序ノ一段
京の都へ入る道には幾多りかの決まった道筋というものがある。無論、北から来る者もあれば東から訪れる者もおり、また反対に南へ旅する者もいれば西へと流れてゆく者もいる。
古来より多くの人々が行き交う街道ではあるが、そこで往き来するモノは人だけではない。様々な物資や家畜らも流れ流れてはまた運ばれてゆく。それは何も陸だけに限った話ではなく、海や川といった水辺もまた同様であり、むしろそういった場所こそ、その利便性ゆえに積極的に利用されてきたといえる。
京から巽の方角へと流れる鴨川は、途中、幾つかの川と合流して淀川となり、最終的には国生みの場である八十島浮かぶ茅渟の海へと至るのだが、そこはまた国内ばかりか遥か半島や大陸からさえもやって来る種々を迎え入れる窓口でもあった。
その一つ。神崎津は西に六甲の山々を仰ぐ淀川河口一帯で最大の規模を誇る湊である。堆積した砂州の上に築かれた雑多の集落は、殿上人から一介の庶民まで知らぬ者もない歓楽街だ。なにしろ西側には有名な猪名野が広がっている。遥か万葉の世にも歌われた荒野には、皇室に献上された多くの名馬が飼育される御牧もあり、都の貴族皇族が折々に訪れて狩猟に興ずることも珍しくはなかった。もっとも昨今ではずいぶんと周囲の新田開発も進み、往時の風情や景観は失われつつあると言われている。
とはいえど、いまは夏。
青々とした夏草が生い繁り、旺盛な生命力で大地を覆い尽くさんばかりの光景は、そのような人々の感傷など、いかに的外れであるかを見せつけているかのようだ。
そんな荒野を駆ける一つの騎影。いや、わずかに遅れて二騎が続く。三者三様ともの見事な手綱捌きは、見る者がいれば思わず感嘆の声を上げるに違いない。馬上にあるのは、いずれもまだ若い青年達だ。遮るものもない原野を思うがままに疾駆する彼らの姿は、古えの荒ぶる神々にも似ていた。
ふと先頭を行く騎馬が速度を落とす。何かを探すように頭上を振り仰いだ騎手が、合図するように何度か大きく手を振ると、力強い羽ばたきと共に一羽の大鷹が舞い降りてきた。
「若、何か?」
問いかけてくる後続の仲間らに向かって、黙したまま青年は受け取った文を掲げてみせる。
「津守のご隠居からのお呼び出しですか」
「珍しいな、こんな急に」
訝しげに顔を見合わせる二人に、青年は腕に止まらせた大鷹に餌を与えながら告げた。
「このまま武庫水門に向かう」
「直接、船で?」
やや年嵩な方の男が重ねて問いかける。
「その方が早いし、すでに迎えも寄越したそうだ。すまんな、茨」
予定では常松にある彼の実家に寄った後、武庫庄の別宅で一泊するはずだったのだ。
「気にすんな、従兄どの。実家になど、いつでも寄れる。しかし、えらく急いたものだ。よほどの事態とみえる」
「ああ、いささか手跡が乱れておられる。ご隠居らしくもない」
「確かにな」
図らずして彼らの間に沈黙が降りる。
確かに清澄な朝の光の下にいるというのに、ふいに周囲が薄暗くなったような錯覚さえ覚え、野駆けで熱くなっていた身体にヒヤリとしたものが走った。
先刻までは穏やかだった野を渡る風すらも、どこか不穏な気配を孕んでいるかのようだ。
「……あまり良い予感はしないな」
青年がこぼした呟きに、無言で他の者達も同意する。餌を食べ終えて満足そうに身繕いしていた大鷹も、自らが運んできた報せの内容を知ってか、落ち着かない様子で身震いしたのだった。
武庫水門は同じ摂津国内でも淀川とは水系を異にしている武庫川の河口にある。その水源は向津峰を越え、遥か丹波の篠山へと求められるという。
そもそもが武庫という郡の名前自体が、川の向こう側という意味である。六甲も同じだ。東隣に位置する河辺郡が川の周辺を意味するのとさして変わりはない。安直ともいえる命名ではあるが、それだけに古くからある地名であることは確かで、また難波の地に都があったことの名残ともいえる。
