそ驚いていた友人方だったが、そこは長い付き合いだ。あっさりと受け入れ、今では俺よりうまく紙越しのコミュニケーションをしている。最近は交換日記なるものまで始めたらしい。
元々の取り巻き以外にも、交友関係は増えている。あの日ミュージックホールにいた下級貴族の令嬢を中心に、平民貴族どちらからも、先輩後輩関係なく、多くの人に声をかけられているようだ。
フィーネ様は、誰に話しかけられても基本的に態度を変えないーー声が出ないのだから変えられない、と言ったほうが正しいのかもしれないがーーそれが平民クラスの者や下級貴族の者に受け、彼らを中心に人脈を広げているようである。
交友関係が広がるに連れ、フィーネ様がコミュ障だと言うことも学生間で知れ渡ることとなった。これについては、「未来の王子妃がコミュ障なんて」と口さがなく言う者もあるが、ほとんどの者には概ね好評である。
だって、息を呑むほど美しい令嬢が、『人形姫』だと噂に聞く女性が、会話は苦手だとちまちまノートに文字を記すのだ。その姿は、正直、大変お可愛らしい。そんな姿を遠目にでも見かけてしまえば、彼女のことを悪く言うことはできなくなるだろう。
そしてそこにあの歌声とのギャップであるーーフィーネ様を『人形姫』だと揶揄する声は、いつしか無くなっていた。
*
時が流れ、秋。秋といえば、収穫祭など国をあげてのイベントや記念日が目白押しの季節である。
それはこの学園においてもそうで、学生たちは皆これからのイベント予定にどこか浮き足立った様子で準備に勤しんでいる。
「そういえば、フィーネ様、俺、今度の舞踏会で楽団に混ざってピアノを弾かせてもらうことになったんですよ。と言っても、一曲だけですけど」
いつもの音楽室、俺がそう言うと、フィーネ様は目をパチクリと瞬かせた。
舞踏会とは、この学園の文化祭における後夜祭のような位置付けのイベントだ。
だが、これは貴族クラス限定の行事であり、平民クラスの参加は認められていない。曰く『貴族クラスが将来社交の場に出た時のための予行練習』だからだ。このように、この学園には貴族クラスしか参加できないイベントや使用できない施設や備品が結構ある。何が『平等』だと文句の一つも言いたくなるが、そういう決まりなのだから仕方ない。
「俺ももう半年で卒業ですし、将来のためにも場数は踏んだ方がいいと知り合いの楽士に誘ってもらいまして。貴族クラスの舞踏会なんて平民の俺には気後れするばかりですが、まあでも、フィーネ様のドレス姿を見られるならそれはそれでいいかなって……って、フィーネ様!?」
冗談混じりにそう言うと、フィーネ様は蒼白な顔でふるふると震えていた。
「ど、どうしたんですか!? 俺、何か失礼なことでも言いました!?」
焦る俺に対し、フィーネ様はブンブンと首を振る。『なんでもない』とでも言うように口はパクパクと動いたが、どう見てもなんでもないようには見えない。
だが、今の話題のどこにそこまで怯える要素があったんだ? 舞踏会の話しかしていないけれどーー
「ーーまさか、お嫌なんですか? 舞踏会」
まさか、と思いつつ問いかけると、フィーネ様はギシリと固まったあと、物々しくゆっくりと頷いた。本当に嫌そうである。
「そんなに嫌なものなんですか、舞踏会。フィーネ様はダンスも得意でらっしゃると噂ですけど……」
フィーネ様は、会話をする以外のことは大抵そつなくこなせる有能な方だ。ダンスも得意でアレグロ殿下とのダンスは誰もが目を奪われるほどだったと、噂ではよく聞いていた。
舞踏会というほどなのだ、主には踊るだけなのだろうし、フィーネ様の苦手な会話をする機会も少ないだろう。
それなのに、何がそんなに嫌なのだろう? フィーネ様は、それ以降その理由を話すこともなく、ずっと俯きがちにノートを抱き締めていた。
*
ーー舞踏会当日。
俺はいつもよりめかし込んだ格好で、楽士たちの間に入り演奏の準備をしていた。会場にはもう音楽は流れているが、俺の出番はまだ先だ。一曲だけの予定だし、今夜の主役は学生たちのダンスなのだから、いつもより気楽に臨めている。
学園内のダンスホールには、もう貴族クラスの学生たちが入場し始まるのを今か今かと待ち侘びている。ぐるりと見渡すが、フィーネ様の姿はまだなかった。
(こういうのは身分ごとに入場時間が違うんだっけ? それじゃあフィーネ様はアレグロ王子と一緒に、最後に入場してくるのかな)
公爵令嬢らしい豪奢なドレスに身を包み、アレグロ王子の手を取りながら現れるーーそんなフィーネ様の姿を想像して、胸の奥が少しだけ痛んだ。
それを首を振って振り払う。そして、音楽室で浮かない顔をしていたことを思い出し、少しだけ心配になる。
(そういえばフィーネ様、なんであの時あんなに不安そうな顔をしていたんだろう? ダンスが苦手なわけではなさそうだし、何か話す機会があるわけでもないし……)
何故かはわからないけれど、彼女の嫌がる何かがここにあるのなら、俺の出番が終わった後にでもこっそり抜け出してもいいかもしれないーーそんなことを思う。
と、会場がざわめくのがわかった。アレグロ殿下が入場してきたのだ。俺も皆に倣い、そちらに目を向ける。
「……はあ!?」
思わず声が出た。だがそれは俺だけのことではない。会場にいる誰もが自分の目を疑った。アレグロ殿下の姿にーーいや、より正確に言うのならば、アレグロ殿下の隣にいる女性の姿に。
「なんで、アレグロ殿下がカノン嬢を連れているんだ……!?」
そう、アレグロ殿下は、婚約者であるフィーネ様ではなく、平民クラスの生徒であるカノン嬢をエスコートしてきたのである。
「ちょっと、どういうこと!? フィーネ様は!?」
「フィーネ様とは冷えた関係とは聞いていたけど……」
「というか、あの子平民クラスの子だろ? いいのか、ここに連れてきて」
ざわざわとあちこちで声が漏れる。それが聞こえていないのか、聞こえていても気にしていないのか、カノン嬢は自信溢れた笑顔でアレグロ殿下の手を取り歩いて行く。会場の中ほどまで辿り着くと、殿下の取り巻きである貴族子息たちがカノン嬢の周りに集まった。何事もなかったように彼らと談笑を始める。
あまりのことに、ざわめきは止まらない。この舞踏会は『社交界の予行練習』という位置付けの行事だ。婚約者や決まった相手のいる者は、その相手と入場してくるのが慣例となっている。
そんな場に、アレグロ殿下はフィーネ様ではなくカノン嬢を連れてきたのだ。しかも、カノン嬢は平民クラスの生徒。二人の話は学園では有名ではあるが、こんな慣例をぶち壊すようなことを王子自ら行うなんてーー貴族クラスの者たちも、流石に戸惑っているのだろう。
だが、俺にはそんなことはどうでも良かった。会場を隅まで見回す。フィーネ様の姿がない。
(まさか、このことを知っていたのか? だからあの時、あんなに浮かない顔をしていた?)
音楽室でフィーネ様が見せた顔を思い出す。どうしてあの時もっと話を聞かなかったんだーー後悔するが、もう遅い。
「コーダ様!」
そんな俺に、誰かが声をかけてきた。カペラ様だ。フィーネ様の取り巻きーーもとい、ご友人の一人。その後ろにはマイナ様もいらっしゃる。ピウ・モッソ嬢だけは平民の身分なので、この場にはいないのだろう。
「カペラ様! あ、あの、アレはどういうことですか!? というか、フィーネ様はどちらに!?」
「アレについては、わたくしもわかりませんわ。それよりーー貴方もわからないのですね、フィーネ様の行方が……」
「えっ?」
フィーネ様の行方?
