6 常識知らずと恥知らず #2
詩織が四重郎の家に住み着いてから、一週間ほど後の出来事である。
とある会社に面接の予定を伺ったところ、近いうちに来て欲しいと言われ、四重郎は面接の予約を取った。営業系の会社であまり給料は良いとは言えないが、今更そんな所で文句は言えないと感じていた。面接の予約が取れたことで、もう少し先まで東京に居座る理由が出来た。くだらないことではあったが、その結果が四重郎を少しだけ楽にした。
やはり、自分は実家には帰りたくないのだと改めて感じた瞬間だった。
「わあー!!」
詩織はどうやら本当に何一つ知らないようで、四重郎は家事の必要性からお金の使い方、街の紹介などを左から右へ説明しなければならなかった。詩織が今までどういった環境で生活していたのか。それを四重郎は知る由もなかったが、詩織はあまり触れられたくないことのようで、かたくなに話そうとはしなかった。
四重郎は詩織に聞くことをやめ、ひとまずは詩織の身の回りのもの――服や鞄などを、彼女の資金を使って揃えた。今日の詩織は清潔感のある白いダッフルコートに薄桃色のスカート、黄色いリボンのついた帽子を被っていた。初日に会った頃とは別人である。
「四重郎さん、なんか回ってますよ!」
「なんかじゃない、イワシだよ」
四重郎はひとつの仮説を立てた。株式会社パルスのことについて調べると、どうやら代表の名前は雨音宗之助というらしいのだ。詩織と同じ姓を持っていることから、詩織はとても高級な扱いを受けていたのではないかと推測した。
「四重郎さん、なんか浮かんでますよ!」
「そりゃマンボウだな」
つまりは雨音詩織は雨音宗之助の娘で、その上に箱入り娘だという認識なのだが、あながち間違ってもいないように思えた。
どうやら、学校にすら通っていないようなのだ。謎は多いが、四重郎はそれ以上何を考えても無駄だと思い、詩織について詮索することをやめた。何しろ会社の情報を調べた程度では、当然のことながら個人の情報にまで辿り着けることはない。仮に辿り着いたとして、それが四重郎にとって何かの利益になることもなかった。四重郎は詩織と相談し、しばらく家で匿う代わりに――詩織の持っていた資金を一部、家賃に回してもらえるよう頼んだ。詩織は快く承諾した。家賃はすぐに払いに行ったため、どうにか期限までに間に合った。
かくして、出て行くための準備とひと月ほどの猶予を手に入れた四重郎だった。金の価値を知らない少女。取引としては少し釣り合いが取れていないかとは思ったが、詩織も四重郎に匿って欲しいと頼み込んで来たのである。まして、相手はおそらく大企業の代表の娘。これくらいは望んでも良いのではないだろうか。
「四重郎さん、なんか歩いているものは?」
「……ていうか、水槽の近くにプレートがあるだろ。書いてあるから」
「なんと!」
詩織と一通りの自己紹介を終え、多少資金に余裕のできた四重郎は、詩織の希望で水族館に来ていた。
「生き物が沢山いますね……」
「今まで、来たことなかったのか?」
「はい。気兼ねなく歩けるようになったのも、わりと最近ですから」
関われば関わるほど、四重郎には詩織が謎の人物に見えて仕方がなかった。詩織には何も聞かないことにしたため、四重郎は質問することをやめていたが。四重郎が時計を確認すると、既に時間は正午を回っていた。
「そろそろ飯、食べに行くか?」
「あら、もうそんな時間ですか?」
四重郎は時計を詩織に見せた。
「屋上に展望台があって、そこでも飯が食べられるみたいだけど」
「あの四重郎さん、もし良ければ公園でお昼を食べませんか?」
「公園? 良いけど、露店なんて出てないと思うぜ?」
詩織は手にぶら下げた鞄を指差して言った。
「お弁当、作って来ました」
四重郎は怪訝な瞳で詩織を見た。
「……フラグ? じゃないよな?」
「フラグとは?」詩織は首をかしげた。
「いや、いい」四重郎はため息をついた。
二人は公園にたどり着くと、適当なベンチに座った。いそいそと鞄の中を漁る詩織は、少し見ていて可愛らしい。
「お弁当として料理を作るのは、初めてなのですが」
そう言いながら詩織が広げた弁当は、大層立派なものだった。かなり手間が掛かっているように見えるが、家を出る前にこれを作っていたのだろうか。他の家事は何一つ出来ないのに、と四重郎は言いそうになってしまった。
「料理、好きなのか?」四重郎がそう聞くと、詩織は少し顔を赤らめて頷いた。
「これだけが、唯一の楽しみなんです」
上等な唐揚げを口に放り込むと、豊かな味が広がった。しっかりと揚げてあるのに、油がしつこくない。大したものだと四重郎は思う。
「だったら、なんでアクションショーの俳優なんかやってんだよ」
「……色々、事情がありまして」
「そうか」いつもそればかりだ、と四重郎は思った。その空気を察したのか、詩織は慌てた。
「すいません。話せないことばっかりで」
「いや、別に良いよ。俺はそもそも、完全に部外者なわけだしな。聞く気もない」
「……そう、ですか」
突き放すつもりではなかったのだが、詩織は少し寂しそうにした。難しい娘だ、と四重郎は思った。見た目は十六歳くらいだろうが、年齢も教えて貰えない。中身はもう少し大人びていそうだが。
