前編
ここはお江戸の浅草田圃、鉄漿どぶに囲われた郭の街吉原。
この世における男の極楽、女の地獄。
色とりどりの鮮やかな着物を着た遊女が路地を行き交うさまは
まるで池の中の錦鯉か鉢の中の金魚を思わせる。
そして今日も男は己の欲望と矜持を満たすために女を買い女は銭のために男に体を売っている。
今日は如月(2月)の初午の日、初午とは二月最初の午の日に行われる
稲荷神社の祭礼で商売繁盛祈願を願うものであります。
この日は客も遊女も社に出掛けては商売繁盛を祈ったのですが……。
「千客万来!千客万来!ねがいがござんす。今日こそわっちの愛しい人が、
なにとぞわっちに会いにきなんすように」
「馬鹿でありんすな、神仏を拝んでどうにかなるなら
わっちらは今頃ここにいやせんのに」
そう吉原の稲荷神社に柏手を打ちながら祈ってる女を見て私はつぶやいたのです。
世の中は理不尽なもので、ここ吉原で働いてる女は大概売られてきた女です。
少ない例外は遊女の子供である、罪人として非人に落とされた女であるなどですね。
あとは遊女に芸事や筆を習いに来ている武家や商人の娘、
髪結いなどで外から入ってくる娘などもいるがそういったのはごくごく少数の例外。
私は下級武士の家に生まれたが生活難のために売られてきた口です。
しかし私には男を引き寄せる華と太い客がつく幸運があったようで、今では吉原でも数少ない太夫の一人となっていたのです。
・・・
ある日私が新しい髪飾りを買うために部屋から出て道を歩いている途中のことです。
「木曽屋の小瑠璃ってのはおまぁか!」
突然私に対して怒鳴りが声かけられ、声の方に振り向くと顔を真赤にした
遊女が手をふって私の頬を”パァン”と平手で打ったのです。
恐らく局だろうと思われるそれなりのものを身に着けた、
それでも私に比べれば見劣りする着物や髪飾りのその女がさらに怒鳴ってきました。
「良くもわっちの客を寝とりおったな!」
誰のことかわからないが多分そうなのでしょうね、
寝とるという言葉に私自身は心当たりは特に無いのですが、
「見世」としてはカネを落としそうな客には
太夫をすすめるわけだからそんな客の一人かもしれないです。
遊女の間ではよくあることです。
これが同格の太夫であれば話はややこしくなりますが。
「後生だから、ちっとものを言わずにいておくんなんし。
わっちが寝とったんではありんせん。
向こうがわっちを口説いてきたんでありんすえ」
騒ぎを聞いて街の見回りをしていたらしい男衆におさえられた
女は怒りを強めて更に怒鳴ってきた。
「どの口開いていうんかこの泥棒猫!。
てめえの父ちゃんも盗人っかぁ!」
私はだまって拳を握りしめ、目の前の女の顔面を殴りつけた。
私のことはまだいい、だが父は関係ないだろう。
”ゴッ”という音とともに女が倒れ、その隙に私は一目散に逃げ出しました。
腰に下げていた小さな青い石とそれを吊るしている赤い紐に下げた鈴が”チリン”と
小さく音を立てます。
「糞女、逃げるな!、手面なんぞ地獄に落ちやがれー」
地獄にならとっくに落ちてるのですよ、ここ吉原はこの世の地獄なのですから。
逃げるために全力で走っていく先の交差点の角でそこから出てきた
背の高い細身の人物とぶつかってよろけ倒れてしまいました。
「あいたた……」
「すみません、大丈夫ですか?」
そう行って私に手を差し伸べたのは腰に大小二刀を下げた
育ちの良さそうな物腰をした若い武家様でした。
「ああ、心配いらさんす、ぶつかったのはわっちの方やさかいにな」
私はその手を取ると立ち上がって衣装のホコリをはたきました、すると。
”チリン”と地面に小さな青い石とそれを吊るしている赤い紐に下げた鈴が落ちてしまったのです。
「あ、それはわっちの……お守りでありんす。」
武家様がそれをつまみ上げると手にとってじっと見たあと
「紐が切れてしまったようですね。
私のせいでしょうか、申し訳ない」
そう行って私にそれを差し出しました。
「大事なものであったのであれば私の方で修繕するより
あなたが直されたほうがよろしいでしょう」
私がそれを受け取ると彼は微笑み
「その代わりとしてお詫びをさせていただきたい。
貴女さえ良ければまたお会いできないでしょうか?。
私は中条冬弥と申します。
そなたの名をお聞きしたいのですが」
私は微笑み返して答えました。
「わっちは木曽屋の小瑠璃太夫といいんす 」
私がそう答えたところで羽織袴姿の男がこちらに駆け寄ってきたのです。
「若様!こんなところにおられましたか
四方探しましたぞ、全く物見遊山も程々になさいませ」
「ふむ、悪かった。では屋敷に戻るとしよう。
小瑠璃殿いずれまたお会い致そう」
