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月明かり下で君を待つ

一幕:オデットが魔法に掛けられること


 S駅のホームに流れる音楽がけっこう気に入っている。

 踊りやすくて、気持ちのいいステップなのです。

 朝の出勤ラッシュの時にわざわざ目立たないようにのろのろと電車から降りて、川を上る魚のように大挙をなして駆け上がっていくサラリーマンを見送り、空になった電車が走り出す風に乗ってワン、ツー、スリーと一回り。

スカートがタイトでなければもうちょい派手に動きたいところだけども。

でも、そこは我慢して。

風のように人々の過ぎ去った階段をふわり、ふわりと昇るのだ。


 天井の高い駅の構内はわさわさと忙しない音を立てていて、日本らしい静けさと空気の張り詰めた緊張感を同時に保っていた。一日はまだ準備段階で、準備体操だってまだしてないような、そんな雰囲気で満ちている。天井から入る光は、埃っぽい空気を照らして白みがかっている。

 よし、とばかりに息をつき、人の流れに乗りながら、駅を出て空中遊歩道を歩き、駅前通りにでる。

 正面のメインストリートは海に繋がっていて、ビルの谷間に小さく青い揺らめきがある。

 右手にはうん十階あるかわからんというオフィスビルがそびえていて、遊歩道はそのビルをくり抜くように伸びている。

 わたしは大手商社がはいるようなそのビルではなくて、左手に伸びたサブにあたる通りの奥。空中遊歩道が切れて階段を下り、吉牛とか、ファミレスとか色んなお店やらなんやら乱立する雑居ビル群の中にある小さな商社にお勤めである。

 ビルの中に入ると、エレベータ待ちをしている人たちの後ろ姿がある。みんな同じ会社の人間だけど、ほとんど名前も部署も知らない人たちだ。

 その中で、見知った人を見つけてしまった。ちょっぴり幸せな気分。

「りっちゃんオハイオ」

 ちょっと眠たげな糸目の小林 律子さんだ。

 声を掛けたわたしにはにかんで、答える。

「ワイハ~、あんこさん」

 二人とも、一度も行ったことのない州の名前を挨拶に言って、微妙な沈黙が走る。

 チンという音が鳴り、エレベータの口が開く。

「今日も仕事だねぇ」

 ちょっと彼女の方に顔を向ける。

まじまじとではない。

少し背の高い彼女は、向けられた視線に答えてはにかむ。この姿がなんとも穏やかでほっとする。

「そうですね」

「楽しい楽しい仕事の時間だよ」

「そ、そうですか?」

「……すいません、心にもないことを」

「いえ……」

「だって今日は金曜だし、明日から休みかと思うと、なんかわくわくっとならない?」

「ま、あ、そうです、けど」

「けど?」

「わたし、アンちゃんみたいに週末充実してないから……」

「わたしは、ただのライフワークっていうか、やらなきゃ気が済まない系? 充実してるかなあ……目標とかも持ってないし。楽しいけどね。りっちゃんもやらない?」

「わたしは、筋肉ぷよぷよだからなあ……よれよれしちゃうかも」

「最初は誰でもそうだよ。わたしだって何年もやってるけど、未だによれよれよぉ」

「そう、なの? 信じられない」

 エレベータが目的地について止まり、すぐそこに見える職場はピリピリとした緊張感を放出している。

「気が向いたら言ってよね。大歓迎なんだから」

「う、うん」

「じゃね」「また後でね」

 手を振り別れる。

りっちゃんは良い人だけど、あんまり会話のノリはよくない。

本当はうざったいって思ってるんじゃないかと不安になったこともあった。

でも一度お酒を飲ませて聞いてみたら、いかに自分が会話を苦手にしているかをとくとくと語ってくれたことがある。

わたしは会話が続かないと不安になるもの。彼女はもの静かなもの。

そういうものなのだ。

言葉って多くても少なくても難しいものなのです。

「おはよう~」

 りっちゃんの代わりにへらへらと口元から締りのない男が現れた。

「おはようございます」

「アンちゃん、今日も可愛いねぇ」

 かるぅい感じで可愛いと言われて少々むかっときた。

いつものことなのだが、これのあしらいは慣れない。顔にもろに出して、しっしと手でアピールするくらいである。

この男、相沢あいざわ 春真はるまはチャラ男である。仕事はできるし、基本的には親切なのだが、この口調が鼻について曲がりそうになる。

「あ、褒めたのにアンちゃんが冷たくする。傷つくわぁ」

「ああ、もう。そのまま消えてなくなれば清々とするのですけどね」

「は、はっきり言われてしまった」

 しゅん、とがっかりとして春真は去って行く。

 なぜだかここで「なんか、悪いことしたな」と思ってしまう。あの後ろ姿に母性をそそられてしまう自分に憤りさえ感じるのだが。

「相沢さん」

「ん? なんですか」

 思わず声を掛けて。

 嬉々として振り返る春真を見てこの度も己を呪ったものの、放ってしまった言葉は放ってしまったものなので、しようがなく……ため息を混ぜつつ。

「わたしが悪かったので、そんなしゅん、としないでください」と続ける。

 その時の彼の反応といったら、なんとまあガキっぽく、あっという間の七面層というか。

うれしそうな顔に変わる。

「そう? やっぱりアンちゃんは良い人だなあ。今日の夕食一緒に食べない?」

 しかし夕食だ、と?