ここは朝廷でも厚く信奉されている廣田神社参詣の人々が利用する船泊りなのだが、記紀にも記されているように元々が軍港なのである。大小様々な船が行儀良く並んでいる様子は他では中々見られぬ光景だ。
反対に岸では着いたばかりの旅人や船荷を運ぶ荷担ぎ、地元の漁師らや女衆の声などが入り混じり、なんとも言えぬ独特の活気で満ち溢れている。
「あちらの御方、まだ若いのにえらく立派な馬に乗っていなさるな」
ひと休みとばかりに木陰に腰を下ろし、周囲の喧騒を眺めていた男の言葉に反応したのは、彼の求めに応じて白湯を運んできた宿屋の女だった。
男の視線の先にいる若者達を見て声を上げる。
「おやまあ、渡辺の若さんじゃないかね」
どうやら有名人らしい。ただし、渡辺党といえば男でも聞き知っている。摂津河尻一帯に根を張る武装勢力で、周辺の海上河川の水運を一手に握る水の武士団だ。
青年らは着ているものこそ質素だが、それぞれの馬や弓、太刀などはなかなか大したもので、実によく手入れされているようだった。
「久々にお見かけするね」
「てことは、一昨年の大江山の……」
「そうさ、あの渡辺綱さまだよ」
「思っていたよりも若いので驚いた。確か源頼光どのの郎党だったか」
同じように白湯をもらっていた初老の男が感心した。
「よくご存知でいらっしゃるね、お客人」
客人と呼ばれた男は、かなり流暢に言葉を操るが少々訛りがある。近辺の人間でないことは言われずとも知れた。
「博多でも話くらいは聞いてるよ」
「てことは、お客人は筑前あたりから来なすったのか?」
「いんや、もっと遠くだ」
男は何でもないことのように言うが、彼の地より遠いということは海外ということなる。言われてみれば、男の身なりにはどこか異邦めいたところがあった。
「ふぅん、高麗かね?」
「惜しいな、宋から」
「おう、なんと。珍しいのう、大抵は博多止まりなんだが。しかし、お前さん、宋人にしちゃえらく言葉が達者だね」
「母親が倭国人なんだよ」
「ああ、そういうことかい」
得心がいったとばりに頷く老人は、懐かしそうに目を細めた。
「儂も若い頃は寧波までいったもんじゃ。あっちではよう茶も飲んだの」
宋では其処此処に茶館というものが存在し、また上は皇帝から庶民にいたるまで茶を嗜まない者はいない。それほどに生活に密着した欠かせないものなのだ。
「こっちにはないのか?」
「無論あることはあるが、寺院に行くか貴族でもないとな。大陸のようにはいかぬ。まだちいと庶民には無理じゃ」
「水はこっちのが良いから美味いだろうにな」
「うむ。それはそうと去年は肥前や肥後の辺りで、海賊が随分と暴れまわったと聞いておるが、お前さん何か知っとるかね?」
どうやら老人はかなりの情報通らしい。寧波にも行ったことがあるというのなら、相当に冒険心や好奇心に富んだ人物なのだろう。
「いいや。ただなぁ、宋も北方が随分とキナ臭いことになっててな。まあ開封は相変わらずだが」
「おお、開封! この年齢ではもう無理じゃが、一度くらいは行ってみたかったのう」
老人が目を輝かせて声を上げる。寧波も国際色豊かな大都市だが、宋の首都である開封の賑わいは古今東西を絶するものだという。
「人が多すぎて疲れるけどな。さすが大宋帝国の首都だけはあるよ」
「うーむ、せっかくじゃから、お前さん儂の家に寄っていかんか? もう少し話を聞いてみたいしの」
老人の誘いに男は気軽に応じた。
「いいよ、さほど先を急ぐってわけでもないしな。それにご老人はこの辺りの事情に詳しそうだ。ただ連れがいるんで、一緒でも構わないか?」
「ああ、そりゃもちろん」
「ご老人なら俺より連れの話の方が面白いかもな」
そもそも男がこの列島の内部まで足を運んだのも、酔狂な連れに付き合ってのことなのだ。
「ほほう、それは楽しみじゃな。そうそう儂は久々智真人と申す」
「俺は周史賀」
改めて名乗り合った二人は、どちらからともなく立ち上がり、連れだって歩き出したのだった。
雑踏の中、見知った顔を見かけたような気がして、肩越しに振り返った綱だったが、残念ながらすでに相手は姿を消していた。
