夢の魔法
【森を抜けた瞬間、誠一と真澄は走るのをやめ立ち止まった。
眼前に断崖絶壁が広がっていたからだ。
「どうしよう」
不安そうに真澄は言った。誠一は後ろを振り返った。化け物の群れが、どんどんこちらに近づいてくる。
「飛ぶんだ」
誠一は言った。魔法を使えば、こんな崖飛び越えることは造作もない。ただ、ひとつ問題があった。魔力を溜めるのに少し時間がかかる。その間に、追手はこちらに追いついてしまうだろう。
(どうする――?)
誠一は迷った。
「待って」
真澄が腕を水平に薙ぎ払った。その瞬間、世界が白黒になり、風、枝葉の揺れ、化け物たちの動き――自分たち以外のすべての動きが止まった。
「これは!?」
「私の時間操作魔法で時を止めたわ。でも、十数秒ぐらいしか持たない。その間に魔力を溜められるかしら」
「十分さ!」
誠一は屈んで、足に力を蓄えはじめた。やがて世界が元の色に戻り、動きだした。
「誠一、追手が……!」
真澄が叫ぶ。
「心配するな」
誠一は、真澄の腰を抱きかかえた。「飛ぶぞ!」と叫ぶ。
追手がふたりに追いつかんとするその瞬間、誠一は真澄を抱え、スプリンターのごとく飛び出した――】
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【1】
鶴洲 愛実には、この世界で起こる多くのことが、どうでもいいことだった。
流行のファッションにも、人の噂話にもあまり興味はない。
20才の頃、自分の父親が生まれながらの障害をもち、遠く離れた施設で暮らしているという事実を知った時さえ、さほどショックを覚えなかった。
彼女の興味の多くは、むしろ非現実な世界に向いていた。空想――彼女の源泉はそこにあると言っていい。
母の影響もあって幼い頃から本に親しみ、小学生の時分には頭の中で架空のストーリーを描いていた。文章にし始めたのは中学生のころ。はじめは原稿用紙1枚、2枚程度だったのが、高校生になる頃にはパソコンで長編程度の分量を書いていた。大学を卒業した今でも、その趣味をやめることはなかった。
もっとも、自分の作品を誰にも見せたことはない。大切に想うふたりの幼馴染にさえ、そんな趣味があると打ち明けたことはなかった。今後、誰かに見せようという気も微塵もなかった。物語を書くこと――それは彼女にとってたったひとりの楽しみだった。
今、書いているのは、ふたりの男女を主軸に描くファンタジーだ。もちろんフィクションだが、主人公のモデルとなっている人物がいた。先述のふたりの親友である。
彼らが数年来にわたって少しずつ互いの心を近づけ合い、恋人になる様子を彼女は間近で見てきた。それが故に、ふたりの恋路は彼女にとっても想い深く、心から応援したいと思えるものであった。同時に、物語を描くのにうってつけの題材でもあったのである。
(なのに――)
愛実は自分自身に違和感を覚えていた。執筆中、なぜか時折、胸がズキズキと痛むのだ。それは、活発な場面ではなく、ふたりの気持ちが通じ合ったり、幸せな時を過ごしている場面で訪れる。そしてその度に、胸の中にじんわりと悲しみが押し寄せるのだ。
「どうしちゃったのかなぁ――私」
愛実はキーボードから手を離し、椅子にもたれかかった。天井を見上げながら、ぐりぐりと腰を左右に動かす。
今日はもうやめよう――愛実が思ったその時、ピンポーンとチャイムが鳴った。誰か来たらしい。愛実の家は、母が古本屋を営んでおり、客ならば店から声をかけるはずだ。玄関から来る人はよほどの知り合いか業者の人と相場が決まっている。
「はいはい」
愛実は部屋を出て階段を降り、玄関に向かった。扉の穴から外を覗く。
「げっ、政じゃん」
愛実は呟いた。やって来たのは、親友のひとり、鳥須 真綾の弟・政だった。