「調子に乗るなよ、相沢」

 思わず本音を言ってしまった。だって脈絡もないし……それに、あまりに唐突で初めてのことだったので、びっくりしてしまうではないか。

「わあ、アンちゃん怖い」

「う、その、まあごめんなさい。でも、夕食ってその、わたしなんかと行ってもつまんないですよ」

「ううん、そんなことはないよ。たまにはセンパイとして、同僚と親睦を深めたいな、と思ったんだけど……ダメ?」

「……」

 こんなときにばっかり先輩風ふかさなくても良いのだが、無下にもできない。上手く話を持ってかれてしまったようだ。

「……分かりました」

「わあい、今日も仕事が楽しいなぁ」

 喜び勇んで自分のデスクの方に春真が去っていく。人生楽しそうで何よりなことだ。おかげで、わたしの晩御飯は緊張感のある楽しくないものになってしまいそうである。

 べ、別に彼が怖いとかいうのではなくて。

 異性と二人きりになるのが、あまり慣れていないから、何を話したらいいんだろう、とかどれくらい話を盛り上げたらいいのか、とか考えてしまうからだ。

 わたしの通っているバレエスクールにも男性の方は当然いるし、食事にも行く機会はあるのだけど、他にも人はいるし女性が多い。

 初めて、男性から食事の誘い……。

 そういえば、あれだけ軽軽な言動のくせに食事に誘ってくるようなナンパ行為は初めてのことだったかもしれない。

 わたしは何か釈然としない思いを抱えて、仕事に向かった。

「また、春真君にナンパされちゃったの? 大変だね~」

 隣の女の子から、ちゃちを入れられて。

 ああ、これはくどかれちゃってるのかしら? なんてあっけらかんとしてしまう自分がいる。

残念ながら、わたしという女は恋愛に興味がないらしい。下手に意識しても何の感触も掴めない。そういえば自分の心の中に占められているものといえばバレエのことだけなのである。

 考えれば考えるほど彼にどう接したらいいかわからなくて、不安になった。

 不安になるのに、考えるのは面倒。彼を彼以上に、つまりアホのフォーカスから外すのはちょっと骨が折れる。

 いや、眼中にない。というのではないのだけども、あまり悩み悩み抜くというような、心を痛める自分に気づけばしらけてしまう。


 それから春真の仕事姿を追ってしまう自分がいた。

 相変わらず仕事はへらへらとヤル気ない感じにいつの間にか書類を作成しては提出し、いつのにか休憩にいっている。

 そういえば春真が作った書類は必ず一発、やり直しなしで終わっている。そつがない。そして余分なことは一切しない。休憩中は誰かと話したり、職場の女子とナンパな会話したり……あとよく空を見ている。

 はきはきとしていないのは、まあなんとなく理解できるとして、何時なんどきも楽しそうにしていることがない。仕事を楽しそうにやるというのも変な話かもしれないけれど、全てにおいて軽くいなすように振る舞う春真の姿は見ていて不思議だ。