「どうした、従兄どの」
「いや、何でもない」
綱らの姿を認めた家人が、待ちかねたとばかりに寄ってくる。その背後には綱らにも馴染み深い軍船が見えた。いつでも出航できるよう立ち働く男達がいる。
「若、お急ぎ下さい」
「ああ、お前は何か聞いているのか?」
「詳しいことは存じませぬ。しかし、ご隠居の家の者が申すには、何でも一度倒れられたとか」
確かに津守のご隠居は相当な高齢ではある。どれほど健勝そうに見えたとしても、よる年波に勝てはしない。様々な不具合があったところで、珍しくも何ともない話だ。しかし、いきなり倒れたと聞いては落ち着いてはいられないというもの。
彼らを迎えに来た家人も不安げな面持ちを隠そうともせず、主人に向かって言い募った。
「お目覚めになられて、すぐ若に文をお寄越しに」
いったい何があったのだろうという疑問は尽きないが、とりあえずは翁が住む庵に向かうのが先決だ。
「……仕方ない、波迅は置いてゆく。柾、頼む」
「すまんが、おれの月季もな」
「心得ました」
武庫庄でゆっくり休ませ、明日には渡辺邸に連れ帰るよう言いつけ、船に乗り込んでゆく綱の背を柾の声が追った。
「お二人とも、お気をつけて」
「ああ」
仮にも渡辺に名を連ねる男であれば、水上であれ馬上であれ、自在に動くことができねばならぬ。物心つくかつかぬかの頃から多くの時間を船上で過ごし、同じだけの時間を馬の背に揺られて暮らしてきた。その彼らの足取りに迷いはない。
水門を出た船は、一路、東を目指して走り出した。
実際の話、目的地である住吉津まで、さほど距離があるわけではない。何しろここからでも出入りする船の様子が目視できるほどだ。
「ところで、従兄どのよ。京の方はどうだ?」
早々に座り込んだ茨が縁に背を預けたまま、のんびりとした口調で話しかけてきた。風はあるし、水夫の手も足りている。余計な荷物もないので、彼らを乗せた船は軽快に波を切って突き進んでゆく。
「相変わらずだな。上つ方の考えることは、俺たち下々の者には理解しがたい。頼光さまも苦労なさっているようだ」
「大江山討伐の英雄さまでもかい?」
従弟の揶揄じみた物言いに、皮肉っぽく綱は応じた。
「あんなもの、お偉方の権力闘争から目をそらすための茶番だ。御所に巣食っている貴族連中に比べれば、鬼だなんぞと騒がれたところで、所詮は盗賊、可愛いものだろう」
「おやおや、世に名高い頼光四天王が筆頭渡辺綱どのとも思えぬお言葉だね」
「そうは思わんか、《《茨木童子》》」
少しばかり意地の悪い笑みを浮かべた従兄を、横目で見やった茨は鼻を鳴らした。
「確かにな。殿上人からすれば、おれたち侍なんぞは殺すしか能のない荒事屋でしかなかろうよ」
「だが、実際、俺たちは上手くやった。いささか上手くやり過ぎたといってもいい」
そう。
世に長徳の変と呼ばれることとなる政変の影響は甚大で、おまけに西国や九州沿岸部における不穏な情勢、さらには疫病の流行などが拍車をかけていた。大江山の討伐は都雀を始めとする民衆の目を、不満や不安からそらさせるために仕組まれたものだ。
英雄譚の裏側など、まぁこんなものである。
「おかげで頼光さまは左大臣さまからの御覚えもめでたい。我らとしても願ったり叶ったりだろうが」
「それはそうだが……少し気になることがある」
「何だ?」
「あまり大きな声では言えんが、先だって内裏の中で官吏が殺された。早朝、出勤した同僚が発見したのだが、じつに凄まじい状態だったらしい。それこそ、鬼に襲われたとでもいうような」
「……鬼、ねえ」
いかにも胡散臭い話だと茨は嗤った。
津守のご隠居と呼ばれている老人の住まいは、当然のことながら住吉大社の近くにある。津守氏は代々住吉社の神主を務めており、翁は先代の神主なのだ。綱らの主筋である源頼光とは、その父である満仲の頃から親しく、また地縁血縁など様々な意味でも渡辺党とも縁が深い。