不穏な単語を言われ、思わずうわずった声がでる。
「ど、どういうことですか? フィーネ様がいらっしゃらないのですか?」
「はい……実は今さっきフィーネ様の侍女に聞いたのです。着替えの最中に突然いなくなってしまわれたと」
「突然いなくなったって……失踪!? 誘拐!? どちらにしろ事じゃないですか!」
俺は頭を抱えた。フィーネ様は責任感の強いお人だ。そんな彼女が、たかが学園の行事とはいえ、投げ出してどこかに行ってしまうなんて……。
「落ち着いてくださいまし! ……原因に、察しはついているんです。コーダ様は、この舞踏会で女性が身につけるドレスは、婚約者から贈られるものだという慣習をご存知ですか?」
「え、ええ。聞いたことはありますが……まさか!?」
思わずアレグロ殿下とカノン嬢の方に目をやった。二人は仲睦まじそうに手を取り合い、ダンスを踊っている。
カノン嬢が踊るたび揺れる薄桃色のドレスは、どう見ても平民が買えるような代物ではない。ライトに照らされ光る宝石、細かい意匠の刺繍、上質そうな生地ーーまさか、あのドレスは……。
「そのまさかですわ。アレグロ殿下は本来フィーネ様に贈るはずのドレスをあの女に渡したあげく、貴族クラスのみ参加を許される舞踏会に平民を連れ込んだのです」
「それじゃあフィーネ様は、それにショックを受けて……?」
「ええ、おそらく……着替えの時間になっても殿下からドレスが贈られず、そこにカノンさんにドレスを贈ったという話を聞かされたのでしょう。……もしかしたら、ドレスが贈られないことは前から気づいていたのかもしれません。本来なら、舞踏会よりも前に渡されるものだもの……」
それを聞いて、思い至る。フィーネ様があんなにつらそうにしていたのは、このことを察していたからなのだ。だからといって俺やカペラ様に相談もできず、アレグロ殿下に一言いうこともできず……。
フィーネ様がどれだけ悩んでいたのかやっと気づき、俺は焦燥に駆られた。
「ですからわたくし、今からフィーネ様を探しに……って、ちょ、ちょっと! どこに行かれるんですの!?」
焦燥のまま駆け出す俺を、カペラ様が焦ったように呼び止める。
「決まってるじゃないですか、フィーネ様を探しに行くんです!」
「それは……! そうしてくださるのは嬉しいですが、貴方、楽士としてこの舞踏会に参加してるんじゃなくって!?」
「急病で出れなくなったって楽士長に伝えといてください! 大丈夫、俺一人いないくらいで音楽は止まりませんから!」
「は、はああああああああ!?」
お嬢様らしさのカケラもない叫び声をバックに、俺は会場を飛び出した。
俺の出番は元々一曲だけだし、抜けたところでそれほど問題はないだろう。後でしこたま怒られはするだろうが……。
そんなことより何より、フィーネ様が心配だった。
彼女の居場所に予想ならついている。一心不乱に、その場所へと駆けて行った。
*
ーーそうして俺が向かった先は、学園の別棟にある音楽室だ。
他の場所でならともかく、学園内でどこかに隠れているというのなら、音楽室以外ないだろう。
予想通り、フィーネ様は音楽室の隅でうずくまっていた。
膝を抱えうずくまっているため、その表情は見えない。月光に照らされた褪せた金髪が、キラキラと光ってきれいだった。
赤い生地のドレスは裾が汚れ、まとめられていた長い髪は崩れかけている。ここまで懸命に走ってきたのだろう。ーーたった一人で。
「……フィーネ様」
おそるおそる声をかける。その声にピクリと反応し、フィーネ様はゆっくり顔をあげた。人形のように美しい顔は、涙に濡れてくしゃくしゃに歪んでいた。
(泣いていたんだ。こんなところで一人、声すら出さず)
そう思うと、胸の奥がぎゅうっと痛むような気がした。誤魔化すようにハンカチを差し出す。
フィーネ様はそれを受け取ると、少しだけ戸惑ったように目を泳がせた。
「演奏のことなら、心配しないでください。後でちゃんと怒られに行きますから」
俺が言うと、一瞬「それではだめじゃないか」とでも言いたげな目をしたが、ここにはノートもペンもない。それに気づいたのか、何を言っても無駄だと思ったのか、フィーネ様は黙って濡れた瞳をハンカチに押しつけた。
(ーーこんな時でも、俺のことを心配するんだな)
自分のハンカチがフィーネ様の涙に湿っていくのを眺めながら、そんなことを思った。
「……カペラ様に、聞いたんです。その、アレグロ殿下と……カノン嬢のこと」
そう言うと、フィーネ様はヒュウっと息を呑んだ。目元に寄せたハンカチをくしゃりと握り込む。
「そしてそれを知ったフィーネ様がいなくなったと聞いて、居ても立っても居られなくなったんです。俺が勝手に動いただけですから、フィーネ様が気にすることではありません」
「……」
俺はそう言って、いつも通りピアノ椅子に腰をおろした。
フィーネ様は何も応えない。こちらを見ることもしない。ただただ、流れる涙を白いハンカチに押しつけていた。
そのまま、お互い黙ったまま時が過ぎる。
紙とペンがあるなら愚痴の一つも聞けたのだが、お互いパーティを抜け出してきた身だ。そんなもの持ち合わせていない。
二人の呼吸音だけが、防音に長けたこの教室に響いていた。
「………………だ、…さ……」
ーーどれくらい時間が経っただろう。隣から微かな声が聞こえた。
気のせいか、と一瞬考えて、だけど少しの期待を込めて、俺はフィーネ様を振り返った。
「……こー、だ、さま……」
消え入りそうなほど小さな声だった。だけど間違いなく、フィーネ様の声だった。俺の名前を、呼んでいた。
「は、はい……。いかがしましたか、フィーネ様」
俺は驚いて、だけどそれを表に出さないよう、最大限気をつけながら応えた。
「……めんなさ…、わた…しのため…………演奏、…っ…」
「そんなこと、気にしないでください。俺が勝手にやったことだって、言ったじゃないですか」
「…れ、でも……ぅれし、…たから……。こ、ださまが……来て、…れて……」
「フィーネ様……」
頼りない声だった。耳をすまさなければ、周りが静かでなければ、聞き取れないほどか細い声だ。いつも舞台の上で、観客を魅了している歌姫とは思えないほど。
それでも、どんなに小さくても、途切れ途切れでもーー彼女が、フィーネ様が、声を出している。言葉を発している。それも、自分の前でーーその事実だけで、胸が震えるような思いだった。
だけど、そんな俺の感情とは裏腹に、フィーネ様は続けた。
「……ちが、…です……わた…し、……かなし、て……泣いて…わけじゃ……ないんです……」
「……え?」
“悲しくて泣いてるわけじゃない”?
たしかにそう聞こえた。悲しいわけじゃない? そんなまさか。フィーネ様は、愛するアレグロ王子に裏切られて、それが悲しくてここまで逃げ込んできたのだろう? それに、悲しいわけじゃないというのなら、なぜ今こんなに泣いているんだ? 彼女を泣かせる原因が、他にあると言うのか?
驚く俺に、フィーネ様はぽつぽつと、つぶやくように話し始めた。
「わた…し……ぁまえて、…た、です……。こーだ、さまにも……おともだち、の、みなさ…にも……。みな……が、わたくし、が声を、出さ…くても……許し……ださる、から……。うた、だけ…で……ノートに、書く、だけで……皆……なかよ、して……くださる、から……。それに、甘えて……声、を……だすことを……きっと……あきら、めてた……。べつに……もう……いいんじゃないか、て……。みんな、が……受け入れ…て……くれる、なら……って……」
俺は目を丸くした。フィーネ様が、そんなことを考えているなんて思わなかった。
ノート越しのコミュニケーションはうまくいっているようだったし、たまにノートを抱えながら困った顔をしているのは、ただどう伝えていいか悩んでいるだけなのだと、そう思っていた。
「だ、から……これ、は……自業自得、なのです……。わた…しは……伝える、努力を……て、来なかっ……。アレグロ、殿下…も、カノンさん、にも……。二人は、何度だって……わたくし、に、話しかけ……くださって……のに……」
そんなの……!