 目が合う。

 わたしははっとして手で口を押さえ、春真は笑って手を振った。

 これも軽くいなしているだけなんだろうか。そう思わずにはいられなかった。



「アンちゃん、さっそく行こうよぅ」

 しかし遂に終業時間となり、春真がやってきた。

思わず眉を中央に寄せてしまった。

「だめ?」

 遠慮がちに春真が尋ねる。

めんどくささと、軽い興味とが入り交じって何とも言えない気持ちになった。。

「いえ、約束は約束なので行きましょう」と、ぼそり。つぶやき気味な返答が限界なのです。

 チロチロと見てくるみんなの視線を跳ね除け、肩をパキポキならして一日の疲れを散らしながら、わたしたち会社を出た。


 当然のことながら、なんの会話をしていいものやら分かりません。

「もうちょっと楽しそうにしてくれると、助かるんだけど……」

 隣にいる春真が再び遠慮がちにも無理な注文を出してきた。

「これが精一杯です」

 そう答えると、驚きの発言が飛び出る。

「そんな馬鹿な。バレエをやってるときはもっと楽しそうにしてたよ」

 いつもの大げさな表現で、わたしに迫ってきた。

「あ、あなた、いつ見たんですか……」

「うん。夜の帰り道にふと電車から君ん所のバレエスタジオが見えてね」

「シャルウィーダンスじゃないんだから、そんな冗談よしてください」

「ははは、でも見ちゃったんだな。職場以外で同僚を見かけると、なんだか嬉しい気持ちになるね。楽しそうにしているアンちゃんを見たら、なんだか羨ましくなっちゃった」

「はあ……」

 わたしは困ってしまった。

楽しいってなんだろう。


 春真は小さな雑居ビルの幅の狭い階段を昇っていく。

 階段からしてレトロな雰囲気。昭和にあったであろう広告とか、とりとめのないポスターが壁に敷き詰められている。

「へえー」と思わず感心すると、春真は嬉しそうに鼻を鳴らした。

 期待をもっていざ店内に行く。

すると、レンガ調の壁に点点と灯る壁かけの明かりが、落ち着いたムードを作り出している中、ふわっとステーキの香ばしい香りが漂ってくるのが分かった。

 急におなかが減ってきた。

「ここ、ステーキ屋さんなんだね」

 わたしが言うと、彼はチチチと舌を鳴らした。

「のん、のん。ちょっと違うネ。ここ、ビフテキショップよ」

「ビフテキ?」

 相変わらずのうざったい言葉づかいが気になったが、この際置いておかなければなるまい。

 ビフテキ。つまり、ビーフステーキである。ポークステーキやチキンステーキなどとは、わざわざ差別化されたネーミングである。今時ステーキと言ったら牛で決まりなのだが、わざわざそういう言い方をするあたり、このお店はやはりレトロを売りにしているのだろう。

 お店は、小洒落たレストランなどとは違い、こじんまりと、また居酒屋のようなむき出しの荒っぽさを残していて、ウエイターの仕草、エプロンも、庶民派に思える。他のお客さんをちらっと見ると、丼物などもあるらしいことが分かる。

 この、ムードの落ち着き払った内観とのギャップは、懐かしい雰囲気を演出には十分に思えた。なんだかほっとするようなワクワクするような。

 実に面白い。

「良いね、ここ」

 水やナプキン、ナイフやフォークを置かれ、一段落の一息をついたわたしは、そう春真に言う。

「いやいや、その賛辞は実食いただくまでとっておきましょう」

 慣れないご謙遜をまた、と言いそうになるのを堪え、わたしはさらに言葉をつないだ。

「しかし、なぜまた、その、えと……ビフテキ? そのチョイスなのですか」

「アンちゃん、結構食べるの好きかな、と思って。最初はこういうムードありつつもがっつり食べられる場所を選んでみました」

「はあ。確かに食べるのは好きだけど」

「ほら、バレエってすごい体力使いそうじゃん?」

「んー、まあね。柔軟な姿勢を保つ体力と筋力は必要かな」

「うーん、すごいね」

「そーかな……」

 春真はうんうん、と何かを確認するかのようにひとりうなずいて、メニューをぱらぱらめくっていた。

「あの、相沢君?」

「なあに?」

「わたし、何を注文すれば良いかしら? せっかくだし、君のお勧めに乗っかってみたいな」

「ほお、そう来ましたか。じゃあ、僕の一押しを……て、まあ無難にステーキセットなんてどうでしょう。グラムは無難に百グラムとか行っときますかな。食べれる?」

「うん。レッスンとかやると二百くらい平気でペロリといきますから、大丈夫だと思う」

「よしきた」

 そう言って春真はウエイターを呼んだ。店は狭いのですぐにウエイターも捕まった。

 漂う風にのってか、ビフテキの良い匂いがして、思わず味を想像してしまう。

「アンちゃんほっぺが落ちてますよ」

「う、うるさいな、何が悪いというんですか」

「いや、可愛いっておもっただけ」

 不覚にもそのセリフにちょっとドキっとしてしまった。これはもしかすると餌付けされているのか?


「美味しかったぁ」

 見事に二百グラムのビフテキを平らげて、はと気づくと、食べるペースの遅い彼の皿が見えて、ちょっと恥ずかしくなった。

「あ……」

「いやいや、なによりっすよ。会話も無くなるくらい真剣に食べておられたので、こちらとしても、たいへん結構なことで……」

 そのセリフに更に恥ずかしくなった。

「うう、なんたる失態」

「いやいや、本当に気にしないでよ。何も女の子の品格がおしとやかで清楚というだけで決まるというわけでもないでしょ」

「君はそうかもしれないけど、普通はそうなんです」

「普通……ね。僕は楽しそうにしてる、自然体のアンちゃんで……良いと思うなあ。普通に無理しなくてもいいと思うけど」

「……気軽に楽しいとか言わないで下さいよ」

 ちょっぴり苦い沈黙が走ってしまう。

 彼の言いたいこと。分からなくもなかったし……。

ただ、世間体ってそんな簡単な理屈だけで動いているわけでもない。


「楽しければ、それでいいじゃない」


 わたしはへらへらとした顔を見ているうちに、とりあえずこの時だけは楽しんでいいのかな、なんて思えるようになっていた。



「じゃあ、また明日」

地下鉄の駅のホームで、春真は言う。彼はこの駅。わたしはもう何個か先だ。

 しまりのない、楽観的な別れのあいさつのままに彼は頭を振って歩きだす。

 ごうごうという地下鉄特有のうるさい空気の音は、プシューとドアーが閉まってなくなり、代わりに誰かの携帯の着信音が鳴っていた。

 オルゴールの音色に乗せてチムチムチェリーが流れる。

 やがて電車は動き始める。

規則正しく、来ては去る車窓の光。


『楽しければ、いいんじゃないか』


 ついこの間もこんなことを言われたような気がする。

 こて、とドアーの窓に額をくっつけて、言葉を繰り返す。冷たくなった額。

 繰り返される、言葉が詳細にその時の出来事を思い返させてきて、わたしは深いため息をついていた。



 都心に構える日本随一の芸術劇場であるING劇場は舞台劇や伝統芸能の殿堂と言われるほどの格式の高い劇場だ。

 そこで今、最も話題のバレエが上演中だった。

 演目は誰もが知る『白鳥の湖』で、オーケストラは日本を代表する『進藤記念オーケストラ』。そのタクトを振るのは炎のコバケンこと小早川 健三郎。そして、日本純正として最大規模ともいえるこの大舞台のプリマドンナこそ、今、日本とは言わず世界のバレエ界で燦然と輝き渡っているシンデレラガール。『緑川 絹子』である。

