月と僕
昨日と同じ時間のはずなのに、辺りはしん、と静まり返っている。
確か昨日は、小柄なおばあちゃんが柴犬を散歩させていたし、そのベンチに高校生カップルが座っていた。
22時を過ぎていただろうか、こんなに遅くまでデートとは、とちょっと説教をしてやりたくなったのを覚えている。薄ら寒い秋の夜なのに、ひとつのアイスクリームを分け合っていて、もうそんなもの今すぐ溶けてしまえ、と思った。
別に嫉妬などではない。
断じて羨ましいからではない。
大事なことだから二度言う。嫉妬ではない。
職場の雰囲気は良好で、僕はいつもこんな時間までダラダラとデスクに座っている。
仕事はそんなに多くなく、定時プラス1時間もあれば十二分にできるのだが、その後彼女が帰るまで、なんやかんや後輩の仕事の世話を焼いたり遊んだり焼いたりしながらその場に残っている。
彼女はそんな僕を、仕方ないわねという目で見て、カチャカチャとキーボードをたたいていた。
入社してから5年、彼女の下についていろいろ教わってきた。
仕事も、恋も。
僕が彼女に堕ちたのはあっという間だった。
さらっとした髪をいつもひとつにまとめ、赤茶色のオーパル型のメガネをしていた。いかにも仕事のできそうな彼女が、ひとつ仕事を終えたお祝いに連れて行ってくれた居酒屋で、僕は口から心臓が出そうになった。心臓どころかなんか体中のものが溶けてしまうかと思えた。
メガネの下でこんなにも素敵な瞳をしていたのかと。スーツの下はこんなにも熟れた香りがしたのかと。
おろした髪からはいい匂いがして、僕は瞬間死にそうに恋をした。
かわいい。かわいい。かわいい。
僕の光だ、女神様だ!
ギャップ萌えなどという軽いものではない。
彼女は完璧なのだ。仕事の仕方も、上司への気配りも、後輩のフォローも、なんならランチの食べ方やフロアを歩くその姿も完璧なのだ。
そんな彼女の素がまたしても完璧に美しいだなんて、一体どうなってるんだろう。
ところが、まあ、
当然彼女には彼氏さんがいたわけで。
居酒屋に一緒に行くようになって5年。
酒に弱い彼女が、ぽつりぽつりと話す彼氏像はこうだ。
彼女よりふたつ、年上。仕事は早朝から深夜まで。
同棲中。優しい。けれど何か物足りない。
朝は甲斐甲斐しく弁当を作り、帰ったら彼氏さんの分までご飯を用意する。食べられないで朝まで残る時も多い。お互いの部屋で仕事をして一日会わないこともある。
えっちは週に2回。どちらから誘っても良くて、その時ばかりは仕事の手を止めることにしている。
ふうむ。僕にできることはその物足りなさを埋めることだろうか。
というか、全く見当もつかないから、今のところお手上げ状態なのである。
「あーあ。」
そう口に出して、昨日カップルが座っていたベンチに腰を下ろした。
公園の入口で買ったホットコーヒーの缶を開ける。
かき、っと音がした後ふわっと芳ばしい香りが広がった。
月の光が柔らかく広場を照らしている。若干見にくいが滑り台が水色であることはわかる。
彼女に好きだと告白してからも5年。
あれから何も変わっちゃいない。
3度抱いた。
はじめはお願いして、2度目は彼女が逆に興奮して、3度目は同意の上。
それでも何も僕たちは変わらない。
何も失わないが、手に入れられもしない。
彼女は、付き合ったら別れるかもしれなくなるわよ、と言った。
……だったら今のままであったほうがいいのかもしれないとも思う。僕は何より彼女のそばにいたいし、どんな形であれ、大切ないちピースでありたい。僕でしか埋まらない箇所があるならそれだけで本望だ。
そう思うのに、
ふと、彼女を自分だけのものにしたくて堪らなくなる。
壊して壊して、泣かせて啼かせて、僕を懇願してほしいと、そう思う。どす黒い征服欲。それを隠してまた明日も会社へ行くのだ。
明日こそはあの彼女のタイトスカートを僕ので汚してやる。僕だって一人の男だ。あの余裕を泣かずにはいられないほど気持ちよくさせて剥がしてやりたい。
しかし冷静な判断のできる、強い彼女も好きで、僕の中はいっつも矛盾だらけだ。
彼女が彼氏さんを語る時の、誰にも見せないはにかんだ可愛らしさは今の僕だからこそ見えるものなのだ、わかっている。
ずっとずっと、いろんな表情を見たい。
そこまでいつもの一周を考えて、コーヒーの空き缶をゴミ箱へ投げ入れた。
いつもぐるりと彼女のことを考えてから帰宅する。
結局今のままが安全でいいのだと、自分に言い聞かせる時間だ。
月光が雲に霞んで空を白くした。
彼女までの距離は、今の僕と月のようで、
影だけを色濃くおとして静かに輝いているのだった。
音も立てずに、ただ静かに。