そんなもの、フィーネ様が気にすることじゃないのに……! あっちだって、話しかけはしていたかもしれないが、こちら側の話だって聞こうとしていなかった。フィーネ様が何も言わないのをいいことに、自分たちの仲を隠そうともせずに。
「…から……わたくし、くやしいのです……。悲し、よりずっと……自分が、情けない……のです。いちばん、伝えたい……人に……伝えなければ、ならない人に……何も……伝えられなかっ……。…声、に……出さなくた、て……ノート、に……手紙、に……書けば……それでも、言葉を……伝えられ、って……教えて、もらっていた、のに……っ!」
そうしてフィーネ様は、やっと声を上げて泣いた。
と言っても、子猫が懸命に親猫を呼ぶような、そんな頼りなく小さな泣き声だったけれど。
「……」
俺は何をすることもできず、啜り泣くフィーネ様の姿をただただ見下ろしていた。
こんな時、自分の身分が嫌になる。平民の自分には、こんなに泣いている彼女にしてやれることがほとんどない。美しいドレスを贈ることも、アレグロ王子から彼女を掻っ攫うことも……。
(ーーそれでも。平民でも、いや、平民な自分だからこそ、できることがある)
一度目を瞑り、拳を握り込む。一呼吸置いた後、勢いよく立ち上がりフィーネ様に手を差し伸べた。
「ーー行きましょう、フィーネ様! 貴女の居場所はここじゃない」
突然かけられた声に、フィーネ様は涙の残る瞳をパチクリと動かした。
そんな彼女を安心させるように、笑みを深めて言葉を続ける。
「俺は泣いている貴女を、豪華な舞踏会に連れて行くことはできません。だけど、泣いている貴女の心を満たす場所を、一つだけ知っているんです」
「……」
「一緒に来てくれませんか? 貴女に……こんなところで一人で、泣いてほしくないんです」
「……」
濡れた瞳を真っ直ぐに見つめて言うと、フィーネ様はどこか上の空のまま、俺の手を取った。
俺はニッと笑って、その細い手を掴み、駆け出した。
*
「ーーここですよ」
「……?」
目的地に着くと、フィーネ様は戸惑ったような目で俺を見上げた。
それもそうだろう、ここは学園内のカフェテリアなのだから。フィーネ様もよくカペラ様をはじめとしたご友人方とお茶をしている、なじみの場所である。
普段なら、夜にはもう閉まっているはずのカフェテリアには、今も煌々とした光が窓から漏れ出ている。フィーネ様は、「どうしてこんなところに?」「なぜ明かりがついているの?」と言うような目線を何度か俺に寄こした。
そんな彼女の疑問を笑顔で封じて、そのままカフェテリアのドアを開く。
瞬間、楽しげな音楽と笑い声が、ドアの隙間から溢れてきた。
扉を開け放ち中に入れば、いつもは整然と並んでいる円卓が隅に寄せられ、中は広間のようになっていた。その中でたくさんの学生たちが音楽に合わせ、思い思いのダンスを踊っている。さながら貴族クラスの舞踏会のようだが、それにしては会場も音楽も質素で、皆が纏っている服も華やかなドレスではなくいつもの学生服だ。
集まる顔ぶれを見れば、彼ら彼女らは平民クラスの生徒たちなのだとわかる。貴族クラスの者は皆舞踏会に参加しているのだから、当たり前といえば当たり前なのだが。
そんな彼らを見て、フィーネ様は目を丸くして首をかしげた。その様子がおかしくて、思わずふふっと笑い声が漏れてしまう。
「すみません、驚かせちゃいましたね。ここは、平民クラスだけの舞踏会会場なんですよ」
俺が言うと、フィーネ様はさらに不思議そうな顔をした。平民クラスに舞踏会はない。それなのにどういうこと? と、そう思っているのだろう。
「実は毎年、貴族クラスが舞踏会をやっている間、俺たち平民クラスでここに集まってささやかなパーティをしてるんですよ。文化祭の打ち上げも兼ねた、非公式の学園イベントってところです。結構前からある平民クラスの伝統で、なかなか参加率も高いんですよ? 貴族クラスにも結構有名な話なんですけど、やっぱりフィーネ様は知らなかったんですね」
今回は行けなかったけれど、実は俺は毎年この平民だけの舞踏会で音楽を担当していた。そんなことまで説明すると、フィーネ様は得心したように頷いた。
「フィーネ様!」
入り口付近でそんな話をしていると、俺たちに気づいたのか一人の女生徒に声をかけられた。フィーネ様の昔からのご友人の一人である、ピウ・モッソ嬢である。
「フィーネ様! よかった、コーダさんが見つけてくださったんですね。先ほど、フィーネ様がどこかにいなくなられたってカペラ様の侍女の方から聞いて、わたくし、心配しておりましたのよ」
ピウ嬢は半泣き顔でフィーネ様に縋り付くと、口早にそう言った。本当に心配だったのだろう。フィーネ様は申し訳なさそうに、ピウ嬢の目元に溜まった涙を拭ってあげている。
「本当に、何事もなくてよかったです。コーダさんが探しにいかれているから、きっとここに連れてきてくれるはずだとは聞かされていましたけど……」
「はは、カペラ様はなんでもお見通しだな」
ピウ嬢とそんな話をしながら、フィーネ様を連れカフェテリアの中へと入る。
パーティへの中途参加者に、会場の目線が一気にこちらへ集まった。
「あっ、コーダ! てめえおっせえぞ!」
「もう先に始めちゃってますよー……ってあれ、フィーネ様!?」
「人形姫様がなんでここに!? ってか、ドレスめっちゃキレー!」
「……っ…!?」
たくさんの人たちに声をかけられ、フィーネ様がびくりと固まる。
俺一人ならまだしも、今回は最高級であろうドレスを纏ったフィーネ様つきだ。そりゃあ目立つだろう。
「フィーネ様のドレス姿、本当にきれい……本物のお姫さまみたい……」
「そりゃあ、カンツォーネ家のご令嬢なんだから、本物のお姫さまだよ! というか、なんでフィーネ様がこっちにいらっしゃるんだ? 貴族クラスの舞踏会は?」
「あっ! もしかしてこっちに来てくれたってことは、フィーネ様、ここで歌ってくださるんですか!?」
「えっ本当に!? 今年はコーダ先輩が舞踏会の方に行っちゃってたから、音楽隊が少なくて寂しかったんですよー!」
「……!? …っ!?」
フィーネ様が喋れないのをいいことに、みんな矢継ぎ早にフィーネ様へと話しかける。うんともすんとも言えずにいると、そのままピアノの前まで二人して連れて行かれた。
「……! ……!?」
ピアノの前に立ち、みんなから期待の目で見られても、フィーネ様はオタオタと戸惑った様子のままだ。そんな姿を微笑ましく思いながら、俺は鍵盤に手をかける。
「フィーネ様。俺には貴女の心を癒す方法はわかりません。だけど、貴女を一人で泣かせないことだけはできます。ここにいるみんなは、貴女の声を聞きたがってる。ーー歌ってくれませんか、フィーネ様」
「ーーーー」
俺がそう言うと、フィーネ様はやっと落ち着いたように姿勢を正し、小さく笑みを作った。そして皆に向き直り、深く息を吸う。
フィーネ様の歌がはじまると、ワアッと歓声が上がり、みんな好き勝手踊り始めた。
いつものミュージックホールでの演奏とは少し違う、ざわめきの中フィーネ様と奏でる音楽は、それはそれで面白かった。
「フィーネ様!」
ーー曲が終わると同時に、歌い終えたフィーネ様の元へふたつの影がやってきた。カペラ様とマイナ様だ。
「カペラ様、マイナ様!? どうしてこちらに……舞踏会は!?」
「ふんっ、あんな茶番だらけの舞踏会、どうしてわたくしたちが参加しなくてはならないのよ。それよりフィーネ様、やっぱりこちらにいらしてたのね。何もなくてよかったわ」
「大丈夫ですよ、フィーネ様。アレグロ殿下の規則違反については、きちんと先生たちに報告してから抜けてきましたから」
カペラ様が不遜に、マイナ様がのんびりとした口調で、それぞれ言う。フィーネ様は最初心配そうに眉を下げていたが、二人の話を聞いておかしそうに笑った。
「それに、ほら。抜け出してきたのはわたくしたちだけじゃなくってよ?」
「?」
カペラ様に言われ会場に目をやると、学生服の平民の中にやたらと着飾った者たちが混じっていた。舞踏会に参加していた貴族クラスの生徒たちだ。
俺たちがそれに気づいたことに気づいたのか、彼らはニッと笑ってこちらに手を振ってきた。
「ダンスホールを抜け出そうとするわたくしたちに気づいて、声をかけてきたのです。フィーネ様がいるのなら、自分たちもそっちへ行くって。フィーネ様の歌のファンは、わたくしたちが思うよりずっと多いですからね」
「物好きだけは残っていますよ。あの平民とその取り巻きたちがどんな茶番を繰り広げるか、最後まで見てみたい、とね」
カペラ様たちは、そう言ってくすくすと笑った。
扇子で顔の半分を隠しているが、その端から見える目は一切笑っていなくて大変恐ろしい。
「それに、こちらでもダンスはできるのでしょう? フィーネ様の歌で踊れるなんて、光栄だわ!」
「さあ、歌ってくださいな、フィーネ様」
カペラ様たちに後押しされて、もう一度ピアノへと座る。フィーネ様もまた、親しい友人たちに急かされ満更でもない顔で歌い始めた。
それからはもう、フィーネ様の喉が枯れるまで、俺の指が使い物にならなくなるまで、ただただひたすら音楽を奏でていた。カフェテリアに集まったみんなも、足がクタクタになるまで踊り続けた。
貴族のダンスパーティのようなワルツを、平民たちが好む大衆音楽を。時には誰もが知っている民謡を合唱したり、他の楽器を交えて即興で合奏したり……。
夜が更け、月が高く上がるまで、楽しいパーティは続いたのだった。
*
ーーパーティが終わり、帰り道。
まだ誰もが興奮冷めやらない様子でいる中、俺とフィーネ様は隣合って、二人で夜空を見上げていた。
「……今日は楽しかったですね。また無理矢理連れてきてしまいましたけど」
俺が言うと、フィーネ様は少し赤い頬のまま、こくりと頷いた。
ドレスから出た肩が寒々しくて、俺は自分の着ていたジャケットを差し出した。フィーネ様はそれを受け取り、口元だけで「ありがとう」とつぶやく。
その様子に、少しだけ寂しい気持ちになる。音楽室では、小さな声ではあるものの、彼女の思いを言葉にして話してくれたから。
少しずつでいいから、またあんな風に話してくれたらーーそう考えていたら、ぽつりと漏らすように、フィーネ様が話し始めた。
「……わたくし、決めましたわ」
妙に落ち着いた、静かな声だった。
俺は一瞬ひどく驚いて、だけどそれを表に出さないように、努めて冷静に返した。
「決めたって、何をです?」