 わたし、緑川みどりかわ 杏子きょうこは、その母である緑川 絹子から手紙をもらって、このプラチナチケットを手に入れていた。

 セレブに交じってS席にいるのは場違いな感じはあったものの、なにを差し引いてもこの感動は薄れやしないのだった。

 オデットが湖の上を優雅に踊る。見守る白鳥たち。トウで立つ足が極めて優雅に、彫刻のような美の流線を描いて動いては止まる。指先まで神経の行き届いた白鳥のうねりが、伝わってくる。見惚れるあまりに目がそこから離れなかった。

 わたしはバレエをしている絹子のことをお母さんと呼ばない。

 絹子『さん』とか、『先生』と呼ぶ。

 本人はすごく嫌がるが、わたしだって尊敬している人にはありとあらゆる敬意を表したい気持ちもあるし、実際、バレエにおける彼女とわたしは天と地ほどの差があって遠いのだ。

 あまりにも近くにいるのに、手を伸ばしても届かない。

 まるで、オデットと王子のようだ。

 たくさんの白鳥が囲む中、悲しい運命を背負った少女のもがくは、それでもなお一層孤独なのだ。例え誰と交わろうとも、決して結ばれることはない。

いや、ただ、その。なんです。

圧倒的にわたしの場合は卑屈が混じっていると言わざるを得ないのだけども……。オデットの美しさを欠片ほど持っているかどうか。

ただ、恋した人に嫌われることほど胸が締め付けられることなどないのと同じように、大好きなバレエという王子様は、わたしには美しく、高貴であるが故にわたしの全てが否定されているような気持ちになってしまう。愛されたいけど近づけない。


こういうと、ちょっとロマンチック?


この小さな器には、あふれんばかりの水を湛えた泉からすくうには荷がかちすぎるから。夢だけを見て、泉の底でふわふわと漂うのが良いと、そう、感じていた。



 幕が下り、すっかり公演に興奮してしまったわたしはしばらく座席でぼーっとした。はと気がつくと、ほとんどホールに人がいなくなっていたので、慌てて飛び出ると、羽がついたかのような体の軽さに、走り出したくなるのを我慢しなければならないほどだった。