そう言うと彼は供の者とともにその場を去ったのです。
「かなりいいとこの若様のようでござんしたな」
これ以上トラブルに巻き込まれぬようにと私は急ぎ足で郭へと帰ったのです。
・・・
そして、しばらくの後の日のこと
本日は中条冬弥殿より揚屋差紙が私のもとに届きました。
揚屋差紙は客の親の名や住所がかかれ身分を証明するものでもあり
遊女の指名を行うものでもある証紙です。
いまごろ揚屋では女将や遣手婆が宴会の席を設けてさぞかしふっかけていることでしょう。
太鼓持ちや幇間(男の芸者のこと)がやたらと張り切っていたのを見ましたからね。
私は金棒引きを先頭に煙草盆、煙管箱、煙草入れを抱えた禿を三人私の前に従え
私の名が入った提灯を下げた提灯持ち、私が歩く際に肩を貸す肩貸し
長柄の和傘をくるりと回しつつ傘を支える傘さしといった男衆を周りに従え
数名の振袖新造を後ろに、最後に番頭新造を従えて大名行列のごとくつらつらと
三枚歯の重くて高い黒塗下駄でしゃなりしゃなり
花魁道中で揚屋へ向かいます。
肩貸しが必要なのは下駄のバランスが悪すぎるからですが
そういう作法になってるので仕方ありません。
周りには見物客が黒山の人だかりをなして道中を見ているのが見えますね。
花魁道中は振袖新造の顔見せの意味もあるので
全員が全員私を見ているとは限りませんがこの道中の主役は私です。
やがて揚屋についた私は下駄を脱ぎ2階の座敷へ向かいます。
「木曽屋揚屋、木曽庄左衛門抱え、小瑠璃太夫、はいりんす」
すっと障子を開け座敷に入ると卓の下座に座っている冬弥殿が見えました。
芸者が三味線や琴をかき鳴らし、卓上にある品もかなり豪勢なものです。
私は卓の上座に座って彼の様子を見ます。
初会つまり1度目はお互いに本当に顔見せだけで私が酌をすることも私と会話することもありません。
そういった役目は太鼓持ちのすることで私がするのは彼の人となりと懐具合を見ることです。
酒乱だったり乱暴だったり思っていたより貧乏だったりすれば彼と合うことはもう二度とありません。
ですが彼は継がれる酒を静かにのみ私の方を見て微笑ながら
太鼓持ちの望む食べ物を取って与えたり、言葉で喜ばせているようです。
また男衆に対しても偉そうにせず対応しているのをみると
プライドばかり高い武家にしてはきめ細やかな対応ができる人のようですね。
「ふうむ、上客になってくれそうでありんすな」
初めてあった時にも思ったがこの方は見目人柄財力ともに上々なお方のようだ。
神仏など信じぬ私だが、太客が途切れずにつくというすこしばかりの運のよさだけは自信がある。
まあこの苦界の中では程度ではあるが。
宴席の喧騒が収まると私は部屋を退出し彼は一人で床につくのです、
・・・
しばらくして裏つまり2回めをつつがなくこなしました。
やること自体はほぼ前回と同じです。
違うのは軽く会話をできること、上座に二人で座って
客のついだ酒を私が飲めることでしょうか。
裏というのは遊女の札のことで指名が入った場合その札を裏返しにしてその日の夜は
もう埋まってることを示し、「裏を返さぬは江戸っ子の恥」といわれ
基本的には同じ遊女とずっと遊ぶことで筋を通すことが粋であるとされています。
とはいっても実際には鉄砲女郎に見世に引き込まれる場合もあったわけですから
絶対という訳ではありませんが。
彼女たちは強引ですからね、まあ生活がかかってますから仕方ありませんが。
とは言え基本的に吉原の決まりでは、馴染みとなった花魁を簡単に代えることはできないですし
こそっと違う見世に行って他の女で遊ぶこともいけないことされました。
一つの見世の花魁を馴染みに決めたら、最後まで筋を通すことを求められるのです。
女郎遊びというのは擬似的な恋愛婚姻であってあっちこっちに手を出すのは不義というわけです。
ちなみに初めてのような顔をして別の見世に行き、違う遊女を頼んでそれが元の見世にばれたら
法外な罰金を取られたり、丁髷を切り落とされたり、
吉原への出入りができなくなったりするのです。
・・・
そして今夜は三度目。
ようやく「馴染み」となるのです。
今日は私が郭の入り口へ出迎え宴席は私の自室になります。
彼のために作らせた専用の箸や箸箱を部屋に置き調え彼を部屋に案内しました。
「小瑠璃殿。ようやく二人きりでお会い出来ましたね。
私から貴女にこれを送らせて頂きたい」
そう言って彼が差し出したのは絹でできた豪華な布団と夜着、瑠璃石の飾りがついた鼈甲のかんざし、
象牙でできた髪梳き櫛、金と黒檀製の煙管、朱で彩られた手鏡など高価なものばかりでした。
私は特上の営業スマイルを浮かべて答えます。