「……アレグロ殿下、のこと……。もし、あの方が、婚約解消を求めてきたら……わたくし、それを受け入れようと……思います……」
「えっ……!?」
聞き間違えたのかと思った。それくらい、言われた言葉を飲み込むのは難しかった。
「婚約解消って……! 飛躍しすぎですよ、アレグロ殿下の婚約者は貴女以外おりません! たしかに、今日のアレグロ殿下の行動は軽率なものでしたが……!」
焦って話す俺を遮るように、フィーネ様はゆっくりと首を振った。そして俺の目をじっくりと見つめると、柔らかくほほえんだ。
「本当は……ずっと気づいて、いたのです……。殿下の心が、わたくしにないこと……わたくしとの婚約が……殿下にとって、重荷でしか……ないことも……」
それでもこれが公爵家に生まれた責務だからと、婚約を続けていたとフィーネ様は語った。王子妃として国に尽くすことが、貴族として自分ができることだと。
だけど、もしアレグロ王子が自分よりもカノン嬢を隣に望むのなら、その方がいいのだとフィーネ様は言う。王族という自由のきかない身分なのだから、生涯隣で支えてくれる存在は、本当に愛した者がいいはずだと。
「それに……わたくしは、こんな、会話も……ままならないですから……王子妃、なんて……元から向いて、ないんです……」
フィーネ様はそう言って、少し寂しそうに笑った。その笑顔がとても悲しくて、俺はどうしようもない気持ちになる。
「今回のことで……覚悟……が、決まりました……。諦めがついた……といったほうが、正しいかも……しれませんが……」
「フィーネ様……」
どう声をかけたらいいのかわからなかった。
一度結んだ婚約を解消するなんて、女性にとって気分の良いことではないはずだ。それも、相手側の不貞が原因だというのに……。
それに貴族女性にとって、一度結ばれた婚約が解消になるというのは汚点にならないのだろうか? しかも相手は王族だ。たとえどちらが一方的に悪いものであっても、「王族に捨てられた」というレッテルは免れないだろう。
フィーネ様が傷つくなんてーーそう考える俺に、フィーネ様はつづけて「それに、」とつぶやいた。
「それに……あの、笑わないで、聞いてくださる……?」
「え? ええ、それはもちろん」
「よかった……。あのね、わたくし……歌が、うたいたいの。これからも……わたくしの歌で、たくさんの方を喜ばせることができたらって……。その、それは、今のような形、だけでなくて……それをお仕事にできたら、って……そう思うの。……夢物語かしら……?」
「……!」
フィーネ様の言葉に、息を呑んだ。貴族令嬢が、それも公爵家の令嬢が、自ら身を立てていくだなんてほとんど前例がない。
だけどフィーネ様の瞳に、少しの不安と強い希望が映って見えて、気づけば俺は強く首を振っていた。
「いえ……! いえ、全く……!」
力強く答えれば、フィーネ様はクスリと笑って応えた。
「ありがとう、コーダ様」
ーー俺はただの平民だ。俺にできることなんてほとんどない。
だけど、この人の願いを叶えるためなら、俺はどんなことでも協力しようと、そう思った。
◇◆◇
舞踏会からしばらくが経った。
フィーネ様はあれ以来、アレグロ殿下とはほとんど距離を置いているようだ。
それ以外は特に変わったこともなく、日常を過ごしている。休日はミュージックホールに通い、平日はカペラ様をはじめとした友人たちと交流を深めている。舞踏会以降新しくできた友達もいるらしく、毎日が充実しているようだ。
たまには音楽室に顔を出して、俺とも話をしたり、なんともなしに歌を歌ったり。そんななんでもないある日の音楽室、フィーネ様は俺にこんなことを聞いてきた。
『コーダ様は、卒業後はどのような進路を歩まれるおつもりなんですか?』
美しい文字の並んだノートが眼前にさらされる。
舞踏会の時は小さいながらも可愛らしい声を聞かせてくれたフィーネ様だったが、あれ以来元の紙越しのコミュニケーションに戻ってしまっていた。俺としては、会話が成り立つのであればどちらでも良いとは思うが。
「……進路?」
気づけばもう卒業シーズンだ。俺はフィーネ様より一つ上の第4学年で、この学園の最高学年に当たる。つまり、今年が卒業の年なのだ(ちなみにアレグロ王子も同じ第4学年のため、今年の卒業パーティはさぞ盛大に行われるだろう)。それで聞いてきたのかと一人納得する。
「そういえば、フィーネ様には言っていませんでしたね。俺は卒業後、隣国に留学する予定なんです」
「……っ…!?」
俺が答えると、フィーネ様は驚いて手に持っていたノートを落とした。驚かせてすみません、と謝りながら、落ちたノートを拾って手渡す。
「いやあ、本当は父の元で勉強しつつ実践を積むつもりだったんですが、この間の舞踏会をサボったことでしこたま怒られまして……。一から鍛え直しだ、腕一本で食えるようになるまで帰ってくるなと、家を追い出されることになっちゃったんですよ」
俺が言うと、フィーネ様は顔を青くしてガクガクと震え出した。責任を感じているのだろう彼女に慌てて、
「ああ、別に追い出されると言っても、縁を切られるとかそういうのではないですよ、全然! あっちの音楽大学に通いながら、何かピアノを弾くアルバイトのようなものもするつもりです。今とほとんど変わらないですよ」
そう言うと、フィーネ様は安心したように息を吐いた。
「……フィーネ様は? そんな質問をするということは、何か考えていることがあるのではないですか?」
心配をかけた申し訳なさをごまかすようにそう問うと、フィーネ様は図星を突かれたかのように一度目を見開き、少しだけ赤くなって持っていたノートで顔を隠した。
相変わらず、声が出ない代わりに態度はわかりやすい。思わず笑みがこぼれた。
『実は、この間とある歌劇団の方に声をかけられたのです。わたくしがミュージックホールで歌っているのが市井ではだいぶ噂になっているらしく……それを聞きつけて、ぜひうちの歌劇団に入らないかと誘っていただいたのですが……』
「ええ!? それってスカウトってことですよね!? すごいじゃないですか!」
『す、スカウトだなんてそんな大袈裟な……!』
フィーネ様は顔を真っ赤にして否定したが、これは紛れもなくスカウトだ。
その歌劇団の名前を聞いたら、王都でも有名な女性歌劇団だった。そんなところにスカウトされるだなんて、やはりフィーネ様の歌はすごいのだと実感する。さすが、俺が見込んだだけあるな!
『まだ学生の身分だと言うと、卒業まで待つと言ってくださったんですが……わたくしは女ですし、学歴の関係ない職種ですから、今すぐに入団することも、不可能ではないかもと、思いまして……』
「……それって、学園を中退するということですか?」
『もしもの話ですわ。さすがに、非現実的すぎますよね。お父様が許してくださるとも思えないし……』
ノートに書かれた文章にハッとする。そうか、フィーネ様は貴族のお嬢様なのだ。それも、国でも有数の高位貴族である、カンツォーネ公爵家のご令嬢だ。
そんな彼女が、いくら有名どころとはいえ歌劇団に入るなど、簡単に許しが出るわけがない。俺ならこんなチャンス滅多にないと意地でも掴んで離さないだろうがーー彼女に同じことを強要するのは酷というものだろう。
「……卒業まで待つというなら、待たせれば良いんですよ。それまで一年じっくり考えて、じっくり周りも説得すれば良いんです」
俺が言うと、フィーネ様は少し驚いた顔をしたあと、笑って『そうですわね』とノートに書きこんだ。次いで『ありがとう』と。
『こんな話、肯定してくださるなんて思いませんでしたわ。これでも一応、アレグロ殿下の婚約者ですから。そんな未来は無理だって、言われておしまいだと思っていました』
「たとえ絶対に無理なことでも、貴女が望むのなら俺はそれに全力で協力しますよ。と言っても、平民である俺にできることなんてたかが知れていますけど」
笑って言えば、フィーネ様もくすくす笑って応えてくれる。緊張した雰囲気が緩んだ気がして、俺はほっと息をついた。
『そうだ、コーダ様。コーダ様は何か欲しいものはございますか?』
「ほしいもの? ううん、すぐには思いつきませんね……突然どうしたんですか?」
と、フィーネ様が突然思い至ったようにノートにそう書き込む。不思議に思って聞き返すと、
『実は、卒業祝いにコーダ様に何か贈らないかという話が出ているんです。コーダ様には大変お世話になりましたから。それで、何か欲しいものはないか聞いてこいと言われていたんです』
「なるほど。俺としては、その気持ちだけで十分ですけど……」
フィーネ様の言葉に嬉しくなる。言い出したのは、いつもホールに来てくれる誰かだろうか。フィーネ様を通して、俺もだいぶ交友関係が広まった。
欲しいもの、と言われれば尽きないが……フィーネ様や、他の可愛い後輩たちからの贈り物だというのなら話は別である。
「なんでもいいんですか?」
『ええ、わたくしたちにできることであれば』
「それならーーそれなら俺は、もう一度貴女の声が聞きたいです」
フィーネ様はポカンと目を丸くした。その表情に少し笑って、続ける。
「卒業までに、もう一度、貴女と話がしたいです。舞踏会のあの日のように、貴女の声で、貴女の話が聞きたい。……それがプレゼントじゃあ、だめですか?」
「……」
俺が言うと、フィーネ様の緑の瞳がわかりやすく揺らめいた。戸惑っているのだろう。その表情に少しだけ心が痛んだ。
「……なんて、冗談です。俺なんかのために何かしたいと、そう思ってくれただけで充分ですよ」
あからさまに戸惑うフィーネ様を見て、結局そう言って誤魔化した。そして「それじゃあ、俺はここらで失礼しますね」と、音楽室を後にする。フィーネ様が少し呆然としたように、俺の背中を見つめているのがわかった。
(……ちょっと、意地悪だったかな)
重たいドアを閉めると同時に、そう考える。
だけど、フィーネ様からもらって嬉しいものと言われたら、それが一番に思いつく。ましてや、卒業祝いのためと言うのなら。
歌っている時とは正反対の、か細く儚い、優しい声ーー舞踏会のあの夜、途切れ途切れのまま懸命に話していた、その姿を思い出す。
(卒業してしまったらもう、あの声を聞く機会もないんだ。声を聞くどころか、その姿を見る機会さえーー)
平民と貴族、もともとこうして対等に話せていること自体が奇跡なのだ。表向きだけでも『平等』を謳うこの学園だからこそ起きた、人生に二度とない奇跡の時間。
(それならせめてもう一度、お別れする前にもう一度ーーそう思ってしまうのは、仕方ないだろう?)
