9 こぼれ落ちていくんだ #1
後日、ある日の平日。ちょうど、朝食が終わった時のことだ。
四重郎の家に巨大な段ボール箱が届いた。詩織はその段ボール箱を部屋の中に入れ、封を開けた。中身は『パルスドール』だという。段ボールの中には、赤い髪の娘の身体が入っていた。詩織と同じくらいの身長だ。長い赤い髪は右側でひとつにまとめられており、色鉛筆をかたどった髪留めをしていた。髪色と同じ色のデニムジャケットにチェック柄のミニスカートを着たパルスドールは、本当に傍目には少女がそこで眠っていることと見分けがつかない。
「……あっと・パステル。一番新しいドールだ」
まだエプロンを着たままの詩織が呟いた。
「あっと?」四重郎はワイシャツの裾に腕を通しながら、そう聞いた。
「アットマークのことです。パルスドールの名前には、先頭にアットマークが入る決まりなので」
「そうなのか」
それ自体には大して興味もなかったが、四重郎は段ボールに入っている人形の完成度に驚いた。死体を送られたようにも見えて、あまり気持ちは良くない。
「四重郎さん、ちょっと試してみますか?」
詩織がそう言って、ヘッドセットのような機械を四重郎に手渡した。四重郎はそれを受け取り、時間を確認する。
「あー……うん、まあ少しなら良いか」
「今日、何かあるんですか?」
四重郎はスーツのサイズを確かめながら言った。
「こないだ、電話したところから連絡があって。今日は面接なんだ。昼過ぎだから、まだ時間はあるんだけどさ」
「まあ! それは勝負どころですね! がんばってくださいね!」
詩織は両手でファイティングポーズを取り、笑った。四重郎はそんな詩織の様子に苦笑いをした。ヘッドセットのような機械を装着すると、僅かな重みがあった。
「目覚めたとき辛いので、横になっていてください」
「ああ、分かった。……こうか」
仰向けに横になると、詩織がヘッドセットの電源を入れる。多少の緊張感の中、四重郎は目を閉じた。ヘッドセットから電子音のような音がしたかと思うと、四重郎の目の前にモニターのようなものが映った。
「まずは、IDを登録しないといけないんですね」
「ID?」
「人のDNAを基にして固有のID番号を作成し、パルスドールに登録するんです」
詩織はヘッドセットを操作しながら、そう説明した。
「ユーザ登録みたいなもんか」
「まあ、そんなところです」
ピピ、と軽快な電子音が鳴り、ヘッドセットのファンが回転し始めた。四重郎は固く唇を閉じて、両手を強く握った。
「心配しないでください。痛くもなんともないので」
目を閉じていたが、詩織が笑ったように感じた。
瞬間、世界がひっくり返るような感覚があった。めまいにも似ていたが、特に吐き気などは感じなかった。何かが変わった気がして、四重郎が目を開く。先程までと変わらない天井だったが――場所が違う?
四重郎が身体を起こそうと段ボールに手を掛けた。はっと気付いて、真っ白な――とても自分のものとは思えない手のひらを見詰める。
「四重郎さん、気分はどうですか?」
詩織の声が聞こえた。身体を起こして詩織を見ると、隣で四重郎の本体が眠っていた。四重郎は今、赤髪の少女を操作している――操作していると言うよりは、まるきり身体が入れ替わったような気分だった。手を握ればパルスドールの手の感触が伝わり、首を振れば視界が動く。
「ああ」
それは、なんとも妙な気分だった。
「……そっちの俺は、どういう状態なんだ?」
「眠っているようなものです。自我はそちらにあると思いますが、血行が悪くなるので寝返りなどはします」
四重郎はヘッドセットを装着して眠る、本体に近付いた。自分をまじまじと眺めるのは鏡を見るときくらいだ。左右反転されていないのが、妙な違和感を覚える。
「……変な状態ってことか」
「あは、まあそんなところです。命に別状はないのでご心配なく」
詩織は立ち上がり、エプロンを外した。四重郎の手を取ると、玄関扉へと向かう。
「食べるものは?」
「さすがに、本体も食べる必要はありますが。パルスドールも消化器官を備えているので、食べることはできますよ」
「へえ、すごいな……」四重郎は苦笑いをした。
「少し、外に出てみますか?」
鏡を見ると、二人の少女が仲睦まじく手を取り合っている様子が見えた。その異様な光景に、四重郎は眉根を寄せた。
「ああ――そうだな」
外に出ると、四重郎は眩しい太陽に目を覆った。辺りを見回すと、遥か遠くのマンションで人が出てくるのが見える。かなり視力が良いようだ。飛ぶ鳥の一羽一羽をはっきりと見ることが出来る。