【2】
鳥須 政は負け戦をすでに2度経験している。
鶴洲 愛実は彼にとってそれだけ強大な相手なのだった。
1度目は小学生の頃。アメリカへの留学に出発する直前、政は愛実にこう言った。
「大きくなって帰って来るからな、待ってろよ!」
すると愛実は「は、何言ってんの?」と、あざけるような顔で政の額にデコピンを喰らわせた。泣くほど痛かった。痣が消えるまで3日もかかった。
2度目は中学生の頃。アメリカより一時帰国した際だ。彼は愛実に再挑戦した。
「愛実、好きだ、俺と付き合ってくれ!」
愛実は一瞬ポカンとした顔を浮かべたが、しばらくしてそれはみるみるうちに鬼のような形相に変わり、
「こら、年上をからかうな! しかも名前呼び捨てにして!!」
と政の頭をむんずと掴み、力をこめてグリグリとした。
「痛えよ、やめろよ……!」
もがく政を愛実はさらにヘッドロックし、「アハハ、アハハハハ」と笑い声をあげながら彼の頭を何度も殴りつけた。
政はこの時ばかりは、愛実のことを悪魔だと思った。
それから3年――政は3度目の挑戦をしようとしている。
以前よりは勝算がある気がしていた。なぜなら、前の2戦を仕掛けた時は、「子供」と思われても仕方がない頃だったからだ。高校生ともなればそろそろ大人の仲間入りをしたといってもいいだろう、年齢差ももう問題にならないはずだ――彼はそんなふうに思っていた。
【3】
「……ひとり?」
玄関を開けるや否や愛実は言った。
「俺以外に誰かいるわけ?」
政は憎まれ口を叩く。愛実は子供じみたぶすっとした顔で、
「帰って。今忙しい」
と返したが、政は相も変わらずへらへらしている。
「それにしてはつまんなさそうな顔だぜ」
「う……」
見透かされたような気がしてしまう。実際、今しがた作業を中断したばかりであった。
「ちょっとくらいなら入ってもいいよ」
愛実は仕方なく、政を家に入れた。2階の自室に案内する。
「飲み物持ってくる。そこでじっとしててよ」
愛実はドアを閉め、階段を降りて台所に向かいながら首を傾げた。真綾ならともかく、その弟がひとりで家を訪ねてくる理由が分からない。
(まあいいや、用件が済んだらさっさと帰ってもらおう)
愛実は思った。
一方で、政は小さくガッツポーズをとっていた。
家の中に入れてもらえただけで一歩前進だ。別に告白するのは今日でなくてもいい。彼は長らくのアメリカ留学を終え、日本に戻ってきていた。焦る必要はない。これを機に、徐々に関係を深めていって、いい頃合いを見計らって実行に移せばいい。
彼はそう思っていた。
「さて……」
政はキョロキョロと部屋を見回した。「じっとしてて」と言われたものの、守る気はさらさらない。まして好意を抱く人の部屋だ。いたずら心半分、好奇心半分で、政は部屋を探り始めた。
とはいっても、とりわけ目立ったものがあるわけではなかった。こざっぱりとしていて、無味乾燥と表現しても差し支えないくらいの部屋だ。女子らしさのかけらもない。
ただ、机の上の大きなデスクトップパソコンが、存在感を放っていた。電源はついている。マウスを軽く触ると、ディスプレイが点いた。政は画面を覗きこんだ。
「これは……?」
映っていたのは、400字詰め原稿用紙のフォーマットにびっしり書かれた文章だった。
ペットボトルのジュースとグラスを持って、愛実は部屋に戻ってきた。
「ごめーん、遅くなっちゃったぁ……」
言いかけたところで、目に飛び込んできた光景に愛実は絶句した。彼女が見たのは、自分のパソコンを覗きこんで笑っている政の姿だった。
政はニヤニヤしたまま、愛実の方を向いた。
「おい愛実、まじかよ」
「あ……」
「お前、こんなの書いてんのかよ」
「あ、あ、あ……」