ーーそう感傷に浸っていると、
「ああアレグロ様、もうすぐ卒業してしまうなんてカノン、すっごく寂しい!」
「私もだよ。こんなにかわいい君をこの学園に置いていくなんて、心配で心配で仕方ないよ」
「心配してくれるの? うれしいわ! ありがとう、アレグロ様」
「カノン……!」
ーーという、頭の痛くなるような会話が聞こえてきた。
(あれは、アレグロ殿下とカノン嬢?)
声の方に目をやると、別棟の階段の影に隠れて、カノン嬢とアレグロ殿下が逢引きしているのが見えた。なんでこんなところに? と一瞬思うが、そういえば別棟は人通りが少ないから、人目を忍んでの逢瀬に使う貴族子女がいると聞いたことがある。普段から人目を憚らずいちゃついている二人が、今更何をという気持ちもあるが。
(まったく、一応は婚約者であるフィーネ様が将来についてあんなに悩んでいるというのに、あの王子はいったいなにをやってるんだか……)
俺は半分呆れながら、別の道から帰ろうと踵を返した。
「私が卒業したあと、あの『人形姫』が君への攻撃を強めないかと、それがとても心配なんだ……」
ーーが、聞き捨てならない単語が聞こえ、思わず立ち止まってしまう。
『人形姫』ーー今はほとんど誰も呼ばなくなった、かつてのフィーネ様の蔑称だ。それを、あの王子は言うのか。何年も、長い年月を彼女と婚約者として過ごしてきて、それでも彼女が『人形』だと、そう思うのか。
心の奥が冷たくなるのを感じた。改めて失望したのだ、アレグロ王子に。
フィーネ様はたしかにほとんど声は出さないが、それでも彼女の心が優しくあたたかいのは、関わるようになってすぐにわかった。それは俺だけではなく、最近フィーネ様と仲良くなった誰もが感じていることだと思う。
それに、『君への攻撃を強める』だと? それではまるで、フィーネ様が今現在カノン嬢に対してなんらかの攻撃をしているみたいではないか。フィーネ様はそんなことをするような人ではないし、そもそもそんな時間もない。空いている時間は大体王子妃教育に費やすか、ミュージックホールに顔を出すかのどちらかなのだから。
(だめだ、この二人の会話を聞いてると頭痛がしてくる……)
思わず頭を抱えるが、そんな俺とは裏腹に、二人のお花畑のような会話は続いていた。
「そんな……心配しないで、アレグロ様。フィーネ様だってきっといつかわかってくださるわ。貴族も平民も関係ない、私たちはみんな同じ人間なんだってこと」
「カノン、君はなんて健気なんだ……! この前もフィーネに階段から突き落とされかけたと言っていたのに、そんな女、君が庇いたてる必要はないだろう! 今すぐ彼女をこの学園から、いや貴族社会から追放してもいいくらいだ!」
(追放!? 何言ってるんだあのバカ王子! というか、階段から突き落とすなんて、そんなことフィーネ様がするわけないだろ!)
「あれは、私の見間違いかもしれないし、大した怪我じゃなかったからいいのよ」
「いいわけないだろう、下手すれば死んでいたんだぞ! あの女、人の少ない放課後を狙って……すぐに俺が気づいたからいいものの……」
「アレグロ様、大丈夫よ。これくらい慣れて……あっ!」
「慣れてる!? 今慣れてると言ったか!? やっぱりあれが初めてじゃなかったんだな!? くそっ、許せん……!」
「いいの、いいのよ。フィーネ様からアレグロ様を奪ってしまった、私が悪いんだから……!」
「カノン……!」
「アレグロ様!」
二人は熱心に見つめ合うと、そのままガバリとお互いの体を抱きしめ合った。どこぞの恋愛劇の主人公とヒロインのようだ。もうこれ以上耐えられなくり、げっそりとしながらその場を静かに去った。
「……なんだ今の……」
話を聞いているだけでげんなりしてしまった。あの二人はいつもあんなノリの会話をしているのだろうか。よく疲れないな、上流階級のノリとはあんなものなのかもしれないが。いや、カノン嬢は俺と同じ平民だった。
(……だが気になるな、今のカノン嬢の発言。まるで常日頃からフィーネ様に何かされているとでも言うような発言だった。フィーネ様の人柄的にも、時間的にも、そんなことはあり得ないと思うけれど……)
それでアレグロ王子の同情を誘って、彼を籠絡したのだろうか。正直騙される方も騙される方だとは思うが、王族が黒と言ったら黒になってしまうのがこの世界だ。カノン嬢に唆されて、フィーネ様をいわれなき罪で断罪することだって、もしかしたらあるかもしれない。
(いや、いくら王族でも、何の罪もない公爵令嬢を黒扱いするわけがないかーー)
さすがに考えすぎだろうーーそう思いつつも、心のどこかにその会話が引っかかり続けた。
*
それから、フィーネ様とはほとんど会わないまま時がすぎた。フィーネ様は元々多忙な方だし、俺も卒業を控えて何かと忙しくなってしまったためだ。
時々遠目に、フィーネ様がご友人方と楽しそうに話されているのを見た。話す、と言っても相変わらずノートを使っていたけれども。たとえ遠くからでも、彼女の幸せそうな顔を見れるだけで幸せな気分になれた。
(ーーこのぶんだと、『卒業祝い』の件は期待できそうにないかな)
そう残念に思う気持ちも、少しはあったけれど。
ーーそうしてついに、卒業の日がやってきた。
*
このスフォルツァンド学園では、卒業式典は卒業生とその保護者のみで行われ、その後に行われる卒業パーティには在校生も参加が許されている。
この学園ではめずらしいことに、卒業パーティは貴族クラスも平民クラスも合同で行われる。学園関係者以外の来賓も訪れるためだろう。
そんなパーティ会場の真ん中で、少々手持ち無沙汰でいると、カペラ様が俺に声をかけてきた。
「コーダ様、このたびはご卒業おめでとうございます」
「カペラ様! それに、フィーネ様も」
その後ろにはフィーネ様やご友人方が並び、それぞれにこやかに微笑んでいる。彼女らは貴族のお嬢様らしい見事なドレスに身を包んでいた。
フィーネ様は、光沢のある薄い水色の生地の、装飾の少ないシンプルなドレスに身を包んでいた。舞踏会に着ていた真っ赤なドレスとは対局の、清楚で彼女本来の美しさを強調するようなドレスだった。
「ありがとうございます。今年のパーティは華やかで楽しいですね。皆さんの装いもとても綺麗で……」
「ふふ、アレグロ殿下の晴れ舞台ですもの。着飾るのも貴族の勤めですわ」
今年は我が国の王子たるアレグロ殿下が卒業されるということで、卒業パーティは例を見ない豪勢なものとなっていた。カペラ様は「第一王子殿下が卒業された際は国王夫妻が揃っていらっしゃったと噂ですから、学園側も気合の入れ方が違うのでしょうね」と教えてくれた。