「あんたが帰る気になったら、まあ俺の前からは居なくなって、それで終わりだろ」
「帰りたくないです」
「それはそれで困るんだけどな……じゃあ、どうして逃げて来たんだよ」
「それは、私が『パルスドール・サーカス』の役者でいることに限界を感じたからです」
「じゃあ、やめれば良いんじゃないのか」
「そうも、いかないんです」
「じゃ、何で逃げて来たんだ」四重郎はため息をついた。
結局、何を聞いても曖昧な答えが返って来るだけなのだ。あれから街を歩いて雨音詩織脱走についての事件を調べてみたが、該当のニュースはいくら探してもなかった。株式会社パルスそのものが事件にしていないなら、四重郎も無理に追い出す必要はない。
「……ごめんなさい」
「隠し事が多過ぎるから、聞いても仕方ないわけだろ。金は払って貰ってるし、俺は黙ってあんたをそばに置いておくだけだ」
詩織は申し訳なさそうに俯いた。四重郎はこれ以上何を聞く気もなかった。元より匿う代わりに家賃を払ってもらう、それだけの関係なのだから。四重郎は弁当箱を詩織の鞄にしまい、立ち上がった。すると、詩織が四重郎の袖を引いた。
「……諦めたく、なかったんです」
「何を?」
「生きることを」
随分重たい言葉が出てきた、と四重郎は思った。どういうことかと聞き返そうとした時だった。
「あれ、おっさん?」
嫌な言葉が聞こえた、と四重郎は思った。声のする方向を見ると、真理が走って来た。
「やっぱりおっさんだ!」
「よう、東雲。何してんだこんなとこで」四重郎は引きつる笑顔で真理を迎えた。
「カズ君と待ち合わせ。何それ、彼女?」
「かっ……」
詩織が顔を真っ赤にして、帽子で顔を隠した。真理は面白くなさそうに唇を尖らせた。
「彼女じゃない。それと人のことをあれとか、それとか、おっさんとか呼ぶな」
「最後だけやたらリアルだね」
「お前が言ったんだよ!」
「そうだ、おっさんに会ったら渡してくれって。カズ君から言われてたんだよ」
一馬が? 四重郎はつい気になって、発言を止めた。真理は鞄から分厚い書物を取り出すと、四重郎に手渡した。四重郎はそれを見たとき、胸の辺りが締め付けられるような感覚を覚えた。
「あたしのが街を徘徊するからねー。会うこと多いだろって。ビンゴだったね」
「……ああ、ありがとう」
それは、大学受験用の参考書だった。真理は手を振って、四重郎のそばを通り抜けていく。四重郎はしばらくの間、その面影をぼんやりと眺めていた。真理が遠ざかって行くのを確認して、詩織がおそるおそる四重郎を見た。
「四重郎さんは普段、何をしていらっしゃる方なんですか」
詩織にそう問い掛けられて、四重郎は返答に困ってしまった。自分は今、何をやっているのだろうか。
「どうして、そんなこと聞くんだ」
「そういえば、四重郎さんのこと、私は何も聞いていないなと思いまして」
四重郎は回答を探し、そして――無難な言葉を選んだ。
「……仕事を、探しているんだ」
それは、嘘偽りない言葉だった。四重郎は確かにずっと仕事を探していて、就職面接を何度も受けている。一度として受かったことはないが――……。詩織は顔を明るくした。喜ばれると思った。
でも、どうしてだろうか。
「素晴らしいことです。四重郎さんは、自由なんですね。出会ったばかりの私に優しくしてくれて、何も聞かずに匿ってくれて。本当にすごい人です」
詩織は四重郎に笑い掛けた。だが、とてもその笑顔に応える気にはなれなかった。
どうして――どうしてこんなにも、後ろめたい気持ちにさせられるのだろう。
「立派なもんじゃないよ。本当は大学に行こうとしていて、それを諦めて仕事を探すんだ。だから――決して、立派なもんじゃない」
言い訳をするように、そう呟いた。だが詩織は、気に留めてもいないようだった。
「それでも、自分で決めてそうしたのでしょう? それなら、良いじゃないですか」
いっそ、蔑んで欲しかった。自分をおっさんと呼ぶ、あの連中と同じように。
「大学受験に失敗したんだよ、俺は」
四重郎は駄目な男だと、そう言って欲しかったのかもしれない。
だが、詩織は笑い掛けた。
「一生懸命頑張って失敗したのなら、それは立派な経験ですよ。努力した分だけ、きっと誰かがどこかで見ていますから」
四重郎は、頑張った。それは、四重郎自身が何度も口にしてきた言葉だった。
「……そうかな」
「はい! 羨ましいです、私は仕事を選べるような立場ではなかったから」
だが、四重郎の努力が実ったことは、一度としてなかった。
「私も、仕事が選べるのだったらお料理のお仕事に一度、関わってみたかったなあ……」
「……好き、なのか?」
「はい。美味しいご飯を人に食べて貰えるの、昔からの夢なんです」
「……夢、か」
自分は何を夢に見てきただろうか。
「本当は。やってみたい」
やればいいじゃないか。四重郎はつい、詩織の背中を押したくなってしまった。だが、それは無関係の自分にとってはあまりに無責任な言葉だった。その時初めて、四重郎は自分の背中を押す喫茶店の――渋沢のことが、少しだけ理解出来た気がした。