相も変わらずへらへらと笑っている政。呆気にとられた愛実の顔が、徐々に青ざめ歪んでゆく。
「…………うあああああああああ!!」
愛実は叫び声をあげた。ジュースとグラスが乗ったボードを地面に投げ捨て、政につっかかってゆく。
「何で見た何で見た何で見た!?」
愛実は政に掴みかかった。政は余裕そうな顔で言った。
「最初っから画面上に出てたぜ」
「『じっとしてて』って言ったじゃん!」
「それを守ると思う方がおかしい」
「誰にも見せたことなかったのに!」
「へー、俺が最初の読者ってわけか、そりゃ光栄だ」
愛実は顔を真っ赤にして、今にも殴りかからん勢いだ。けれど、政も負ける気はしなかった。小中学生の頃とは違うのだ。振り上げた愛実の拳を押さえつけ、政はさらに言った。
「愛実さあ――」
「呼び捨てすんな!」
「――すげーファンタジーな世界書くんだな。そんな才能があるなんて知らなかったぜ」
「……黙れぇ!」
「恥ずかしがんなよ、素直に褒めてんだからさ。でも、主人公の名前が“真澄”と“誠一”ってのはどうかと思うぜ。うちの姉ちゃんたちの名前、モジってんじゃん」
政の姉の名前は真綾、そして彼氏の名前は陽一だった。名前が似ていると政は指摘したのだ。そして、政のその言葉に、愛実の怒りのメーターが振り切れた。
「出てけっ!」
愛実は政を蹴っ飛ばした。愛実はさらに追い打ちをかけるように、政に向かって本やら文具やらそこらじゅうにあるものを投げつける。
「出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけ出てけッ、2度と来んな……!!」
【4】
しばらく後、ぐちゃぐちゃになった部屋で、ひとりうなだれる愛実の姿があった。
頬がひどく熱く、手で押さえる。秘密を思いもよらない人物に見られてしまった――。恥ずかしさにどうにかなってしまいそうだった。
「でも、どうして……?」
愛実は呟いた。
「どうしてこんなに恥ずかしいんだろう?」
普通に考えれば、いくら秘密にしていたものを見られたところで、ここまで取り乱す必要はないのだ。どうして――と自問自答してみて、愛実はその理由が考える間でもなく明らかなことに気づいた。
彼女が取り乱した理由。それは、秘密の趣味を知られたことではなく、その内容にあった。そしてそれは、彼女が執筆中に胸が痛むことにも共通していた。
現実世界に興味がないが故、自分の気持ちにさえ気づかず過ごしてきたことの弊害だった――。
真綾、陽一という親友カップルの仲を応援する、その気持ちに偽りはない。
しかし、その実、愛実は気づかないままに、陽一のことを好きになっていた。おそらくは、真綾が彼と付き合うはるか以前から。そのことにやっと気づいたのは、つい最近のことだった。
しかし、それでもなお、彼女は大した問題じゃないと、自分の胸にしまいこんでいたのだ。しかし、本心はそうではなかったらしい。やりきれない想いは、形となって現れた。ふたりを物語の題材にするということで、彼女はその想いを補完しようとした。
けれども、だからといって、解消されたわけではない。
だからこそ胸が痛むのだ。
だからこそ、政に突かれて、あんなにも感情が露わになったのだ。
愛実は思う。
本当の気持ちに気づいた以上、この気持ちと決別しなきゃいけない。
しまいこんでいるから辛いのだ。ならば、やるべきことは明確だ。
【5】
「あっはははは」
高島 陽一は笑い声をあげた。ちょうど電話で、政から先ほどの“負け戦”の報告を聞いているところだった。
「バカだなぁ。そりゃ、愛実も怒るよ」
『うるせーなぁ』
政が愛実のことを好いていることを、陽一は随分前から知っていた。彼の告白の後押しをしたこともある。その時、政は愛実に気持ちが届かなかったばかりか、彼女に頭を何度も殴りつけられるという散々な結果になってしまったが――。