俺がカペラ様やマイナ様と談笑しているのを、フィーネ様は一歩下がってにこやかに聞いていた。パーティ会場にはノートを持ってこれないため、話すことができないのだろう。
(最後にちゃんと話したかったな……)
少し寂しい気持ちになるが、お元気そうな顔を見られただけ良かったとしよう。いくら貴族も平民も合同で行われているとはいえ、公爵令嬢とこうやって顔を合わせられるだけ、俺は恵まれているのだから。
「そういえば、アレグロ殿下が見えませんわね」
と、ピウ嬢が不思議そうにそう呟いた。
「あれ、本当だ。卒業式典にはちゃんといたはずですけれど……」
俺もピウ嬢に倣い会場を見回すが、アレグロ王子の姿は見えない。今日の主役は彼のようなものなのに、どこに行ってしまったんだろう。
「カノンさんも、取り巻きの方々もいませんわ」
「どうせどこぞでいちゃついてるのでしょうよ。今日で卒業なんですから」
マイナ様の言葉に、カペラ様が吐き捨てるように言う。フィーネ様は変わらずニコニコとしているだけだ。
だが、俺は以前別棟で聞いた二人の会話を思い出し、妙に不安な気持ちになった。
と、同時に気づく。彼らだけでなく、このパーティに参加している人数が妙に少なくないか? この学園は国でもトップレベルのマンモス校だ。全学年が集まっているようには見えないのだがーー
「あの、カペラ様。カノン嬢だけでなく、なんだか在校生の数が少なくないですか? アレグロ殿下の卒業の年のパーティをサボる生徒が、こんなに多いとは思えないのですが……」
俺がそう尋ねると、カペラ嬢はフィーネ様たちに目配せし、ニンマリと笑った。おおよそ貴族らしくない、いたずらっ子のような笑みだった。
「それに関しては、心配しないでくださいな。むしろ楽しみにしてくれていいほどですわ」
「はあ……? 楽しみ、ですか」
コロコロと笑いながら言うカペラ様に拍子抜けする。意味はわからないが、彼女が大丈夫だと言うのならそうなのだろう。
と、突然パーティ会場のドアが開け放たれた。
その音に驚き、誰もが入り口へと目をやると、そこには怒りに顔を歪めるアレグロ殿下と、その取り巻きたちの姿があった。
「フィーネ・カンツォーネ! 貴様との婚約は破棄させてもらう!」
そして、アレグロ殿下はいきり立った様子でそう怒鳴りつけた。
「……はあ!?」
会場が一気にざわめく。「婚約破棄? どういうこと?」「なんでいきなり、こんなパーティの真っ最中に」ーーそんな喧騒も知らん顔で、アレグロ王子はまっすぐ俺たちのもとーーつまりはフィーネ様の元までやってきた。取り巻きたちもそれに続く。
「フィーネ、今までは公爵令嬢だからと見過ごしてきたがーーもう我慢ならん! お前のような高慢な『人形姫』は、王子妃に相応しくない!」
アレグロ王子はフィーネ様をまっすぐに見つめると、ビシリと彼女を指差してそう言った。フィーネ様は、事態が飲み込めないとでも言うように目をパチクリと瞬かせている。
事態が飲み込めていないのは何もフィーネ様だけではない。俺も、カペラ様たちも、この会場にいる誰もがアレグロ殿下の動向に注目していた。
「お、お待ちください殿下。婚約破棄というのは、どういうことでしょうか」
最初に声を発したのは、カペラ様だった。さすが、今まで何度となくフィーネ様の代わりに話してきただけある。
「どうもこうもあるか! フィーネ、貴様が取り巻きたちとともにカノンをいじめていたことはとっくに知っているんだぞ!」
「……はい?」
思わずといったように聞き返してしまったのは、ピウ嬢だ。突然自分の、しかも身に覚えのないことを言われて驚いたのだろう。
「申し訳ありませんが、取り巻き、というのはわたくしたちのことでしょうか? いじめなどというのは、まったく身に覚えのないことなのですが……」
「貴様、この後に及んで言い逃れするつもりか!」
「いえ、言い逃れも何も、本当にそんなことはしていないのですけれど」
マイナ様がフィーネ様の代わりに弁明するが、アレグロ王子は聞く耳持たない。
すっかり困りきっていると、一人の女生徒が俺たちとアレグロ殿下の間に割って入ってきた。
「皆さん、どうかもう認めてください! 私は何も、皆さんを断罪したいわけじゃないんです。ただ一言、今までしたことを謝っていただければそれで……」
カノン嬢だ。小柄な体格のせいで気づかなかったが、どうやらずっとアレグロ王子の後ろに隠れていたらしい。卒業パーティだというのに学生服のまま、アレグロ王子の隣で上目遣いにこちらを睨んでいる。
(あれ、なんで制服のままなんだ? 舞踏会の時のように、アレグロ殿下からドレスの一つでも贈られていそうなものなのに)
そう疑問に思っていると、王子の取り巻きの一人が突然、純白のドレスを俺たちに見せつけてきた。そのドレスを指し、アレグロ王子が声高に叫ぶ。
「このドレスを見ろ! 私がカノンのために用意したドレスが、ズタズタに切り裂かれているではないか! これは、フィーネ、お前たちの仕業だろう!? カノンが見たと言っているぞ!」
たしかに王子の言う通り、真っ白なそのドレスはナイフのようなもので切り裂かれた跡があった。その上踏みつけられたのか、ところどころ靴跡のような汚れまである。
「私、寮の自室にこのドレスを置いていたのですが……パーティの前に着替えようと自室に戻ったら、ドアの鍵が壊されていて。そして、フィーネ様がその中にいて、このドレスをナイフで切り刻んでいたんです! 私、驚いてしまって……やめてくださいって言ったんです。だけど『平民風情がアレグロ殿下からドレスを贈られるなんて』『お前なんてパーティに出る資格はない』と怒鳴られて……私、怖くて怖くて……!」
「カノンは一人隠れて泣いていたのだぞ!? 私が見つけたからいいものの……それをお前はのうのうとパーティに赴いて、ドレスがなくてパーティに出られないカノンを嘲笑っていたのだろう!」
しゃくりあげて泣くカノン嬢に、その肩を抱きフィーネ様に詰め寄るアレグロ王子。たしかにそれが事実なら可哀想ではあるがーーフィーネ様がそんなことするわけがない。
納得いかないようにカペラ様が「失礼ですが殿下、」と声を上げると、カノン嬢がすかさず「私が話を聞きたいのはフィーネ様です! フィーネ様の口から今回の件について話してください!」と対抗した。それにアレグロ王子までもが「その通りだ、フィーネ、お前から話せ」などと言うものだから、もうフィーネ様以外の誰もが声を上げられなくなってしまう。
「さあ、答えてみろ。何か弁明はあるか、フィーネ・カンツォーネ!」
アレグロ王子が高らかに言う。その背後で、カノン嬢がほくそ笑むように口角を上げたような気がした。
(まさか、フィーネ様が声を出せないと知って言ったのか……!?)