よく知られているように、住吉神は第一にまず海の神、航海の神である。故に、その社は摂津灘にも直に接した位置にあり、清江という呼称に恥じぬ白砂青松の景勝地としても名高い。ちなみに伝説によると、住吉大神の正妻は猪名川の女神、妾が武庫川の女神とある。
「お待ちしておりました、渡辺の若さん」
「ご隠居の具合は?」
「今は落ち着いておられます。どうぞ、こちらへ」
出迎えた家人に招き入れられ、綱と茨は庵に足を踏み入れる。これまでにも何度か訪れたことがあるので、いつもの部屋を通り過ぎて奥へと案内されたことに気がついた。
「大旦那さま、渡辺の若さんがお越しです」
入室を許可する声があり、御簾を潜って部屋へ上がる。一方の茨は大人しく廊下で控え
た。麦湯でも持ってまいりますと言い残し、案内してきた家人が退がっていった。
「見苦しい姿で申し訳ない、綱よ。いきなり呼び立ててすまなんだの」
「何の、お気になさらず。それよりも倒れたと聞きましたが」
厳重に几帳で囲まれた重畳の上で半身を起こした老人が、己の孫よりも若い青年を見て苦笑する。
「なに大したことはない。こうしておるのも家の者が大人しゅう寝ていろ寝ていろとやかましいでな、致し方なくよ。心配いらぬというに、おかげでおちおち本も読んではおられん」
膝に掛けていた衾の上には、己で持ち込んだのだろう冊子が幾つか散らばっていた。神職にあった者らしく記紀もあれば萬葉集もあり、貴重な唐渡りの書物も混じっている。そもそも菅公の時代に廃止された遣唐使一行には、必ず津守の家の者が名を連ねていたし、代々の当主も収集を怠らなかったため、かの家は内外問わずかなりの数の書籍を所有しているのだ。
「万が一ということもあります」
「あほうめ、儂とて人の子よ。死ぬ時は死ぬ。第一、儂くらい年寄りならば、いつポックリ逝ってもおかしゅうないわ」
容貌だけなら住吉の神の化身かとも思える古老なのだが、温和そうな見た目に反して剛毅な性格なのは、幼少の頃からの付き合いで綱もよく知っている。
「それよりもお主を呼んだのは他でもない。少しばかり頼みたいことがあっての」
「何なりと」
「娘を一人、京へ送り届けてやってほしいのだ」
「それは構いませぬが……」
急いで呼びたてるほどのことなのかという疑問が表情に出ていたのか、じろりと綱を見やった津守翁は理由を話し始めた。
「その娘の祖父とは縁があってな。官には着かなんだが、かの御仁は大層な博識での。若い頃には様々な国を廻っておったが、いまは落ち着いて菟原にある蘆屋の庵で過ごしておったのよ」
「蘆屋の法師どののことですか」
「知っておるのか?」
「ご高名だけは」
ならば話は早いとばかりに津守翁が声をひそめる。
「その法師どのがな、亡くなった」
ヒヤリとした。
死は穢れだと云う。しかし、綱のような武士にとって、死は身近なものであり、職能上、避けては通れぬものである。
その彼にして託宣じみた津守翁の言葉には、心胆寒からしめるものを感じさせたのだ。
「法師どのはな、京の公達から頼まれて異邦の書の研究をしておったらしい。宋や天竺よりもまだ遠い、それこそ波斯あたりのな」
「それはまた……然れど、いったい何の関係が?」
「その書が見つからぬ」
眉を寄せた老人の表情はいつになく険しい。
「盗まれたと?」
「おそらく。じゃが、それだけではない。法師どのはとにかく尋常ではない姿で発見されたのだ。十中八九、その書が関係しておる」
「まさか」
「異教の蕃神についてのものだと法師どのは書いてよこした。何かあった時には孫娘を頼むとな」
西日に照らされた境内に人の気配は絶えてなく、ただ寂寞とした空間が広がっているのみ。波の音すらひそやかであるにも関わらず、稚い童子童女の歌声が何処からか聞こえてくる。
遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん
遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそ揺るがるれ
昼と夜とが入り混じり、彼方と此方の境界線さえもあやふやになる薄明の世界。