『ちょっとからかうだけのつもりだったんだよ』
と政は言った。
「ま、あんまり軽はずみな行動は取らない方がいいってことだね。でも、諦めちゃダメだ。俺だって、真綾ちゃんと付き合うために何年も頑張ったんだから」
『へいへい……。にしても、あんな姉ちゃんのどこがいいんだか』
「真綾ちゃんのよさに気づかないなんて、同じ場所で暮らしていながら、それはとっても不幸なことだと思うよ?」
『ま、どーでもいいよ』
「――にしても、あの愛実に“秘密”があるとはねぇ」
一体どんな秘密だったんだろ――と、陽一は思う。かといって、聞く気もなかった。人の秘密を別の誰かから聞き出すような姑息な真似はしたくない。政も同じように思っているからこそ、あえてそこは話さなかったのだろう。
『――んにしても、やっぱ分かんないんだよなぁ』
ふいに政が言った。
「何が?」
『愛実のキレ方が尋常じゃなかったんだよ。普通、いくら見られたくないものを見られたからって、あそこまで怒るもんかねぇ』
「さあ? よっぽど嫌だったんじゃないか」
そこへインターホンが鳴った。
「ごめん、誰か来たみたいだ。電話切るわ」
と言って陽一は電話を切り、玄関へと向かった。インターホンのディスプレイを見ると、映っていたのは愛実だった。
陽一は通話ボタンを押した。
「はい、どうしたの?」
『ごめん、よーちゃん、ちょっと話したいことがあるんだ』
いつも能天気な愛実なのに、今日はいつになく真剣な声だ――と陽一は思った。
【6】
「何かあった?」
リビングのソファに座って、陽一は愛実を促した。愛実は緊張した面持ちで、身体も少し縮こまって見える。やはりいつもの彼女らしくない。
「相談事? 珍しいじゃないか」
政のことかな――と陽一は予想した。けれど、愛実は予想に反してこう返した。
「相談ってわけじゃないんだけど――」
愛実は少し目を泳がせた後、陽一の方をしっかと見て言った。
「実は、聞いて欲しいことがあるの」
「えっ、何?」
「あの、実はね――私、よーちゃんのことが好きだったの」
「――は?」
陽一は呆気にとられた顔をした。
「もちろん、よーちゃんがマヤーのことが大切なのは知ってる。でも、でもね、私、どうしても――」
「おい、ちょっと待てよ」
「えっ……?」
「それは愛実の思いついた新しいイタズラ? それにしては、悪ふざけが過ぎるんじゃない?」
陽一は声を怒らせていた。
「愛実にとっては面白半分かも知れないけれど、もし俺がそれを真に受けて、それで俺と真綾ちゃんの間に亀裂が入ったら一体どうするつもりなの? どう責任を取れるの?」
「わ、私そんなつもりじゃ……」
「愛実、そんな奴とは思わなかったよ」
「…………」
「政から聞いたよ。詳しくは知らないけれど、彼は愛実をからかったそうだね。それで怒ったんだろ。でも、だからといって、不満を別の人をダシにして解消しようとするのはおかしいんじゃない?」
「違う、違うの、私……」
陽一はソファから立ち上がり言った。
「悪いけど、帰ってくれない? 少し冷静になって、自分を見つめ直したら?」
【7】
「違う違う違う違う…………」
愛実は塞ぎこんでいた。かたく目をつむり、両手で両耳を押さえる。今は外のどんな情報も入れたくなかった。
「ふたりの関係を壊したいなんて思ってない。私は私の本当の気持ちと向き合いたかっただけ。本当の気持ちを知って欲しかっただけ。ちゃんと伝えて、ちゃんと受け止めてもらって、ちゃんとフッて欲しかった。よーちゃんとマヤーと、これからもいつもの関係でいたかった、それだけ。
なのに何で? 何で何で何で何で何で……!?」
それさえもしちゃいけないコトだったの――?