このままスタジオにでも行って踊りたいな、という誘惑に後ろ髪引かれながら、わたしはその足で絹子さんと会う約束をしていたホテルに行った。

当然絹子さんが来るまでには相当の時間がある。

しかし、何より余韻に浸る時間がほしかったので、ホテルのロビーにある小さなカフェでポータブルミュージックプレーヤーを耳に掛け、何を見るのでもなく顔を彷徨わせる。

オルガンの音色が空から降ってくるようだ。

解放感のあるホテルのロビーは、教会か神殿か、もしくはコンサート会場を提供してくれている。

薄暗闇の向こうから何か飛び出してきそうな予感。何か不思議なことが起きてしまいそうな期待が胸を高鳴らせる。

左手の人差し指と、薬指でテーブルをなぞる。

ワンステップツーステップと、テンポを刻んでこの小さな妖精を踊らせると、そばに置かれたコーヒーに波紋が広がる。

小洒落たカップとソーサーは小さな舞台の荘厳な舞台装置で、指のソリストはその周りで可憐に舞った。

「杏子ちゃーん」

 突然聞き覚えのある女性の声がしてびっくりした。イヤホンを外し、顔をあげると、ほっぺの赤くなった絹子さんが、コートを手に持って足早にこっちへ向かってきていた。

「あ、お母さん……」

「なによぉ、また悦に入ってたの? 昔から変わらないわね、あなたも」

「う、うるさいな。今日の、オデット……素敵だったから……だから……」

 わたしがもじもじとしながらそう言うと、絹子さんは満面の……安心したような、最高の心地のような笑顔を浮かべて、わたしを抱きしめた。

「ありがと。あなたにそう言ってもらえると、ダンサー冥利につきるわ」

「う、ん……」

 急いでやってきたのだろう、絹子さんの体はだいぶ顔を火照っていて、化粧の匂いが濃くわたしに届いた。

変わらない香りである。

「遅れてごめんね」

 わたしから離れ、面と向かって絹子さんが言う。

「ううん、そんことないよ」

 わたしは、少し照れくさくて伏せ見がちに答える。微笑み、安堵の息をつき。そして、絹子さんは元気よく言う。

「さっそく、晩飯と洒落こみますか!」

 なんというか、今までのムードは無視である。

「なにそれ、そんなに楽しみ?」

 気がそがれるもいいところだ。

「そりゃそうよ。あんなに動いたんだぜい。腹が減ってぇしょうがぁねえぜ」

 お母さん。うん、そう、お母さんは空気を入れ替えるように、そうやって、歌舞伎役者みたいに上体を揺らし、顔を歪めて言う。

「はは、やめてそれ。全然似合ってないし……」

「うるさい。さあさ、立った、立った。目指すはホテルの最上階。良いとこのウィークエンドディナーは格別。何も迷うことなし」

「あ、もう引っ張らないでよ」

 わたしは強引に手を引っ張るお母さんの、変わらない姿を確かめ、かみしめて、安心していた。

 たぶんお母さんもそう。

 ずっと一緒だった。

 学生時代まで、帰ってきたら必ずお母さんは家の中にいて。

 わたしの手をとり足を取り、時には背中を押してくれた。


「一緒にロシアに来ない?」


 わたしはお母さんがロシアに旅立つ最後の最後までそう問われ、断り続けたのだ。

 初めての別れ。初めての社会人生活。初めて、ただいま、おかえりのない玄関……。

 わたしがその時思ったことを、お母さんも感じたに違いない。

 世界のプリマドンナが誕生したその日は、一つの家族が消えた日でもあるわけで。それを幸せなことかどうかと聞かれると、とても複雑なのです。



 さすがのホテル最上階はすごかった。

 なんとも景色が奇麗で。視界一杯のトーキョービューに圧倒されそうになった。

 人の作ったイルミネーションアートは、まるで迫ってくるようだ。

 きっとこれは命の火なのだ。

 この中の一つ一つの光の粒は、何の目的もなく、ただ、もしかしたら誰かの役に立つかもしれない燃え盛る炎を、暗くしてはいけない、光を絶やしてはならない、と誰かにどやされて必死になっている。

 お互いを意識することのない、無意識のスパンコールは、ちょっと切ない。わたしは眉を寄せて、中にあるレストランの色んなところに目をやった。

 グラスに注がれた水に光が入ると、雨粒のように六角形に広がり散っていた。

 目の前には白いお皿が乗っている。ナプキンが衣擦れして、もじもじと所在ないわたしの体の音を際立たせる。

 それで向かいのお母さんを見ると、既にゆったりとくつろいでいる様子で、わたしを見つめていた。

 それで、少しだけ、居場所が据えられた時の安心感が湧いてくる。

 やがて……前菜、スープ、魚、肉、フロマージュ、と料理は出されていく。

 この様に。

 まるで、色んな味を楽しむうちに舌とお腹を満たすフランス料理のように。

 わたしは……。


「いつでも、こっちに来て良いんだからね」


 お母さんが紅茶を飲みながらそう、つぶやくように言っていた。

 わたしはうんとも、すんとも言わず、ソーサーのふちをなぞったりしていた。

 向こうでは、学校や楽団、通訳ともに充実している。

 失敗したって帰ってくれば家がある。

 簡単なことだ。もしかしたら今よりシンプルかもしれない。そして、母はこう続けるのだ。


「あなたが、本当に人生楽しいって思えるならなんだっていいんだけどね……あなたが、あの人のことでバレエを恨んでいるなら、すごく……わたしは、残念」



 味気のない車窓を見ていたような、先日のこの話を思い出してもやもやと思考が埋め尽くされていたような、曖昧な時間の浪費が、ふと、今のお母さんの台詞で我に帰った。

 思い出したくない映像が蘇りそうになり、ぶんぶんと頭を振る。

 一呼吸の後に、電車は降車駅にたどり着いていた。

 この先で待っているのは、誰もいないボロアパートの六畳間であろう。

思い出すことの最後にあげるとすれば、頭から離れないことがある。


 お母さんの別れ際の抱擁は、寂しさとか、じれったさとかを包含していて、ギュッと厚く、きつかった。あの感触がまだ残っていた。

 そういえば「また明日」なんてテキトーな台詞は出なかったな。

 いつでも会える……同じことなのに。


 もちろんステーキとフレンチはどっちが美味しかったか、なんて言いっこなしである。



 地下鉄を降りると、寂しさを紛らわすようにやたら明るく彩られた地下道の明かりにさらされる。夜の地下道は明るければ明るいほど寒々しい。

 そこから飛び出すと、逆に東京の濃い影に包まれた。

 ビルの谷間はまるで渓谷のようだ。底は深い闇に覆われていて、道標のような街灯の光が点点と続いて、たよりない。

 凹凸としたビルの頂がシルエットを重ねてむき出しの岩のように見える。遠近法を失った世界は非常に心もとなかった。その頂の外縁だけがぼやっと光っていて、隔絶されたような気持ちを加速させている。

 落ち着けるものを見つけようとして、わたしは顔を彷徨わせた。

 アパートは近かった。

 そこに公園があったのは知っていたけど、朝の柔らかな物腰とはうって変わっていた。がらんどうのように感じる、くたっと置き去りにされた遊具が、明かりの間に映し出される。それは瓦礫のように形が歪に見えてしまった。