黄昏に沈みゆくなか、無心に歌う幼い子供の声だけが響く。
《《あやし》》。
「───ま?」
誰そ彼は。
「お侍さま?」
振り向いた綱の目の前に女が一人。
「申し訳ございません、驚かせてしまいましたか?」
若い、妙齢の女だ。どこぞの貴族に仕える女房でもあろうか。切袴に壺装束、薄物の被衣という格好は、よくある一般的な女人の外歩き姿だ。寺社参詣や市などで見かけることも少なくない。
ましてや、ここは住吉社の境内。見かけない方がおかしいというもの。
「いや……いかがなさった」
努めて何気ないふうを装ってはいたものの、いまだ身体中の毛穴という毛穴が開いたままなのは、現ならざる異界を垣間見たせいか。
「もしや渡辺さまに所縁あるお方ではございませんか?」
女が大事そうに抱えた袋の中身は、その形からして琵琶だろうことが知れる。一瞬、遊女かとも思ったが、身形は良いもののありがちな派手さはなく、浮わついたところも見受けられない。その所作も洗練されており、じつに卑しからぬ風情の女性だ。
うなづいてみせると、見るからに安堵した様子で女は息をつく。
「よかった。津守のご隠居さまをお訪ねでいらしたのですね」
「その通りだが……貴女は?」
「失礼いたしました。わたくし菟原で庵を営んでおりました法師道満が孫でございます。翠鳥とお呼びくださいませ」
津守翁から依頼された護衛の対象本人である。まさかここで行き逢うとは思わなかった。
「こちらこそ失礼を。某は渡辺綱と申します」
「まあ」
翠鳥と名乗った女が声を上げる。
「ご当主でいらしたなんて。まさか、ご隠居さま……」
「ええ。貴女を京までお送りするよう頼まれました」
「そんな、お忙しいでしょうに」
「構いませぬ。滝口のお役目のこともあり、普段から京と川尻を往き来しておりますので。近いとはいえ、何かと物騒な世の中です。ましてや最近は京の治安も良くない」
綱の言葉に翠鳥が美しい眉を顰めた。
「それほどでございますか」
「あまり言いたくはありませんが。それに一昨々年ほどではないにしろ、いまだ疱瘡も流行っております。ご隠居の心配ももっともかと」
五月から流行り始めた疫病は、この夏、猖獗を極め、京師中を席捲していた。身分の上下や男女老少、一切斟酌することなく、皆々に等しく襲いかかったのだ。
そもそもの話、都の治安が良くないのも未だ政情が完全には安定していないからで、原因はといえば中関白藤原道隆が疫病で亡くなったことにある。長徳の変を起こした中関白家の兄弟も一度は左遷され、太宰府と出雲に追いやられていたが、すでに去年の内に京へと戻ってきている。無論、左大臣藤原道長が政権を握っている今、そう簡単に復職などかなうわけもない。
ただ、伊周も隆家も未だ二十代だ。今上の寵愛深い妹の皇后が皇子を産み奉れば、いささかなりとも盛り返すことは可能だろう。何しろ左大臣が入内させようとしている娘は、十歳になるやならずといった年齢でしかない。
「正直言って、いま上洛するのはお勧めいたしかねます」
「……それでも。それでも京に行かねばなりません」
きっぱりと彼女は言った。
「わたくしは知りたいのです。こう申してはなんですが、我が祖父はこの日本でも一、二を争うほどの術者でございました。その祖父が常々口にしておりました言葉がございます」
被衣の下のかんばせは固い決意に満ち、その双眸は落ちる夕日を反射して爛々と輝いている。
「真理を究めたいのだと」
それはほとんど誓約のようだった。
「故に、わたくしは知りたい。どうして祖父が死んだのか。なぜ死なねばならなかったのか。なにゆえにあのような死を迎えたのか。わたくしは知りたいのです」
「そのために京へゆくとおっしゃるのか」
「はい。都には祖父を超える唯一人の御方がいらっしゃるとお聞きしております。古今随一の陰陽の道の達人が」
夕闇の中、子供たちの笑い声が風に乗って聞こえる。
微かに、ひそやかに。
それは託宣のようでもあり、確かな予兆でもあったのだ。