愛実はどうしたらいいのか分からなくなっていた。
真綾一筋の陽一のことだ。告白したところでどうにもならないことは、愛実にもよく分かっていた。だが、彼があれだけ怒るなんて、彼女にはまったく思いもよらなかった。
幼い頃から、彼女は周囲から「感情が欠落している」というようなことをよく言われていた。カウンセリングを受けないかと勧められたこともある。だが、なぜそんなことを言われるのか、彼女には分からなかったというより、考えもしなかった。
けれど今になって、彼女は気づいてしまった。今まで、あらゆることに対して無関心を決め込んでいた自分に。
そのツケがまるで溢れ出るように回ってきている。
他人の気持ちも――他者との関わり方も――そして自分の心さえ――分からない。
「私ってもうダメなのかなぁ――どうしようもないのかなぁ。もし、私がいることで、よーちゃんとマヤーが不幸になるのなら、もうあのふたりにも会いたくない……」
その時――、
「そんなこと言うなよ」
近くで声がした。
はっ――と顔を上げると、そこに立っていたのは政だった。
「え、えっ……?」
呆然自失の状態で、愛実はキョトンと政を見上げていたが、やがて思いきり目をひん剥いて叫んだ。
「ええええええーッ!?」
どうして彼がここにいるのか、愛実にはまったく理解できなかった。
【8】
「陽一から聞いてさ。愛実の様子が変だって。それで来てみたら、玄関が開いてて、店も開けっ放し。あぶねーって思ってさ」
政は今ここにいる理由をこのように説明した。
「だからって無断で入ってくるのはよくないと思うけど」
「なら警察に突きだすか?」
「それはしない」
「だよなぁ。戸締りも店じまいも一緒にしてやったんだもんなぁ」
「ふん、偉そーに。そっちこそ家に帰らなくていいのぉ? もう夜遅いよ」
「母さんと姉ちゃんには怒られるだろうなぁ。それは覚悟してる」
「そ。――でも、もう私には関わらない方がいいよ」
「何でだよ」
「聞いてたんでしょ。もう私、マヤーとは会わないから」
「はあぁ――!?」
政は露骨に眉をひん曲げた。
「愛実ってさ、大学出てんのにバカなんだな」
「――へっ?」
「あっ、父さんのこと考えると……。なるほど、大学とアタマは関係ないんだな」
政はひとり納得したように呟いた。
政の父親は、愛実と真綾が通っていた大学よりレベルの高い国立大学を卒業し、今はその大学の教員になっていた。政と彼の父とは長らく確執があると、愛実は真綾から聞いたことがあった。父を慕い同じ道を進みたいと思う真綾とは明らかに違うところだった。
「それはともかく――姉ちゃんと会わないからって、俺と会わない理由がどこにあるわけ?」
愛実は何も答えない。政はため息をひとつ吐いた。
「そもそも、何で姉ちゃんと関わらないって思ったんだよ。嫌いになったのか」
「ううん」
「じゃあ何で――」
「マヤーもよーちゃんも大好き。でも、私がいたら、ふたりに迷惑がかかるの」
「迷惑?」
「私なんかいない方が、ふたりは幸せになれるんだ」
「……何があったか知らないけどさぁ。そんなに自分を責めることないんじゃないの。少なくとも陽一は、愛実をそんなふうに思ってないみたいだぜ。むしろ、『愛実が変なのはお前のせいだ』って、俺に怒ってくるくらいさ」
「そうかな……」
それでも愛実は納得したふうではない。
「――愛実ってさぁ、本当に陽一とうちの姉ちゃんのこと、好きだよな。他の誰のことも目に入らないくらい」
「どういうこと?」
「俺のことはどう思ってる?」
「……?」
愛実は怪訝そうな顔を浮かべた。政が言わんとしていることがよく分からない。彼は親友の真綾の弟――それくらいの認識があるのは当然だ。けれど、それを今言ったところで、一体何になるのだろう。
「俺、愛実のこと好きだぜ」
「――へ?」
愛実は気の抜けた声を出した。
「もちろん、知り合いで、っていう意味じゃないぞ。女の子として好きだ」
「――知らなかった」
愛実は感情のこもらない口調で言った。
「何度も告白してたんだけどなぁ」
「そうだっけ?」
とぼけたわけではない。本当に覚えていなかった。政は少々残念に思ったが、数年も前のことであったことを考えると、仕方がないかという気にもなった。
「俺のこと、ちょっとでも考えてくれる気はないの?」
「……ごめん、分かんないや」
愛実はぽつりと言う。誤魔化したわけではなく、本当に分からないのだ。政の告白をどう感じて、どう返したらいいのか――。