なんの生もそこにないような、静とした緊張感だけがそこを占めている。

わたしは早く立ち去りたい気持ちになった。


けれど、そのアクセルを踏む一歩手前に、わたしは目に映った光景に心を奪われてしまった。


ブランコのある低い囲いの中。

一人の男性が佇んでいた。

彼は扇を左手に構えていたが、その手に持つ装飾に反して着たものは白のパーカーにジーパンといった普通の若者のイメージと変わらない。そして深々とキャップ帽を被っていて顔が全く認識できない。もしかしたら女性なのではないかと一瞬疑うほどに優美な立ち姿だったが、明らかに肩幅、背丈、服装のイメージは男性のものだ。

彼は少しずつ、少しずつ体を移動させていた。

まるで絵画のように制止した場面がいつの間にか変わる。非常に丁寧な、そして繊細な表現だ。その踊りは、凛として静かであるにも関わらず、たゆまず生命の息吹を発信している。

 静と動の凝縮に息を飲むばかりのわたし。


そこには六畳弱の舞台があった。


 わたしはいつの間にか、ものすごく彼に近づいていて。

 いつの間にか彼の影を踏んでいた。


 近づいているなんてちっとも感じていなかった。


もとより、わたしの視界にはこの風景しか入っていなかったし……。


 だから、それはごく自然なことだった。

 見知らぬ男性に夜中に近づいて行くなんて、冷静に考えれば愚かしく、はたから見れば変な人同士。その当たり前のことに、次の必然によってでしか、普通に考えられない自分は馬鹿なんだ、と。

 彼のその集中しきった心が、ふと目に入ってしまったわたしによって引き戻され、高揚したその瞳がわたしを捉える。

その瞬間に。弾けたように、酔いがさめて気がついたように、舞台の幕が下りる。ドロップアウトした心が早鐘を打って、呼びかける。

どちらが最初だったかなどはどうでもいいことだけども、彼は手を差し伸べ、わたしは脇目も振らずに駆けだした。


 ※


 ふるぽけて錆浮き出る階段を、すばやく静かに駆け上がる。

『201』と書かれたプレートの部屋の鍵を乱暴に開け、最後にパタリと静かに、他の部屋に迷惑がかからないようにそっと閉める。

 小さな1Kのアパートだ。玄関からでも部屋の全てが見えてしまうほどだ。

 暗がりのシルエットに広がる生活感はちょっぴり恥ずかしくもある。ただ、差し込む薄明かりに照らされたいくつかのお気に入り……。例えば、クマのぬいぐるみがやけに艶っぽく見えたりすること。レースのテーブルクロスがひっそりきらめく様のこと。

それらを確認すると、安心感も覚える。

 わたしはそうして、後ろ手で鍵を掛けた。

 走って乱れた鼓動を息を吸って吐いて追い出す。強ばった体がほどかれて、ドアーに背が付いた。

 このドキドキは、なんだろう。

 なんて喜びに満ちた表情なのだろう。

 真剣さと、体を芸術として昇華していく高揚感にあふれた人に、わたしはなんとも言えない尊敬の気持ちと、淡くて滲んだ感情を持った。

 目を閉じて、味わうように願う。


 もう一度……そこに、いたい。




二幕:オデットは王子に出会うこと


 まどろみの記憶にブランコの彼が踊る様が描かれている。

 あんなに暗くて張り詰めたような雰囲気ではなく、灰色めいた白の景色で、そこにふわふわとマーブルの輪っかのような、はっきりとしないきらめきがそこかしこに満ちている。そんな曖昧で存在感のない、夢特有の軽さをもった舞台である。その時のわたしは大胆にも彼の目の前で、彼の舞を観覧して、夢見心地にうっとりとしているのだ。

 すると、彼がわたしに近づいてくる。びっくりして目をかっと見開く私に、彼は思わぬことを言う。

 わたしはそこで、ものすごく嫌な気持ちになるのだけども……。


「また、明日ね」


 どこかで聞いたような声で、どこかで聞いたような台詞だったので、意識がそちらに向いてしまったのだろう。夢は過去の反復へとシフトしていた。

 先日美味しかったビフテキ屋さんを出て、ほっこりしている場面だ。

 なんだ、美味しすぎて夢にまで出てきたのか……と自嘲気味に思っていると、ぼやっと輪郭のあやふやな男が言葉を発する。

「今日は付き合ってくれてどうもありがとう」

 それから、いくつかの会話。なんだか、お礼とまたどこかに食べに行きたいね。みたいな、ありきたりなやりとりの数々。やがて、

「実はさ、僕映画見るの、結構趣味だったりするんだよね。マイナーなのとかも見るんだぜ」

 なんて、趣味の話を始めた。最近見た映画、心に残っているの、わたしの好きな映画はなんだろか……なんて他愛もない話だ。だがしかし、次の瞬間、わたしの頭がぱっと眠りから覚醒する。


「明日公開の映画があるんだけど、一緒に見に行かない?」

「え! 明日?」

「そうそう。マイナーな映画だから飛び込みでも良い席取れるよ。もしも時間が空いていたら、また……付き合ってほしいな、なんてね」

「良いけど……何時?」

「また昼ごはんも一緒に食べたいし、九時半位にM駅集合で、どう?」

「う、うん……良いよ」


 違うよ、良いよ……じゃない!