その顔を見て、ゾワっと背中に悪寒が走った。
フィーネ様に視線をやる。俺の、いや会場中の注目を集めて、フィーネ様は血の気の引いた顔でアレグロ王子とカノン嬢を見据えていた。
「フィーネ様……」
心配そうに名前を呼ぶと、フィーネ様はこちらを振り返り、小さく笑みを作った。『だいじょうぶ』、そう口元だけで呟くと、もう一度殿下の方を向き直る。
そしてーー
「弁明ならありますわ、アレグロ殿下」
フィーネ様の口から、滑らかな言葉が流れ出た。
凛とした声だった。舞踏会のあの夜のように、耳をすまさなければ聞き取れないような小さな声ではない。よく聞いていないとわからないような、途切れ途切れの声でもない。
はっきりとした発音で、会場中に響くような声量で、フィーネ様が言葉を発したのだ。
「え……っ!? い、今の、フィーネの声、なのか……!?」
「嘘、どうして『人形姫』が言葉を出せるの……!?」
アレグロ王子も、カノン嬢も、驚き戸惑っている。声には出していないが、もちろん俺も。
初めて聞くフィーネ様の素の声に会場中がざわめくなか、カペラ様たち3人のご友人だけは、にっこりと満足そうに微笑んでいる。
「まずはじめに、カノン様。そのドレスをわたくしが破っていたのを見たとおっしゃいましたが、お話から察するに卒業パーティの前……いえ、卒業式典の最中のことですか?」
驚く俺たちを尻目に、フィーネ様は話を続ける。淀みなく紡がれる言葉に、本当にこの声の主がフィーネ様なのか疑ってしまうほどだ。
「えっ……!? え、ええ、そうです! ま、まさか知らばっくれるつもりですか!?」
「いいえ、ただの確認です。では、ドレスが破られたのは式典の最中、そしてそれが終わった後、殿下が一人で泣いていたカノンさんを見つけた……という時系列で合っていますか?」
「あ、ああ……その通りだが……」
二人は面食らいつつも、フィーネ様のペースに乗せられないよう努めて返した。フィーネ様は、そうやって二人にひとつひとつ状況を聞き出すと、「なるほど、それならば」と得心したように頷いた。そして、
「それならば、わたくしがそのドレスを切り裂いた犯人ということは、絶対にあり得ませんわ」
そして、はっきりとした声で、そう言い切ったのだ。
「な……っ! 貴様、言い逃れするつもりか!」
「言い逃れではありません、正当な反論です。わたくし、卒業式典の最中多くの方と行動をともにしておりました。一人で寮に戻り、カノンさんの部屋に侵入するような時間なんてありませんわ」
曇りなく言い放つフィーネ様に、アレグロ王子は少しだけ動揺したようだった。だが、すぐ隣に立つカノン嬢を見て思い直し、こちらも堂々と言い返す。
「ふんっ、どうせ取り巻きたちに話を合わせるよう言っているのだろう! それなら、その行動を共にしていたという者立ちをここに連れてきて、証言させてみろ! その者たちに王族の前で偽証する勇気があればの話だがな!」
「……なるほど、わかりました」
フィーネ様は、アレグロ王子の言葉に小さくため息をつくと、カペラ様たちにひとつ目配せをした。カペラ様たちはそれに頷くと、パーティ会場の裏口へまわり、外に向かって何かを合図する。
「……? な、なんだ……?」
アレグロ王子が戸惑ったような声を出す。それもそうだろう。カペラ様が合図を出した裏口から、それぞれ楽器を手に持った者たちが、ゾロゾロと会場内に入って来たのだから。
「ーー殿下。この方々が、わたくしが卒業式典中に行動を共にしていた方たちですわ」
「へっ……?」
そんな間抜けな声を漏らしたのが、アレグロ王子だったのかカノン嬢だったのか、はたまた俺だったのかわからない。
アレグロ殿下も、カノン嬢も、そして俺も、フィーネ様が誰かと行動を共にしていたというのならそれはカペラ様たちだろうと思っていた。そして、彼女らから「一緒にいた」という証言が出ても、仲良くしている友人たちの言葉なんて信じられないと突っぱねられてしまうだろうとも。
だが、今ここに並ぶ者たちは、特別フィーネ様と親しくしている者だけではない。顔を見ればこの学園の生徒だとわかるが、学年もクラスもバラバラだ。
そして何より、数が多すぎる。何十人もの生徒たちに、フィーネ様が口裏を合わせるよう言って寮へ出かけ、カノン嬢のドレスを切り裂いただなんてさすがのアレグロ王子でも言えないだろう。そんなことをするくらいなら、誰か一人に命じてやらせた方がずっと早いし、証拠も残らないのに。
「こ、こんな大人数で、一体何をしていたというんだ……? というか、なぜみんな楽器を持っているんだ……?」
それはたしかにそうだ。パーティに出席せずに、だが裏口に楽器を持って集合しているだなんて、一体なぜ?
疑問を投げかけるアレグロ王子に、フィーネ様は「こんなに早くネタバレするつもりはなかったのですが……」とため息をつきつつ、
「実は、わたくしたち在校生一同で、卒業生のために何か催しをできないかとずっと話し合っていたんです。今年は殿下の卒業の年ですから、貴族クラスも平民クラスも関係なく、何か一丸となってできることがないだろうかと。そして、先生方とも相談して、パーティの中盤に時間をもらい、わたくしたちの演奏で卒業生のみなさまに踊ってもらおうと計画していたのです」
そう説明した。
これに賛同してくれた在校生は学年クラス問わず多く、それが今ここに楽器を持って集まっている者だちなのだ。そして、卒業生しか参加しない卒業式典の最中は、その準備の大詰めとなっており、フィーネ様も当然そっちに参加している。多くの生徒だけでなく、計画に協力した教師陣にも顔を見られているため、ドレスを切り裂きに寮に戻る時間はない。
「そ、それじゃあ、カノンのドレスを切り裂いた犯人は、いったい誰だというんだ……!?」
「それについてはわからないとしか……。卒業生の皆様は式典に参加していますし、在校生はほとんど皆、このパーティでの催しの準備でお互い顔を合わせています。式典にも準備にも顔を出していない教員の方や事務員の方、来賓の方になら可能かもしれませんが……。でも、そもそも他でもないカノンさんが、わたくしがやったところを見たとおっしゃっているのでしょう?」
「ど、どういうことなんだ、カノン!?」
アレグロ王子が、焦ったようにカノン嬢を問い詰める。カノン嬢はすっかり青ざめた顔で、何も言えずただカタカタと体を震わせていた。
「どういうこと?」
「カノン嬢の自作自演じゃないかってことだろ? 他にできる人がいないんだから」
「ああ、たしかにあの子、前からあることないこと殿下たちに吹き込んでたもんね」
未だ状況を飲み込めていない者たちが、ひそひそと話し始めた。その言葉にアレグロ王子は、「前から!? 前からとはどういうことだ!?」と声を上げる。
「だ、騙されないでくださいアレグロ様! フィーネ様はきっと、アレグロ様に婚約破棄されたくない一心で、たくさんの生徒たちに話を合わせるようお願いしたんですわ!」
「そ、そうか! やはりそうだよな! くそっ、この私を騙そうとするとは、やはりお前は王子妃には相応しくない……この学園から、いや貴族社会から追放してやる!」
「え……っ!?」
「、フィーネ様!」
激情したアレグロ王子が、フィーネ様に掴み掛かろうと手を伸ばす。俺はそれを庇うように、フィーネ様とアレグロ王子の間に入り込んだ。
「っ、なんだお前は! 平民がこの私の前に立ち塞がって、ただで済むと思っているのか!?」
「暴力から女性を守るのに、平民も貴族もないでしょう……っーー痛ッ!」
「こ、コーダ様!」
フィーネ様が俺の名前を呼ぶ。王子の取り巻きの一人が、王子の命で俺を取り押さえた。
一介の平民が一国の王子に刃向かうなんて、いくら『平等』を謳うこの学園でもただでは済まないだろう。
ああ、やっちまったなあ……そうは思うが、あのままフィーネ様が傷付けられるのを、黙って見ていられるほど大人じゃなかった。さて、俺はこれからどうなるんだろう。フィーネ様と一緒なら、追放処分でも構わないのだが……。
そんなことを考えていると、
「そこまでだ、アレグロ」
やけに重々しい声が響いた。それほど大きな声ではなかったはずなのに、会場は水を打ったように静まり返る。
取り押さえられたまま、首だけ声の方へ向け、俺は目を見開いた。
「ち、父上……!? どうしてここに……!」
アレグロ殿下のお父上ーーつまり、この国の国王陛下が、そこに立っていたのだ。
「……かわいい息子の卒業式だ、お忍びで様子を見にきていたのだが……これはどういうことだ、アレグロ?」
陛下は、取り押さえられた俺と、それを心配そうに見つめるフィーネ様にそれぞれ目をやりながら、そう言った。
「儂には、フィーネ嬢をお前の暴力から守ろうとした少年が、逆上されて取り押さえられているように見えるのだが?」
「……ッ!」
その言葉に、陛下が一部始終を見ていたことがわかる。アレグロ王子は真っ青になって言葉をなくしてしまった。
そんな彼に、陛下はひとつため息をつくと、
「……アレグロ。お前は、フィーネ嬢との婚約を破棄したいそうだな」
静かにそう問いかけた。
「え……? そ、そうです! 父上、聞いてください。フィーネは今まで、カノンというこの平民の少女に嫌がらせを続けていたのです! 平民だからと身分で差別するような女が、王子妃に相応しいとは思いません! どうか、フィーネとの婚約を破棄させてください!」
「なるほど……お前の気持ちはわかった」
言い募るアレグロ王子に、陛下は重々しく息を吐くと、懐から何かを取り出し言った。
「ここに、お前とフィーネ嬢の婚約解消証書がある」
「え……っ!?」
突然のことに会場がざわめく。このスフォルツァンド王国では、貴族同士の婚約・結婚は基本的に国王の承認が必要になる。その破棄や解消についてもだ。
その証書を国王陛下が持ってきているということは、アレグロ王子の言う通りフィーネ様との婚約破棄
を認めるということか?