自分が身勝手な人間だと今さら気づいた。陽一に想いを分かってもらえないと嘆きながら、自分は政の気持ちの受け止め方さえ分からないのだ。
「まぁいいさ――」
政は天井を見上げながら言った。愛実はずっと俯いたままだ。今、ふたりは、部屋の壁際に並んで座っていた。肩を並べていられるだけでも、政にとっては嬉しいのだ。
政は幼い頃からずっと、はるか年上の彼女に追いつきたくても追いつけない、というジレンマを抱えてきた。今になって、ようやく対等に話ができる間柄になれたのだという実感があった。
「そりゃそうと、さ――昼は悪かったな。からかったりして」
「…………」
愛実は顔を真っ赤にして唇を噛んだ。やはり、あの話は少し抵抗がある。
けれども政は続けた。
「けどさ、別に馬鹿にしてたワケじゃないんだぜ。むしろすげぇと思った。俺には文才もないし、あんな話思いもつかないし」
「――大したことないよ」
「そんなことない。愛実の夢は、その道で行くことなんじゃないの?」
「夢――?」
「目指してみてもいいんじゃね?」
「考えたこともなかったなぁ」
愛実はぼやくように言う。
「もったいねえよ。応募でもしてみたらいいじゃないか」
「それもいいかも――」
愛実は前を向いた。文学の道に進むことが本当に自分の夢だったとして、それに想いを馳せてみた瞬間、驚くべきことに急に後ろ向きな気持ちが洗い流されていった気がした。
「――まるで魔法みたい」
愛実は呟いた。
「は?」
愛実は政の方を向いて、顔を紅潮させ言った。
「夢ってすごい。人を元気にする力がある!」
「お前、中学生かよ」
と政は笑ったがすぐに、
「それも愛実らしいけどな」
とも言った。
「えへへ」
愛実はあどけない笑顔を浮かべた。
「その夢で多くの人を元気にしてあげたらいいじゃないか」
政が言うと、愛実はにっこりと笑った。
「うん、そうだね! あれ、でも夢が叶わなかったらどうしよう――皆を元気にできないよ?」
「叶うまで挑戦すりゃいいだろ」
「そっかー、そうだそうだ!」
愛実の悲しい色はすっかり吹き飛び、もういつも通りの能天気さを取り戻していた。泣いたカラスがもう笑ったとはこのことだ――と政は思った。もっとも、変わり身の早さは愛実の得意能力のひとつなのだ。
愛実は政の横顔を眺めた。私の密かな趣味を知る唯一の人、それを褒めてくれた人。心の底から嬉しいという感情が溢れてきた。人との関わりの中で、こんなにも喜びを感じたのははじめてだった。陽一と真綾が恋人同士になった時でさえ、ここまでではなかった。
愛実の中で、政の存在が急速に大きくなっていった。
「そうだっ」
愛実は声をはずませて言った。
「政、私の物語一番最初に読んだんだから、ずーっと応援してくれなきゃやだよ」
「えっ?」
政は驚いた声をあげた。愛実のこの言葉の意味はもしかして――という思いが頭をよぎる。
「私のファン第1号だよぉ!」
「ファンかよ……」
政は残念そうに呟いた。変な期待を抱くんじゃなかった、所詮愛実は愛実だな、と思う。けれど、そんな政の頬に、愛実はチュッと唇を押し当ててきた。
「……!?」
突然のことに、政は唖然として愛実を見た。愛実はニタリ、といたずらっぽい笑みを満面に浮かべながら、ガバッと政に飛びかかった。
「――つかまえたっ!」
【あとがき】
この場を借りて解説を。
一連のシリーズ小説がそれぞれパラレルワールドワールドという位置づけである、という可能性を除けば、本作は現時点で一番未来の話ということになります。
本作で愛実と政という7才差カップルが誕生したワケですが、
実は愛実と政どうやってくっつけようかなぁ――というのは、結構前から考えておりました。
愛実はこれまで、“感情が偏った子”として描いていたので、あることをきっかけに徐々に色んな感情が芽生え、人間らしくなってゆく過程を描くのは新鮮でした。
彼女の転機について描くのは実はこれで2度目です。ひとつは『エクストラセンサー』第2話のラストで自分の父親に出会った時。段階を踏んで成長していく様子を描くのは楽しいものでした。次の成長の機会は政がもたらしてくれるのかも知れません。
また、『インテリジェンス』のラストで凜と愛稀の間に芽生えた新しい命が政です。まだ登場回数は少ないですが、これから活躍させたいと思っているキャラクターです。
ではまた次のお話で。