 なんて約束をしてしまったんだろう。

 わたしは飛び起きて、枕元の目覚まし時計を掴んだ。

 見ると、八時半……。

「う、や、やばい」

 M駅までどうしたって三十分は掛かるので、当然ながら三十分で身支度を整えなければならない。

「ううう、絶望的だ」

 朝ご飯はあきらめて、なんとか身づくろいだけなんとかする方向で考えることにする。

 それでも、なにかと時間も使うし、頭も使わないとならない。

 髪はどうしようもない部分があるので、ヘアピンとかゴムで誤魔化し、メイクもつやだしと、色つきリップを塗って簡単に済ませる。

 ただ、服が曲者だ。

 髪が適当なので、服もラフに見えつつポイントを押さえた格好でありたい。カントリーなイメージのチュニックワンピに腰のベルトをポイントにしたガーリースタイルなんてどうだろう……て、このワンピ、スカートがちょっと短いんだよなあ……。人様に彼かのに見られても嫌だし。

 ていうか、なんであいつのためにファッションを考えなければいけないんだ!

 もうパーカーにジーンズでよし! 決めた。



 悩んでしまった分タイムロスも著しく、わたしは修羅のごとく手を何本も生やして(いるような勢いで)身支度を整えた。

最後にスニーカーを足にねじ込んで、「よし」と、ただの気休めと気合を入れなおす掛け声をあげる。

 そして、がちゃ、と玄関から勢いよく飛び出す。そこには柔らかい日差しに包まれた気持ちのよい朝の景色が広がっているはずで、駅までそのままもうダッシュする算段だった。

 しかし、その勢いは崩されて、ドアーの半分くらい開いた所でなにかに引っ掛かった。

「げふっ」

 こんな……みぞおちに一撃を食らった人が肺とか胃の中身を吐き出しそうになる効果音が聞こえ、いやーな予感に、恐る恐る半開きになったドアーのすきまから頭を出して、玄関の外を確認する。

(うげ!)

 思わず声に出したかもしれない。

 そこには案の定、人……男性だ。線の細そうな若いフレッシュマン然とした人が今にもくずおれそうになるのを堪えながらもん絶していた。どうやら本当にタイミング悪く、ドアノブに脇腹をやられたらしい。なんか、「ひぃっひっーー」という思わず笑ってしまいそうになる息づかいをしている。

 また、思わずうるっと涙のたまる瞳がなんとも悲痛で、わたしはこの人にかけてあげる言葉を見つけることができず、どうしたかというと。まず、そろりと滑るように玄関から出て、鍵を掛け、本人がちら、とこちらを見た瞬間、「ごめんなさい」と三倍速くらいのモーションで頭を下げ、そのまま猛ダッシュでアパートから飛び出した。逃げるが勝ち。



 全力疾走と冷汗で、体が嫌なコンディションに下がった。

 それでもやっとの思いでM駅まで辿り着き、息のあがったまま春真の前に立つはめになってしまった。

「おはよー、アンちゃん」

 春真はへらへらいつも通りの締まらない姿で、わたしを迎える。

「ごめんなさい。遅刻して」

「いやー、気にしてないよ。なんか、走らせちゃったみたいだし、逆に申し訳無いくらいだよ」

 そう言い、緩んだ顔がはにかむ。

 なんだろうな。

 その姿表情はたまらなく人を……そう、不安にさせるのだ。

 心底笑顔なのか。本当は何かしら心の中では負のイメージを巡らしているんじゃないかって、過る。だって、わたしはこの人に約束を破りそうになってしまったし、会社外で会うなんて二度目で、本当の相沢 春真など分かりっこないのだ。