「飛び降りることもできるんですよ。やってみますか?」
四重郎は七階から遥か下の地面を見た。
「いや、いいよ」
詩織に導かれるまま、階段を一気に駆け下りた。何故か、詩織は少し楽しそうにしていた。四重郎は未知の体験に戸惑いながら、前を行く詩織について行った。
「街まで出てみますか?」
「まあ、良いけど」
「どんな気分ですか?」
「……変な気分だ」
四重郎は苦笑いした。
詩織と四重郎は手を繋いで、繁華街に出た。四重郎自身はカップルで歩いているような気がしてどうにも気まずかったが、傍から見ると仲の良い女友達が二人で歩いているだけだった。
「なああんた、なんで俺が操作すること前提なのに女の子なんだ」
「パルスドール・サーカスには女性モデルしか出演しませんからね……」
「ものすごい違和感なんだが」
特に胸と尻が、と四重郎は言外に付け加えた。人の目がとても気になる。
「どこか入らないか、なんだか女装しているみたいで心臓に悪い」
「四重郎さん、あれは何ですか?」
「本屋だよ。知らないか?」
「ああ、あれが本屋ですか……話には聞いたことがあるのですが、実際に行ったことは」
「じゃあ、ちょっとそこ寄って隣の喫茶店に入ろう」
「はい!」
どうにも落ち着かない中、四重郎は詩織と本屋に入った。辺りを眺めていると、ふと本屋の角に面接についての本を発見した。思わず、四重郎はそれを手に取ってしまった。
何枚かページをめくると、よくある面接の質問と回答について書いてある。四重郎は流すようにそれを見ると、ある質問の項目でページを止めた。
『学生生活で力を入れたことは何ですか?』
四重郎は、この質問に回答できたことがない。学業です、と答えられれば都合が良いが、その回答は大学を諦めたことで嘘になってしまい、そう答えることができない。野球は遥か昔に諦め、四重郎はそれから帰宅部だった。恋愛なんて程遠い、趣味は持たない。ならば、一体どう答えたら良いのだろう。
『学生生活で力を入れたことは何ですか?』
強いて言うならば、学生時代を生き延びるために精一杯頑張った。それくらいの回答が妥当なのだろうか。それは一体どういうことかと聞かれれば、それ以上答えることはできない。だが、そう答えるしかなかった。
「四重郎さん?」
四重郎は背後で自分を呼ぶ声に気が付いて、本を閉じた。
「おう。満足したか?」
「四重郎さん、これ……」
四重郎が見ると、詩織は洋食についての本を持っていた。四重郎は軽く頷いて、その本を見た。
「欲しいのか?」
「はい。……ここは、本屋さんなのですよね?」
「そうだが」
「じゃあ、いただくことができるのですよね?」
「……まあ、金を払えばな」
詩織は急に明るい顔になって、ポケットから小銭入れを取り出した。金額が分からないようだったので、四重郎は本の裏側に書いてある値札を見せて金額を教えた。
「……あれ? いち、に、さん、し……この本、ゼロがひとつ少ないのではないですか?」
「いや、それで合ってる。万札をそんなに持ってることがおかしいんだ」
四重郎がそう言うと、詩織はあたふたと慌てだした。
「え、だって、四重郎さんの家賃? を払いに行った時は、これを何枚かそのまま……」
「部屋を借りるためには、それだけの金が必要だってことだよ」
「えっ……じゃあ、普通に買い物するときは全部これくらいの……?」
「その本が千円。飯を食うのに千円。俺が一日バイトして七千円くらい。自分がどれだけの金持ちか分かったか?」
「え、ええっ」
詩織は本と金を交互に見て、おろおろしていた。その様子が面白く、四重郎は軽く吹き出してしまった。
「もう、四重郎さんっ」
「いや、すまんすまん。ちょっと面白すぎた」
「とにかく、これを持ってあの並んでいるところに向かえば良いのですよね?」
「ああ、それでいい」
「四重郎さん、その本も買いますか?」
四重郎が手に本を持っていることに気付き、詩織は四重郎に声を掛けた。四重郎は首を振って、面接の本を戻した。
「もう、こういうのは沢山持ってるからな」
「そうですか。じゃあ、ちょっと行ってきますね」
そう言って、詩織はレジへと向かった。
「あ、ちょっとあんた」四重郎は詩織を引き止めた。
「はい?」詩織は振り返った。
「今更なんだけどさ。四重郎はやめないか。俺、今こんな格好なんだし」
「あー。じゃあ、四重子さんって呼びますね」
「いや、それは嫌だな……」