会場中の生徒たちが固唾を飲んで見守るなか、アレグロ王子が喜びに満ちた声で「つまり、私たちのこの婚約破棄を認めてくださるということですか!?」と叫んだ。
だが陛下は、
「なにを馬鹿なことを! お前たちの婚約は、もうとっくに解消されているのだ!」
そうアレグロ王子を怒鳴りつけた。
「へ……!? ど、どういうことですか父上!? もうすでに、婚約が解消されている……!?」
「ああ、そうだ。以前からカンツォーネ公爵も交えて話し合っていたのだが、先日正式に解消する運びとなった。フィーネ嬢もとっくに知っているぞ。お前にはまだ伝えていなかったがな」
「そ、そんな……なんで……」
唖然とするアレグロ王子に、陛下は坦々と語る。
「もともと、学園でのお前の報告は聞いておった。フィーネ嬢という婚約者がいるにも関わらず、どこぞの平民女にたぶらかされて学業にも身が入っていないとな。だが一時の気の迷い、学生時代のただの遊びだろうと気にしていなかった。何より、フィーネ嬢本人がそれを許しておったからな」
だがーーと陛下は続ける。
「だが、秋の舞踏会の時に、お前はフィーネ嬢ではなく、カノン嬢にドレスを贈ったな? そして、フィーネ嬢ではなくそこのカノン嬢をエスコートして舞踏会に参加したというではないか!」
貴族クラス限定の行事に平民クラスの者を連れてくるという規則違反を王子自ら行ったこと、カノン嬢に贈ったドレスの代金は本来フィーネ嬢に使われるはずのお金だったことなど、陛下は静かな声でアレグロ王子を咎めた。正式な婚約者であるフィーネ様をエスコートせず、しかもその後フィーネ様が舞踏会に現れなかったことで、この舞踏会の噂は社交界でもそこそこ話題になっていたらしい。
二人の仲が破綻していることに、陛下はとっくに気づいていた。そしてそんな折、フィーネ様の方からカンツォーネ公爵を通して、正式に婚約解消を申し出たそうである。
「フィーネ嬢は、お前が本当にカノン嬢を愛しているのなら、その仲を応援してやりたいと言っていたのだぞ。カノン嬢の身分が問題となるのなら、一度カンツォーネ家に養子として迎えることも考えると、そう言っていたのだぞ」
元々フィーネ様とアレグロ王子の婚約は、王族とカンツォーネ公爵家の繋がりを深めるための政略結婚だ。カンツォーネ家の令嬢であるならばフィーネ様でなくても、養子となったカノン嬢でも問題ないだろう、ということだろう。
「お前が婚約破棄だの言い出す前から、もうこの婚約は解消されていたんだ。それなのになぜフィーネ嬢が、わざわざドレスなど切り裂かなければならないのだ」
「でも、じゃあ……カノンの話はなんだったって言うんですか……!? 毎日毎日いじめられたと、一人で泣きながら話していたあの話は……」
アレグロ王子は、信じられないとでもいうように首を振り、頭を抱えた。
そんな彼にカノン嬢は「嘘よ、信じて」「本当にいじめられていたの」と言い募ったが、陛下に命じられた騎士たちに連行され、会場を後にした。
「……フィーネ嬢も、すまなかったな。儂がもっと早く婚約解消の件を伝えていればよかったのだが……」
「いいえ、陛下。アレグロ殿下の心を留めおけなかったわたくしの方に責任がありますから」
「ふっ、それは我が愚息にも同じことが言えるのでな。ここはひとつ、お互い様ということにしてくれ」
陛下はフィーネ嬢にそう言うと、腑抜けた顔のアレグロ王子の腕を取り、護衛の騎士たちと共に歩き出した。会場を出る一歩手前で、
「皆のもの、騒がせてすまなかったな。邪魔してしまったが、心ゆくまでパーティを楽しんでくれ」
と声を張り上げ、そのままアレグロ王子と共に会場を出ていった。
国王陛下が会場を去ると、ワッとあちこちから話し声が上がる。「突然陛下が現れるなんて、びっくりした!」「アレグロ殿下、どうなるのかな?」「さあ?」「卒業パーティでこんな騒ぎを起こしたんだから、お叱りは受けるだろうけどねえ」「まあいっか、せっかく陛下が楽しんでって言ってたんだから、楽しもうぜ!」ーーなどなど。
「……コーダ様」
そんな喧騒をバックに、フィーネ様が俺に声をかけてくる。相変わらず凛とした、透き通った綺麗な声だ。
俺は取り押さえられた時に捻った腕を撫でながら、そちらに顔を向けた。
「あの、お怪我はございませんか? コーダ様の大切な指に、もしも何かあったら……!」
「はは、大したことありませんよ。フィーネ様こそ大丈夫ですか? その、いろいろと……」
「ええ、わたくしはなんともありませんわ」
心配する俺に、フィーネ様は笑顔で答えてくれる。誤解は解けたとはいえいわれなき罪で断罪されかけて、疲弊していないわけがないのに。
だけど、俺を安心させようというフィーネ様の心遣いを無駄にするわけにはいかない。俺もまた笑顔を作り、「それならよかった」と答えた。
あんな騒ぎがあったあとだと言うのに、パーティ会場は、飲めや踊れやの大騒ぎだ。むしろあんな騒ぎがあったからこそ、非日常さを感じて更に羽目を外しているのだろうか。
「そういえば、さっきは驚きましたよ。フィーネ様が突然スラスラ話し始めるものだから」
冗談めかしてそう言うと、フィーネ様もクスッと笑って「卒業祝いです」と答えた。
「実は、カペラ様たちに付き合ってもらって、こっそり練習していたんです。コーダ様が、わたくしの声が聞きたいと言ったから」
「え……っ!?」
驚きましたか、とフィーネ様は目を細めて笑う。そりゃあ驚きますよ。あんな冗談半分に言った言葉のために、どれだけ頑張ってくれたんですか。ほんの少し前までは、紙とペンがなければ会話のひとつもできなかったというのに。
今こうやってスラスラと話せているのも、俺のために練習した成果なのかーーそう思うと感動が胸に込み上げてきて、これで卒業なのだという寂しさも相まって、なんだか涙まで出てきそうだった。
「だけど、残念です。アレグロ殿下が割り込んで来なければ、もっと驚くようなタイミングで話そうと思っていたのにーー」
「ぶはっ! 充分驚きましたよ。俺だけじゃなく、会場中が驚いていましたけどね」
拍子抜けした顔のアレグロ王子やカノン嬢のことを思い出す。
……もしフィーネ様が未だ話せないままだったら、もしかしたら彼らの思惑通りにことが運んでいたのかもしれない。そう思うと、あの時卒業祝いに「フィーネ様の声が聞きたい」と言っておいて正解だったと心の底から思った。
「……あの、それと……わたくし、コーダ様に言っておかなければならないことがあるんです」
「言っておかなきゃならないこと? なんでしょう?」
「ええ……わたくしがとある歌劇団からお誘いを受けているという話は、覚えているでしょうか?」
そのことならもちろん覚えている。フィーネ様の歌声に目をつけて、「卒業まで待つ」と言ってくれた歌劇団のことだろう。フィーネ様はそれに学園を中退してでも応えようかと迷っていたようだったが……。
「わたくし、例の歌劇団のお誘いを受けようと思うんです」
「って、学園を辞めると言うことですか!?」
「ええ。お父様にも許可は取ってあります」
お父様って、カンツォーネ公爵!? よく許したな、と公爵の懐の深さに驚く。いやむしろ、どうにか説得したフィーネ様の胆力に驚くべきか。
「アレグロ殿下との婚約が解消になった今、嫁の貰い手もないでしょうし、好きにやればいいと言ってくださったんです。学園を中退するのだけは、最後の最後まで反対されましたけどね」
「そりゃあそうでしょう……あと1年だけですし、卒業だけはするという選択肢はなかったんですか?」
「はい、ありません。だってーーはやく貴方と、並び立ちたかったんだもの」
「……へ?」
緑の瞳にまっすぐ見つめられ、どきりと胸が脈打つ。フィーネ様は俺の目を見つめたまま言葉を続けた。
「今度はコーダ様、貴方に連れられてではなく、自分の意志で舞台に立ちたいんです。そしてわたくし自身の力で、貴方のように、身を立てることができたらーーその時はわたくしの方から、貴方を迎えに行ってもいいでしょうか?」
ーーまるでプロポーズの言葉だ。俺は勘違いしそうになるのを抑え、「もちろん、また一緒に舞台に立ちましょう」と答えた。
「……この顔は、わかっていない顔ですわね」
「え? 何か言いましたか、フィーネ様?」
「いいえ、何にも」
首を傾げる俺に、フィーネ様は笑って答える。よくわからないが、フィーネ様が楽しそうだからそれでいいかと思った。
「フィーネ様、コーダ様! こっちでみんなで踊りましょうよ!」
「そうだ、せっかくなんですから、フィーネ様に歌ってもらいませんこと?」
「あっ、いいですねそれ! さあフィーネ様、コーダ様、はやくはやく!」
そんな俺たちに、カペラ様たちから声がかかる。そうだ、今はまだ卒業パーティの最中なんだった。
俺は「今行きます!」と返事をして、フィーネ様に手を差し伸べる。
「さあ、フィーネ様。一曲歌っていただけますか?」
「ええ、もちろん」
そうして俺たちは手を取り合って、喧騒の中に混ざっていった。
その日、パーティ会場は、いつまでも楽しげな音楽に満ち溢れていた。
了