 わたしは彼の本音が聞きたい。自然体であって欲しい。気の効いた台詞はノーセンキューなのだ。

「やっぱアンちゃんは体育会系だね」

 歩きながら唐突に春真は切り出した。

「へ?」

 わたしがきょとんという感じのイントネーションで応じると、春真はニヤリとした顔で続ける。

「なんてかね。様になってるっていうか、運動する姿が絵になってるんだよね。それがたまらなく可愛い」

「な、なによ」

 なんだかそういう台詞は慣れない。戸惑う。

「それに……」

「それに?」

 わたしは春真に言葉を促すように言った。

「上下する肩とか胸とかほっぺの赤みがえらいエロさをかもしだして、むらっとしま……げぶっ!」

 わたしはそれ以上語らせないためにみぞおちに拳をいれてやった。

 でも、不思議と肩の荷が下りる感覚を覚えて、ふと春真の顔を見てしまった。


 やっぱりへらへらしていた。なんかずるい。

「んじゃ、行きますか」

 春真は、わたしの向ける好奇も、疑惑も、苛立ちも、すべてなんのことやらといった風に素知らぬ顔で目的地に向かって歩き出す。

 わたしは彼の背中から付かず離れず、やっぱり親しいとも他人ともとれるような、距離感を取って付いていく。

 彼は怖くないんだろうか。



 わたしは怖い。人に拒絶されるとか、自分を否定されることが。



 映画は相当アンダーグラウンドなフィルムだった。

 今時なCG技術なんてなくて、役者の表情や風景にこだわりを感じるノスタルジーな印象が強い。

 ただ、やっぱりなんというか、役者も監督もあかぬけない。

 意欲も伝えたいこともちゃんと分かるし、今時という枠から逃れようとしたこだわりも分かる。けど、頑張ってる感じがして見ている方も肩がこる。

 こんなところはバレエも映画も、見せる側の裁量が出るんだなと染染感じてしまった。

 そして、お昼を食べに入ったハンバーガー店でのお喋りも、この事から始まった。

「いやあ、悪いね。なんだか付き合わせちゃったみたいで。こんなマイナーな映画見てもつまらなかったでしょ?」

「う、うーん。別にお話は結構作られてる感じがして良かったと思ったよ。ただ……」

「ただ?」

「うん……映像に引き込まれるほどにはのめり込めなかったかな」

 そう感想を述べるわたしに、少し彼はビックリしたようで、目を泳がせながら、言葉を探していた。

 半月上に細長くカットされたポテトを一つ二つと口に放り込みながらわたしは春真の言葉を待った。わたし、失礼なこと言ったかな。と内心では思っていたけど、春真に弁解することも、次の言葉を催促するような勇気もなかった。

 しばらくして、といってもポテト一つ分口に放り込む位の短い間ではあったけどたっぷりと勿体ぶって春真は言う。

「ほう。やっぱり芸術家の視点はひと味違うね」

 なんのことはない。いつもの調子の言葉だった。

「茶化さなくて良いです!」

 語尾をちょっと強め、ただし引き伸ばしてそう言ってみる。口を尖らせて、少し上目使いに春真の次の反応を見る。

「いや、茶化してなんてないです、ほんとに。なんというか、クリエイター目線だな、と」

「そうかなー。よくわかんないです。ほんとに適当言ってるだけだし」

 半ば誤魔化すように適当な返答を返すわたし。

 本当に適当なことを言っていた。テレビの前で野球みながらよく分かってないのに良いだの悪いだの言っている巷のお父さん的な適当さだ。無責任なものである。

 無関係だから、無関心だからどんなことだって言えるのだ。

「まあ、そうかも知れないけどさ。なんか本気で見てるなって思って」

「本気なんかじゃ……ないです、全然」

 尻すぼまりの台詞は春真の次の裏返った声で、その雰囲気を飛ばした。

「ところでさ!」

 わたしは思わず目を見開いて、春真を見てしまった。

「なに、どうしたの?」

 口のひきつった春真がおかしくて、笑ってしまった。狙ってなのか天然なのかはよく分からないけど、こいつ、ちょっと可愛いヤツ……と思わず感じてしまう。

「いや、その。これってデートだよね」

「ぶふっ!」

 ぽ、ポテトにむせる。

「な、なんですって? で、で、で、で、デートぉ!」

「うん」

 うん……じゃないですよ相沢さん。

「デートって男女が親睦を深めるための、交際でしょ」

「うん……間違ってない」

 いやいやいや。そんなわざわざ自分とわたしを交互に見て確認をとらなくてもいいと思いますけどね。

「だ、だ、だ、だってこの前、相沢さん。あなた、同僚の親睦がどうとかって言ってませんでした?」

「いや、それはそれとして。ついでにアンちゃん個人と親睦が深まれば良いなあなんて思ったんだけど」

 けど……の言葉の先は無い。お互いの間合いの程度を確認するように沈黙した。

 春真は、わたしがなんと答えると思っていたのだろう。即断るか。曖昧な返事なのか。

 何て答えれば良いんだろう。春真がどう考えているかを考えること自体、おかしいのは分かっている。わかっちゃいるのです。

 つまりは、です。

 わたしは春真のことを憎からず思っていて、春真を傷つけたくないと願ってもいる。

 沈黙がこの事を裏づけている。わたしはこれに気付いてしまって何も言えない。

 断ってしまえば、話が早い。今まで通りだ。だけど……。

「アンちゃん、やっぱこういうの、めんどいかな」

 春真が言葉をうながす。

「う、うん。それは確かに言えてるかもだけど……ごめん、うまく言えない。多分、わたし、すごく残念な子なんだと思う」

 そういうとそう言うと春真は笑って、それから、手に取ったコーラをちゅうっとストローから飲んだ。

「ははは。やっぱめんどくさいかー。アンちゃんの恋人はバレエってことなんすね。こりゃ勝てないわ」

「そ、そんなこと、ないよ……」

 言葉が尻すぼまってしまう。何を言っても自分の……何をやるにも不完全燃焼で臆病な自分を露呈する。

「ははは……まあ、ちょっと安心したよ」

 春真は突然そう言う。わたしは意味が分からないで、思わず顔を上げ、まじまじと春真のへらへらとしまらない顔を覗き込んだ。

 ちょっとはずかしそうに鼻の頭を一度二度、掻いて春真は続けた。

「アンちゃんも悩みながら前に進んでるんだなあってね」

「悩まない人なんてこの世にいるんですか?」

「そうだなあー。僕はあんまりだなー。なんつーか、悩むだけ無駄だから考えるのをやめた、てやつでさ。なにやっても途中で見えるんだよな。壁ってもんが。だから楽な方に、自分にできることをやる。そんな感じ」

「わたしだってそう、だよ」

「そうなの?」


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