「わっちにこれをお寄越しか。すべて有難くいただきなんすえ」
そして座布団をしいて彼を呼び寄せます。
「主様、こちらへはようきなんせ」
彼が着席すると私は盃台に乗せられた盃を手に取り、銚子を彼に手渡しました。
彼が盃に酒を注ぐと三度それに口をつけ、彼に盃を手渡しました。
そして彼が三度口をつけ、再び私に杯を返すと私が三度の口をつけます。
三三九度の契をかわして私と彼は正式に馴染みとなったのです。
「これでわっちらは仮初の夫婦でありんすな」
「ええ、そうですね。
できることなら仮初ではなく本当の夫婦になっていただきたいものでは有りますが」
彼の言葉にわたしはくくっと笑いながら
「主様は口がうまあござんすな。
大かた、内にはおかみさんがござんしょうね。
わっちのところで油を売っていてようござんすか?」
「いやいや、私には妻はいないし、今日は時間を十分とってるから心配いらないよ」
「ほんにかえ?」
「先程の杯に誓って」
「あいわかりんした。
わっちもこのなぐさみをともにできるなぞ、これより嬉しきことは無さんすえ
そして主様今日は何をしんしょうか?望みがあれば言っておくんなまし」
「そうだねそれでは琴を一曲お願いしようか。」
「あい、わかりんした。」
そして私は琴を爪弾き始めました。
そして何曲かのリクエストにそって曲を引き終わり夜も更けてきた頃
「そろそろ床に入りんしょうか?」
と彼を布団に連れてゆこうとしたのです、が、彼は首を横に振って
「華の花魁とはいえその仕事は大変と聞きます、
ですから私といる時ぐらいゆっくり過ごしてほしい。
そう普通の娘のように」
そう言って彼はニコニコ笑っています
しかし、あれだけの贈り物や花代やら多額の金を使って私を休ませたいというのは
どういう了見なのでしょう?
私達の仕事が大変で寝る時間があまりないのは事実で、ゆっくり眠ることができるのは非常に助かるのでは有りますが……起きられてても困ります。
いろいろな意味で。
「では、せめてわっちと一緒に布団で寝んせんか?」
「分かりました、では夜着に着替えさせてもらえないでしょうか?」
私は彼の羽織袴を脱がすと夜着に着せ替えます。
脱ぐとそこは武家だけのことは有りかなり鍛えられた身体でした。
彼を着替えさせたあと自分も夜着に着替えます。
そして手を繋いで布団にはいります。
世の中の普通の夫婦というのはこういうものなのでしょうか……。
「おやすみなさい、良い夢を」
彼は私の頭を軽くなでたあと目を閉じたのです。
「主様も良き夢をみんせ」
私たちは二人仲良く手を繋いで眠りについたのでした。
・・・
そして翌日の朝、私が起きるとすでに彼は起きていてどうやら私の寝顔を眺めていたようでした。
「瑠璃殿おはよう、よく眠れたみたいだね」
彼は微笑みながらそう言いましたが、私は羞恥で顔が赤くなっていまいました。
「ぬ、主様は……わっちの寝顔を眺めては笑うなど意地が悪いでありんすな」
まさかよだれを垂らしてねていたとか大イビキをかいていたとかそんなことはないと思いたい……。
「いえいえ、とても愛らしい寝顔でしたので、つい眺めてしまいました」
やはり微笑みながらいう彼の言葉に更に顔がほてってしまいました。
「さ、さあ、もう朝やし主様、はよ着替えなんし」
布団を出て彼の夜着を脱がせ羽織袴を着せたあと、自分も夜着を脱いで晴れ着に着替えます。
そして顔を洗うための耳盥、うがいそするための含嗽茶碗、うがい茶碗に水をいれるための湯桶、歯を磨くための房楊子と塩を出して、洗面や歯磨きをさせます。
顔を洗ってさっぱりした彼が残念そうに言いました。
「ああ、残念だな、もう少しここに居たかったけど、仕事もあるしそろそろ暇するよ」
「わっちもまっこと残念でありんすが…せめてわっちも大門まで一緒に行きなんす」
部屋を軽く片付けると、一緒に下に降りて入り口で廓が預かっていた大小二刀を返すと
大門まで仲睦まじく一緒に歩いてゆきます。
そして大門に到着。
「主様、ここでお別れや、帰りなんし」
両手で彼の手を包むように握り寂しそうな表情で見上げるように私は言います。
「ええ、また来ますよ」
彼はそう言って私の手を握り返したあと手を話し大門の外へ出て行ったのです。
「待っていんすえ」
その姿が見えなくなるまで見守るとふうとためいきをつき
営業スマイルを崩して私は廓への帰路につきました。
「戻ってもう少し寝るとしんすか」
なんだか久しぶりに安心してゆっくり寝られた気がします。
寝顔をじっと見られたのは不覚でしたが。
うん、女の寝顔をじっと見つめるなんて悪趣味です。
次は絶対彼が起きたら私も絶対起きるようにしましょう。